太田述正コラム#5352(2012.3.11)
<大英帝国再論(その17)>(2012.6.26公開)

<スーダンの追記>

 「・・・<スーダンの>青ナイル州と南コードファン州の叛乱者達<(コラム#5324)についてだが、>・・・これらの地域は、自治を選ぶかどうかの投票が認められるはずであったところ、ハルツームはこれを阻止した。
 南スーダンの首都のジュバに駐在している、スーダン人民解放運動<(コラム#5322)>−北部(SPLM-North)の人道連絡調整官・・・は、<彼ら叛乱者達>の狙いは、ハルツームにある政府を変えることであって、新しい国家をつくることではない、と言う。・・・
 SPLM-Northは、ダルフール<(コラム#5322)>の三つの叛乱運動と連携する協定を締結した。・・・
 SPLM-Northは、南スーダンから支援を受けていることをいつも否定しているし、南スーダン政府もまた、この叛乱者達とは何の関係もないとしている。
 ジュバは、ハルツームとの間で、お互いに相手方の諸州において、叛乱者達を支援しないとの協定を締結しているが、両者ともこの条約を無視している可能性が高い。・・・」http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-17276865
(3月10日アクセス)
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4 終わりに

 クワルテングの本の米国版が出たようですが、その序文を引用しましょう。

 「・・・色んな意味で、大英帝国は余りにも個人主義的だった。
 それに加えて、<本国における>民主主義政治は気まぐれであり、その結果、一貫した路線が採用されることはほとんどなかった。
 このような個人主義のタイプを、私は「古典的(anarchic)個人主義」を呼んできた。
 というのは、「現場にいる男」・・と<本国の>植民地省の官僚達が呼んだ者・・が、自分が最善と思った行動の路線を追求することを止める手段はしばしば何もなかったからだ。
 個人主義という観念がヴィクトリア期の英国人にとってどれほど重要であったはしばしば忘れられている。
 エジプトの副王(Khedive)、後には国王、の形だけの政府の下で英国の総領事(Consul-General)としてエジプトの行政を行ったところの、クローマー(Cromer)<(注56)(コラム#2142)>卿は、「すなわち、我々の思想の習慣、我々の過去の歴史、そして我々の国民性の全ては、<英国の>国家拡大の営為(work)において、出来うる限り広範に、個人主義を許容する方向を指し示している」と喝破したものだ。・・・」
http://www.latimes.com/entertainment/news/la-ca-kwasi-kwarteng-20120226,0,3046957.story
(2月25日アクセス)

 (注56)Evelyn Baring, 1st Earl of Cromer。英陸士卒。1841〜1917年。1878〜79年:エジプト財政監督官(controller-general in Egypt)。1883〜1907年:駐エジプト英総領事。
http://en.wikipedia.org/wiki/Evelyn_Baring,_1st_Earl_of_Cromer

 クワルテングの一連の指摘は、いちいちもっともなのですが、彼が、英本国の民主主義的気まぐれや植民地官僚の個人主義的統治による英帝国統治の一貫性の欠如にばかり目を向け、英国の植民地統治には「最優先の政策もなければ、一貫性もなければ、戦略的方向性もなかった」(コラム#5306)で片づけてしまって、英国の植民地統治哲学ないし統治戦略について掘り下げた考察を行わなかったのは極めて残念です。

 たまたまここに名前が出てきたクローマーによる実際のエジプト統治の一端をご紹介しましょう。

 「・・・<英領インド帝国では、英語による高等>教育の直接の対象はごく少数のエリート層に限られており,しかも彼らのほとんどが都市部(特にカルカッタが重要)の男性ヒンズー教徒であり,女性や低カーストの人々,またイスラム教徒もほとんど含まれていなかった。また,英語による教育といっても,それを通じて英語が広く浸透したわけではなく,例えば1901年の国勢調査によれば,英語を話す現地人は男性と女性でそれぞれ全人口の0.0056%と0.0001%に過ぎなかった。・・・
 一部の現地人エリートにたいして高等教育レベルの人文教養教育を本国言語によって行う<、という>の<が、>マコーレー<(注57)(コラム#1794)>が提唱した、<この>マコーレー>主義的教育・・・であった。・・・

 (注57)Thomas Babington Macaulay。1800〜59年。ケンブリッジ大卒。1835年にインドにおけるマコーレー主義的教育を提唱。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Babington_Macaulay,_1st_Baron_Macaulay

 クローマー<は、エジプト赴任の>・・・直前までインドに滞在しており,・・・彼はインド時代からマコーレー主義に違和感を感じていたようであるが,彼がエジプトへと離れたあと,インドでは1885年の国民会議派の結成をへて,「マコーレーの子供たち」による反植民地主義的な動きがいよいよ顕在化するようになる。
 <そこで、>クローマーは・・・自らのエジプト支配においては・・・「多弁で,中途半端に教育された現地人」が「扇動者」となってナショナリズムを牽引する可能性の芽をあらかじめ摘むことを試みたのである。・・・
 <彼は、>教育省の公共事業省内の一部局への格下げ(1883年)や授業料自己負担の方針などにも表れていたように,教育政策全般に関してほとんど怠慢ともいえるほどに消極的であったことが指摘されているが,ここで特に注目されるのは・・・クローマー<が,>大学教育の政府による提供はそれがナショナリズムにつながることを懸念して拒否し<,>また,彼の時代,英語による高等教育は,法律,医学,工学,農学,薬学などの専門教育機関で行われたが,そこでの重点は専門的,実用的な学問であり,インドで行われたようなエリート官吏養成のための教養教育は排除<したことである>。・・・」
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00013499&elmid=Body&lfname=007000850001.pdf

 既に、何度か指摘したところですが、このような初等中等教育の軽視ないし無視というのは、(日本の植民地統治と比較した場合の)英国の植民地統治の重大な欠陥の一つなのです。
 結局、教育政策における植民地官僚の個人主義的多様性は、高等教育において教養主義をとるか実用主義をとるか、という狭い枠内のものであったことが分かります。
 (どちらも古代における大文明発祥地であることから、原住民の教育水準のかさ上げの潜在的可能性が大きいと考えられるインド亜大陸とエジプトにおいてすらそうだったのですから、それ以外の植民地では、基本的に高等教育さえ軽視ないし無視された可能性が高い、と考えてよさそうです。)

 そのような手抜き統治がなされたのはどうしてなのでしょうか。
 「「交易を促進せよ(encourage)」というのが唯一の指示だったのだ。」(コラム#5314)ということが重大な手掛かりになるのです。
 私が、アングロサクソンの生業は戦争だと申し上げてきたこと(コラム#41等)を思い出してください。
 生業ですから、できるだけ自分達の死傷者数も相手方の死傷者数も少なく抑えなければならないし、略奪もほどほどにしなければならない。
 さもなきゃ、相手が疲弊しきってしまうか逃散してしまって、二度と襲えなくなりますからね。
 その彼らは、時代を経るに従って、一層巧妙なやり方をとるようになります。
 すなわち、間歇的な戦争による略奪というやり方に替えて、相手方の拠点に小規模の軍隊を恒常的に駐留させ、ほぼ全球的な制海権を確保し、いつでも海上経由で援軍を呼び寄せられるようにすることで、秩序を維持できるようにした上で、最小限度の行政、及びその行政のための経費と軍隊駐留経費とを賄えるだけの最小限度の徴税を行うとともに、原住民に英本国の高度な商品や他国の珍しい商品を売り込むことで恒常的に利益を植民地から本国に吸いあげる、というやり方を採用したのです。
 (典拠付きのきちんとした議論は他日を期したい。)

 「アングロサクソン社会の「開放個人主義原理」は、セットたる独裁制、及び、緊張関係にある人間主義的文化、という二種類の異なった非個人主義的「原理」によって掣肘を受けているからこそ、この社会は、消滅することなく生き残り、繁栄を続けてくることができた、と私は考え<てい>るわけです」(コラム#5344)が、植民地においては、英国人による恒常的独裁制によって秩序こそ維持されているものの、人間主義的な要素は皆無の状態で、交易の名の下での恒常的収奪が行われた結果が、インドにおいては、繁栄どころか、綿織物産業の壊滅であり、累次の天文学的餓死者を出した大飢饉であった、ということになります。
 このように、松尾匡ご推奨の「開放個人主義原理」のみの世界がどれほど酷薄で暴虐な世界であるかは、大英帝国の非白人植民地を見れば一目瞭然なのです。

(完)