太田述正コラム#5310(2012.2.19)
<大英帝国再論(その6)>

 英国の若干の人々にとっては、大英帝国は、民族的な「他者」を統治することというより、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、及びカナダの同僚英臣民達のいるコミュニティのことだった。
 また、世界の一部には、アルゼンチンのように、地図作成上の赤で色づけられることが一度もなくても、それにもかかわらず、英国人が長期間にわたって優越的地位を占めたところがあった。
 そして、英国による帝国プロジェクトが近代性を強制したのかその反対だったのかだが、ややこしいことに、同じ地域で時にはその双方をやったのだ。
 19世紀末には、ニュージーランドは社会福祉プログラムと女性参政権において世界の指導者だったが、当地の白人植民者達は、マオリ族を大量に絶滅させるために暴虐的な力を用いた。・・・
 イラク、スーダン、ビルマ、ナイジェリア、カシミール、そして香港。
 クワアルテングが描写するように、そのどこにおいても、ロンドンはそれほど(或いは全く)自由民主主義の普及(advance)への関心など持っていなかった。
 そして、その大部分において、その支配の質<が低かったため、>将来に向けて問題を山積するのを助長した。
 カシミールでは、住民は当時も現在も主としてイスラム教徒であるのに、英国人達はヒンドゥー教徒の家による支配の樹立を支持した。最初から、それが不人気で抑圧的であることを認識していながら・・。
 ビルマでは1885年以降君主制が廃止され、この国は英領インドの一つの州へと矮小化された。
 イラクでは、逆に、英国人達は「先行するいかなる基盤もないのに」新しい君主制を創造した。
 その一方で、ナイジェリアでは、異なった諸地域と部族的諸集団が容赦なく、かつ不完全に混淆された。
 クワルテングは、これらの多くが適切な中央における計画が欠如していたこと、そしてその結果として、英国の帝国的階級のメンバーたる「現場にいる男達」への過度の依存に起因するとする。
 彼は、これらの個人達の若干について、鋭利なペンによる肖像画を供給する。
 ジョージ・ゴードン(George Gordon)<(注33)(コラム#208、590、4284、4902)>のような、エデンの園はセイシェル(Seychelles)にあったと信じた狂信者、「優越的地位となる感銘を与えるために生まれてきた」ジョージ・ゴールディ(George Goldie)<(注34)>のようなむつかしい男達、日本の戦争捕虜となりつつ生き延び、香港に民主主義的改革の諸措置を導入しようとして成功しなかったところの、サー・マーク・ヤング<(前出)>のような価値ある衆生達<等々。>

 (注33)Major-General Charles George Gordon。1833〜85年。ウリッチ(Woolrich)の英陸士 (Royal Military Academy, Woolwich。ただし、工兵・砲兵将校育成用)卒。クリミア戦争、義和団の乱で活躍。その後、英国政府の許可を得てエジプトの太守(Khedive)に仕えてスーダン平定に参画した。世界各地を転々とした後、英・エジプト共同統治下のスーダンの総督に任命される。しかし、叛乱軍(マーディ)の手にかかってハルツームで殺害される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_George_Gordon
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Military_Academy,_Woolwich
 (注34)Sir George Dashwood Taubman Goldie。1846〜1925年。の英陸士(工兵・砲兵用)卒。現在のナイジェリア地域において400以上もの条約を部族長達と締結するとともに、かつての東インド会社的なものをこの地域を対象に設立しようとし、1886年にそれに成功し、その副総裁(vice-governor)に就任、総裁が死んだ1895年には総裁に昇格する。この会社の活動領域を中心に、ナイジェリアは1900年には英領となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Taubman_Goldie

 更に、より広い視点から、クワルテングは、英国の帝国行政官達がいかに狭い範囲から募集されていた、彼らのうちどれだけ多くがパブリック・スクールとオックスブリッジから送り込まれていたかを確認する。
 1902年から56年までの間、英国アフリカ行政機構(British African administration)の選良と見なされていたところの、スーダン政治機構の70%がオックスフォードかケンブリッジの卒業生だった。
 その論理的帰結として、ガートルード・ベルのようなごく少数の例外を除き、英植民地行政機構の上澄みは、極めて男性的な世界だった。
 スーダンは、「エネルギッシュな独身男性達の土地」であると言われたものだ。・・・」(C)

 「・・・我々の時代におけるイラクの悲惨な状況は、アラビアのロレンスの古い戦友であるスンニ派のファイサルをほとんどシーア派の「王国」の統治者に据えるという、ガートルード・ベルとウィンストン・チャーチルがほとんど恣意的に行った諸決定の直截的帰結なのだ。
 経済的かつ政治的諸問題を抱えたスーダンは、ある意味で、キッチナー(Kitchener)<(注35)>卿の遺産の上で動き続けている。

 (注35)ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Field Marshal Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener。1850〜1916年)。英陸士(工兵・砲兵用)卒。
 「1884年にはスーダンにおけるゴードン将軍救出隊に・・・参加し・・・た。この間彼のフィアンセ・・・がチフスによりカイロで18歳の若さで亡くなっている。彼はその後結婚することがなく<実>子も存在しない・・・。1886年から1899年にかけて行われた二度目のスーダン遠征により彼は国民的名声を得た。・・・<更に>彼は1898年・・・オムダーマンの戦いでマ<−>ディー軍を破り、その数ヶ月後ファショダ事件<(下出)>が発生するとフランス軍部隊に対し断固とした態度をとりイギリスのスーダン支配を決定づけた。・・・彼は引き続きスーダンにとどまり、鉄道の<敷>設、高等教育に力をいれた。ハルツームのモスクの修復を命じ、イスラム教の休日である金曜を休息日とした。スーダンにおける信仰の自由をさだめ、キリスト教の宣教師の活動の抑制に努めた。
 第二次ボーア戦争(1899年〜1902年)<(コラム#754、847、1045、3561、3698、4020、4630、4663、4665)>が始まると・・・増援軍の<副司令官となり>、1900年に・・・はイギリス軍の総指揮をとった。・・・戦闘が続く中で、ボーア軍は市民の家や農場を破壊したため、市民はイギリスの用意した収容所へと移らざるを得なくなった。当初は住処をなくした人々の為の人道的措置として始まったこれらの収容所の状況は、ボーア市民の流入が増大するにつれ急激に悪化していった。1901年後半には大部が改善されたものの、これらの収容所の存在は国内外の厳しい非難を浴びた。・・・」
 <その後、>英印軍の司令官(1902年〜1909年)の地位が与えられ、インド軍の立て直しに尽力した。・・・1911年から1914年にはエジプトの英国代表兼総領事<・・事実上の総督・・>を務めた。・・・
 第一次世界大戦が開幕すると、アスキス首相はキッチナーを陸軍大臣・・・に任命した。短期戦に終わると予想する閣僚たちの楽観論に対して、キッチナーは戦争が少なくとも3年以上は続き、これまでの戦争からは考えられないほどの犠牲を必要とすると正確に予言してみせた。・・・
 1916年<の>・・・ロシアへの使節派遣で・・・キッチナーは・・・装甲巡洋艦ハンプシャーに乗り込みロシアのアルハンゲリスクへとむかった<が、同艦>・・・は・・・被雷し沈没した。キッチナーとその幕僚、655人の乗組員の内、643名が死亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%8A%E3%83%BC
 「ファショダ事件(ファショダじけん)は、1898年、アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 インドとパキスタンの人々は、いまだにカーゾン卿が行ったところの、カシミールを併合<(=英領インドの直轄領化)>しないとの決定<(注36)>の下に生きている。

 (注36)詳細は分からなかった。インド亜大陸内でマハラジャによって統治されている「国」もムガール帝国に由来する観念であるところの、英インド皇帝の至高性(paramountcy)の下にあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Kashmir
http://en.wikipedia.org/wiki/Paramount_Ruler

 その一方で、対照的にも、ビルマ及びその種々雑多な人々の併合は、ほとんど軽薄と言ってもよい、チャーチルの父のランドルフ卿の衝動により行われた。
 クワルテングが指摘するように、カシミールは併合されるべきだったし、ビルマは併合されるべきではなかったのだ。・・・
 商業的貪欲と「英国が一番良く分かっている」流の傲慢さとが混ぜ合わさったものがこの破壊的な本の各章において暴かれる。
 とはいえ、この本は、個々の帝国行政官達の多くの品位、効率、及び善意にも目を瞑ってはいない。
 彼が一貫して示すのは、大英帝国の観念は、貴族的理想たる「統治するために教育された少数の男達による統治」であったことだ。・・・」(H)

(続く)