太田述正コラム#5306(2012.2.17)
<大英帝国再論(その4)>(2012.6.4公開)

 「・・・ナイジェリアのルガード卿は、・・・「最も熱烈な帝国主義者の多くと同様、想念に耽ることに疑念を持っていたところの、行為(deeds)の信奉者だった」とされる。
 しかし、彼は、<大英>帝国について随分多くのことを書き、英国の政策を叙述するために、「二重委任」という言葉を創り出した。
 この委任の一部分は、クワルテングに言わせれば、「金儲けであり、第二の部分は現地住民自身に資するように諸植民地を開発することだった。・・・」(A)

 (7)香港

 「・・・クワルテングは、同僚保守党員たるクリス・パッテン(Chris Patten)<(注21)(コラム#2142)>>に対しても遠慮会釈がない。

 (注21)Christopher Francis Patten, Baron Patten of Barnes。1944年〜。オックスフォード大卒。「イギリスの政治家。・・・香港総督・・・の後、欧州委員会<英国代表>委員などを経て、現在は男爵、イギリス貴族院議員、ニューカッスル大学、オックスフォード大学総長。・・・1979年、<総>選挙に初当選し、1992年4月まで<下>院議員の座を保持している。」最後は保守党幹事長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%B3

 パッテンは、最後の香港総督だが、クワルテングは、この任命は、彼が議席を失ったことへの慰めの賞品以外の何物でもないと見ている。
 パッテンのスタイルは、英帝官僚機構(Imperial Civil Service)の最上のものたる「平静さと熟慮された行儀」とは大変違っていた、と彼は記す。
 「彼の文言はよく口のまわるものだったが、彼は、支那についても外交についてもほとんど何も知らなかった」と。
 支那に香港を返還する準備期間に、この総督は本土の支那人と香港のビジネス社会の双方と敵対したが、香港の支那人にとっても民主主義にとっても、永続する便益は生じなかった、とクワルテングは執拗に述べる。
 気まぐれな思い付きや願望に淫してしまったことが問題だった、と彼は示唆する。・・・」(D)

 「・・・クワルテングは、かつて大英帝国の一部であった6つの領域を取り上げ、それらがどのように統治されたかに焦点をあてる。
 そのうちのカシミール、ビルマ、スーダン、そしてナイジェリアの5つは、ひどいガバナンスの諸問題に依然悩まされているところ、6番目にして最も小さい香港は、一番最近英国から支那に返還された、大英帝国の最後の植民地と一般に目されているが、クワルテングの議論の有効な事例を提供している。
 香港の最後の総督のクリス・パッテンは、香港を返還するまでにより大きな民主主義の要素を導入しようと試みたことで、支那政府と英国の多くの「支那通達(China hands)」と敵対した。
 しかし、「これまでのところ[自由民主主義]は英国には適していた(true for)が、英国自身とは常に全く異なった政治的組織であったところの、大英帝国の行政に対しては、ほとんど適用できない」とクワルテングは記す。
 まことに皮肉にも、「大英帝国の支配の諸伝統は、自由民主主義についてのいかなる観念よりも、支那における、法と秩序、社会的階統制と服従(deference)の諸概念にはるかに近かった」と。・・・」(G)

 (8)総括

 「・・・クワルテングは、ディズレーリ(Disraeli)<(注22)(コラム#198、312、318、480、1043(Q&A)、1202、2927、3015、3798、4549、4782、5224、5226、5228、5230、5234)>が民主主義や経済について何も言わなかったことを発見したがこれは注目すべきでだとしている。

 (注22)ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield。1804〜81年。英首相:1868年、1874〜80年。ユダヤ人の家に生まれるが13歳の時にキリスト教の洗礼を受ける。弁護士、小説家を経て保守党下院議員、蔵相3回を歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AA

 これは、仮に彼が民主主義者か自由貿易信奉者であったとすれば奇異なことかもしれないが、実際、彼はそのどちらでもなかったのだから<奇異なことではない。>・・・」(F)

 「・・・クワルテングはこの本の範囲<を絞ったこと>について率直だ。
 オーストラリア、カナダ、あるいはニュージーランドに触れず、カリブ諸島に触れず、カシミール問題の巧みな分析を除いてインド<亜大陸>に触れずして大英帝国について説明をするというのは何とも奇妙な話ではある。
 このような絞りこみは、この著者が大英帝国全体についての一般的真実であるとして擁護できるところの分析を生み出すために用いた場合にのみ正当化できよう。
 クワルテングは、この任務をうまくやってのけ、大英帝国についての一般論は、一般論が存在しないというものである、との結論を下す。
 彼の答えは、そこには最優先の政策もなければ、一貫性もなければ、戦略的方向性もなかった、というものだ。
 個々の植民地総督の権力は、本質的に無秩序<に行使されたの>であり、その結果は矛盾だらけだった。
 例えば、我々は、カシミールを併合しないと決め、それをインドのヒンドゥー教徒たる貴族に売却したのに対し、南の方ではビルマで時の王朝を廃止して、<同地をヴィクトリア>女王兼皇帝の下での直接統治にした。
 サー・マーク・ヤング(Mark Young)<(注23)>はより民主主義的な香港を目指した<(コラム#5189参照)>が、この運動は、彼の後継者のサー・アレクサンダー・グランサム(Alexander Grantham)<(注24)>によって逆行させられた。

 (注23)Sir Mark Aitchison Young。1886〜1974年。英国の行政官で日本による香港占領直前と占領後、香港総督を務めた。イートン、ケンブリッジ大卒。セイロン行政機構に入る。戦後の香港総督の時に、住民によって直接選挙された30人からなる立法評議会(Legislative Council)を設けて日常的事項を処理させ、総督がその決定を覆せないことにするという改革計画をつくったが、中国共産党の浸透を恐れた後継のグランサムによってこの計画は白紙撤回された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Aitchison_Young
 (注24)Sir Alexander William George Herder Grantham。1899〜1978年。英国の植民地行政官。英陸軍士官学校、ケンブリッジ大卒。英国防大学修了。香港総督:1947〜58年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Grantham

 このような諸矛盾は、クワルテングによって非情緒的に取り上げられており、彼は、競争相手たるフランスやロシアに見られたような、大英帝国に係る通奏低音的な哲学はなかった、と結論付ける。
 それは、単に、総督やロンドンの政府が変わることで行われた機会主義的な一連の動きの結果に過ぎなかった、というのだ。
 この、しばしば互いに相矛盾する諸政策の混淆により、一定の安定した諸要素、例えば、大英帝国の行政官達の人選におけるイギリスのパブリックスクールと指導的大学の支配、が出現した。
 英国自身が帝国行政機構よりはるかに速く変化したため、<植民地>統治をした人々と彼らを任命した<本国の>人々の間にミスマッチが生じた。
 ただし、だからと言って、他の諸帝国においてもそうだったが、富と生まれにおいて恵まれていた人々が常に<植民地統治で>上層部を占めたというわけではない。
 例えば、<前述したように、>スーダン政治機構の構成員達の3分の1は、僧侶の息子だった。
 彼らは、帝国の選良というよりは、その教育的かつ文化的価値において一種の「僧侶支配(clerisy)」を形作った。・・・」(F)

(続く)