太田述正コラム#5302(2012.2.15)
<大英帝国再論(その2)>(2012.5.31公開)

 (3)スーダン

 「・・・スーダンは、征服された後、「共同統治国(condominium)」と呼ばれた。
 英国とエジプトによって共同して統治され経費が支弁されるという触れ込みだった。
 しかし、エジプト自身が、英国の、もう一人の傀儡国王を戴いたところの保護国であり、その統治と経費思弁の大部分は、英国によって、そのスーダン政治機構(Sudan Political Service)を通じて行われた。
 この機構の行政官達は、<インド帝国官僚のように>試験によってではなく、面接で選ばれた。
 スーダンは「虚弱者が打ち勝てる(weaklings to master)」ような土地ではないとして、パブリックスクール出身で運動に長けた者がとりわけ好まれた。
 この機構に入った男達の3分の1は僧侶の息子達であり、70%はオックスフォード大かケンブリッジ大卒で、5年間勤務してから、或いは28歳に達するまで、妻を連れてくることは許されなかった。
 これらの男達のうちの一人であるハロルド・マクマイケル(Harold MacMichael)<(注7)>は、<同機構の>民事秘書役(Civil Secretary)という重要な職位を務めていたが、1930年に、スーダンの南部部分をアラブ部分である北部から区別して開発するとの観念に基づく、いわゆる「南部政策(Southern Policy)」を開始した。

 (注7)1882〜1969年。ケンブリッジ大卒。国家公務員試験合格。その後、タンガニーカ総督(Governor)。その次のパレスティナ委任統治領の総督(High Commissioner)の時、危うくユダヤ入植者右派によって暗殺されかけた。最後は、マラヤ連邦の創設の中心的役割を果たした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Harold_MacMichael

 しかし、第二次世界大戦の後、この政策は、後継者の一人である、サー・ジェームス・ロバートソン(James Robertson)<(注8)>によって元に戻されたため、1956年にスーダンが独立すると、南部の人々と北部のアラブ人統治者達との間の根本的な対立と長期にわたる内戦が起こった。・・・」(G)

 (注8)Sir James Wilson Robertson。1899〜1983年。オックスフォード大卒、スーダンの上記機構に入る。南米の英領ガイアナ問題に携わった後、ナイジェリアの最後の総督(Governor-General)。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Wilson_Robertson

 (4)ビルマ

 「・・・ランドルフ・チャーチル(Randolph Churchill)<(コラム#4210、4735、5201)>卿が耽った観念という以外に理由のなかったところの、ビルマの最終的征服が、「現地の貴族達」を支援するという英国の伝統的な政策の非論理的な180度転換であるところの、同国の国王の追放<(注9)>がなされなかったならば、同国は、独立後、はるかに悲劇的でない歴史を辿ったであろうと信じる者はクワルテング以外にも多い。・・・」(E)

 (注9)ウィンストン・チャーチルの父親のランドルフ・チャーチル(1849〜95年)は、ソールズベリー内閣のインド担当相(Secretary of State for India)の時、ビルマに関する英国の従来の政策を改め、商業的利益を追求する声に与し、インド副王のダフェリン(Dufferin)卿にビルマ王国の残部たる上部ビルマ侵攻を命じ、ここに1885年11月7日に第三次英緬戦争が始まり、29日にはおおむね決着が付いた。そして、ほとんど議論がなされないまま、その英領インドへの併合が決められ、1886年の元旦にヴィクトリア女王に対し、「新年の贈り物」としてビルマ全体が捧げられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Randolph_Churchill
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Anglo-Burmese_War

 (5)カシミール

 「・・・<逆に、現在の>カシミールが抱える諸問題は、英国がこのイスラム教徒が多数を占める州を1846年にヒンドゥー教の王朝に「売却」した<(注10)>決定に負うところが大きい。・・・」(E)

 (注10)英東インド会社とシーク帝国(Sikh Empire。1799〜1849年。パンジャブ地方を中心とするシーク教徒の連合王国で、その領域は、現在のインド、支那、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタンにまたがっていた)との間の第一次英シーク戦争で東インド会社が勝利し、その戦後処理の過程で、同会社は、シーク帝国の首相格であったヒンドゥー教徒たるグラブ・シン(Gulab Singh。1792〜1857年)にカシミール地方を売却した。
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Anglo-Sikh_War
http://en.wikipedia.org/wiki/Gulab_Singh
http://en.wikipedia.org/wiki/Sikh_Empire

 「・・・カシミールでは、もう一人の奇人たる、植民地における冒険家のフランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband)<(注11)>が英国代表(Resident)<(注12)>になった。

 (注11)Sir Francis Edward Younghusband。1863〜1942年。英陸軍士官学校卒の英陸軍将校(中佐)、探検家。とりわけチベット人虐殺を伴った1903〜4年のチベット探検で知られている。1906年にカシミール公国の英国代表に就任。
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Younghusband
 (注12)英領インド内のインド人を戴く公国に派遣された英国の役人で、その公国の間接統治を行った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Resident_(title)

 英国の帝国主義的使命に夢中になるとともに、後には自由恋愛の主唱者となり、彼は自分の情婦が「神の子」を生む<(注13)>ことを夢見た。

 (注13)ヤングハズバンドは、1939年から亡くなる1942年まで、32歳下の女性と不倫関係を続ける
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Younghusband
が、このことを指しているのだろうか。

 いずれも、カシミール植民地にとっては何の役にも立たないことだった。
 英国はインドに民主主義を遺贈したが、カシミールでは全くそんなことは起こらなかった。
 そこでは、(ラジ(Raj=英領インドにおける英国人統治者達)にとっては「封建的秩序」を相手にするのが一番幸せだったが、)インド公国制度を援用し、ヒンドゥー教徒の歴代のマハラジャ達をして圧倒的多数のイスラム教徒の人々に君臨させて統治した。
 <インド副王の>マウントバッテン(Mountbatten)<(注14)(コラム#1038、3486)>は、太った愚鈍な専制君主のサー・ハリ・シン(Hari Singh)<(注15)>に対し、独立の暁にはパキスタンに加盟するよう説得しようとしたが、それは遅すぎたのだ。・・・」(D)

 (注14)Louis Francis Albert Victor Nicholas George Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma。1900〜79年。英海軍元帥、最後のインド副王。新制インドの初代総督。エリザベス女王の夫君エディンバラ公の叔父。
http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Mountbatten,_1st_Earl_Mountbatten_of_Burma
 (注15)1895〜1961年。最後のカシミール公国マハラジャ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hari_Singh

(続く)