太田述正コラム#5368(2012.3.19)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その9)>(2012.7.4公開)

 「開国後、身内集団原理を極める攘夷思想に狂った武士達は、貿易商人に対して「天誅」と称するテロを繰り返した。もちろん、外国人は外国人というだけで問答無用の無差別テロの標的である。ではこのとき、一般民衆はどうしていたか。橋川文三は、オールコックの『大君の都』やゴロヴニンの『日本幽囚記』などの文献から、この頃の日本の民衆が外国人に敵意を表することが極めて少なく、むしろ心温まるヒューマニズムを見せていたと論じ、武士階級の排外主義との間の対照性に着目している。」(151〜152)

 松尾は、吉田ドクトリンで洗脳され、去勢された戦後日本人の典型です。
「天誅」を決行したことの是非は別として、武士達が外国人を敵視したのは当たり前です。
 鎖国の是非もまた別にして、ペリーが(下掲のように)武力による威嚇を用いて日本を、その意に反して開国させたことは厳然たる事実だからです。

 「<1853年の一回目の来航の時、>ペリーは、率いる艦艇群に対し、日本の布陣(lines)を横目に首都の江戸に向けて航行し、大砲を浦賀に向けるよう命じた。ペリーは、去れとの要求を受け容れることを拒んだ。次いで彼は、ミラード・フィルモア大統領からの手紙を<日本側に>手交する許可を求め、この米小艦隊の周りの日本側の小船群を遠ざけないなら武力を行使すると脅した。
 ペリーは、日本人達を脅迫するために、彼らに、白旗と、彼らが戦いを選んだ場合は、米国人達は彼らを撃破せざるをえない旨を記した書簡を渡した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_C._Perry

 実際、このペリーによる日本開国(Opening of Japan by Commodore Matthew C. Perry and his Black Ships (1853〜54))は、国際的に、砲艦外交の代表例の一つとされているところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gunboat_diplomacy

 このような砲艦外交を行った米国、及びその驥尾に付した、欧州列強(、並びに欧米列強人達)を軍事的脅威と受け止めた(ところの、弥生モードを一貫して忘れることがなかった)武士達の方が正常であって、開国の前後を問わず、極楽とんぼであり続けた(ところの、縄文モードにどっぷり浸かった)一般民衆の方がおかしかったのです。
 そもそも、武士達は、欧州列強が次々にアジアを植民地化してきていることも、1840〜42年の理不尽な阿片戦争のことも知っていたはずですから、ペリーの来航により、彼らの危機意識がどれほど高まったか、想像に難くありません。
 松尾には、初めてイギリス人植民者達と接触したところの、(現在の)ニューイングランド地方にいたインディアンの対応について聞いてみたいものです。
 あなたは、イギリス人を歓迎したインディアンを褒め、敵視したインディアンを非難するのですか、と。
 結果的には、ニューイングランド地方にいたインディアンを含め、インディアンの全ては、現在、不毛の地の狭いインディアン居留地に押しこめられ、その人口は激減しているわけです。
 我々は、欧米列強の日本来航に対し、敵対的態度をとった武士階級が日本に存在していて、彼らが(インディアン達とは違って、)短時日のうちに日本の体制を一新し、彼らや彼らの後継者達が欧米列強に対抗できる軍備や経済力を速やかに整えてくれたことに感謝すべきなのです。

 「石田梅岩に影響を与えた者として、・・・下関市立大学の川野祐二・・・が<あげ>ているのは江戸時代初期の鈴木正三(1579〜1655<年>)<(注22)>である。鈴木正三は・・・三河武士だったが、後に出家する。・・・
 正三の主著とも言える『万民徳用』を読んでみると、石田梅岩や近江真宗同様、特別の修行や加持祈祷ではなく、働くことそれ自体を仏教修行とみなす叙述が隋所に見られる。」(156〜157)

 (注22)「曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。・・・<1620年、>42歳で遁世し出家し・・・た。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。・・・島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹(カソリック・キリスト教)の教義を理論的に批判した。・・・天草住民への重税に抗議して切腹した弟の重成の後を継いだ自分の実子の重辰を後見し、天草の復興事業にも尽力し<た。>
 <彼は、>・・・特定の宗派に拘らず、念仏などの教義も取り入れ、・・・「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を重視し、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。
 また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E4%B8%89

 このくだりは、松尾は、石田梅岩を論じるより前の所に持って来るべきなのに、そうせず、ずっと後になって追補的に付記したのは、彼の論理が破綻していることが誰の目にも明らかになってしまうからだと想像されます。
 (そこまで周到なら、どうして鈴木正三への言及を完全に落とさなかったのか、不思議です。松尾は、良く言えば私の言う連歌的論述(コラム#763Q&A、991、1044、1067Q&A、2322、2867、2921、3647、4786)を行う人物であり、悪く言えば非論理的な人物なのでしょうね。)
 鈴木正三こそ、江戸時代において初めて職分説を唱え、各職分はそれぞれ天職なのであって、各職分において職務に精励することが、即宗教的勤行である、と主張した人物であるわけですから、梅岩は、単にそのうちの商人の職分について、若干敷衍しただけだ、ということになってしまいかねないからです。
 それに、正三がどうして全職分のことを考えたのに、梅岩は商人という職分のことだけしか考えなかったのかと言えば、正三は武士だったので、為政者として全体のことを考えざるをえなかったのに対し、梅岩は商人だったので、商人だけのことを考えれば足りたからだ、とも言えそうですからね。
 私の説が正しく、松尾の説は間違っていることは、もはや明らかではないでしょうか。

 (7)第六章

 「明治維新で権力を握ったのは、薩長土肥の下級武士である。それゆえ、明治維新政府が採用した公式倫理はやはり、彼ら武士の倫理たる身内集団原理の論理であった。明治政府は義務教育制度を導入し、「修身」科目をはじめとして、学校教育を通じてこの身内集団原理の道徳観を、全国民に押し付けていった。・・・
 だが、明治維新国家は近代化をしなければならないのである。そのためには領主制の貢納経済を廃止し、本格的な資本主義経済を生み出さなければならない。すなわち、利潤を目的として市場取引することが公然と全面化した社会を作らなければならない。これは本来なら商人道のような開放個人主義倫理がメジャーになるべきことを示している。これは維新政府自身の唱道する倫理体系と矛盾している。・・・
 そこで明治政府がとった解決が、「和魂洋才」であった。
 すなわち、倫理観の中心には武士道由来の身内集団原理がしっかりと据え付けられる。これが「大義名分」となる。それに対して、利潤追求の市場取引や科学技術は、この目的のために奉仕する「手段」とされる。」(165〜167)

 松尾はどうしてこんな風に、日本を貶めるような後ろ向きの物の見方しかできないのでしょうか。
 彼は、宗主国の米国と属国日本の米日だけが世界だと思っているのかもしれません。
 松尾は、18世紀末から19世紀初頭にかけてのオスマントルコのセリム3世(注23)による欧化軍事改革

 (注23)1761〜1808年。スルタン:1789〜1807年。「イェニチェリを廃して西洋式の軍制である「ニザーム・ジェディード」を創設しようとした<が>、イェニチェリの反乱により・・・廃位されてしまった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%A03%E4%B8%96

や19世紀前半のエジプトの事実上の支配者たるモハメッド・アリ(注24)による欧化改革

 (注24)ムハンマド・アリー。1769?〜1849年。エジプト総督:1805〜1848年。「<彼>の実施した政策について山口直彦は、「日本の明治維新や清の洋務運動、さらには現在の開発途上国の経済自立・工業化政策を先取りする画期的な試みであった」と評している。加藤博は「迫り来る西欧列強の進出のなかで非西欧世界が自立的な近代国家建設を目指した、最も早い試みの一つであった」と評している。さらに加藤や牟田口義郎も、<彼>の政策は明治維新と同様「和魂洋才」の精神に基づくものであったと評している。山内昌之は加藤や牟田口と同様の見解に立ちながら、近代的国営工場の経営に失敗した点が明治維新との違いであると指摘している。・・・<民衆>は過重な税負担や兵役、強制的な労役を課された。H.A.リブリンは・・・<彼>の治下で国民所得は増加したが、農民の生活水準の改善と向上はみられなかった。かれは、しばしば民衆の福祉を口にのぼらせたが、社会的関心を実行に移すときは、民衆への新しい負担と圧殺的搾取を添加するだけに終わった・・・<と>指摘している。山内昌之によると「アラブ人でもなくエジプト人でもなく土着の民に愛情の薄かった」<彼>は民生安定の視点に欠けていた。・・・<結局、彼の>政策<は、>前近代的、非民主的<だったのだ。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC

や、日本と同時期に行われた、まさに和魂洋才の清版たる中体西用(注25)

 (注25)「清王朝で19世紀後半に展開された洋務運動のスローガン。・・・皇帝が絶対的な権限を持つ支配体制や儒教の色彩が強い従来の価値観は正統性・優位性の主張を堅持し、技術導入のみで清の皇帝専制体制維持や軍事力強化が可能だとした。これにより清では多くの施設が建造されたが、憲法制定による立憲君主制の採用で制度自体を西洋化した日本に対して1894年からの日清戦争で大敗した事で、中体西用論に基づく洋務運動の限界が露呈した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BD%93%E8%A5%BF%E7%94%A8

が失敗したのに、どうして日本の和魂洋才だけが成功したのか、と前向きの問題意識を持つべきだったのです。
 そうすれば、和魂がイスラム魂や支那魂に比べて、はるかに近代適合的な魂であった、というより既に近代的魂であったからだ、という結論にならざるをえなかったはずなのです。

(続く)