太田述正コラム#5294(2012.2.11)
<ロジャー・ウィリアムズ(その4)>(2012.5.27公開)

 こういったこみいった事情から、ウィリアムズは、聖書に書かれていること全てについて誤りのない解釈をすることなど、どんな人間でも不可能であると判断した。
 よって、彼は、一人の人間が特定の宗教的信条を他人に強制することは「身の毛のよだつこと(monstrous)」であると考えた。
 彼は、また、政府の息のかかった(sponsored)祈祷は、役人が神に関わることについて判断を下すことを前提としており、そんなことは神を冒涜するものであることにも気づいた。
 更にまた、彼は、人が宗教と政治を一緒くたにすると、<宗教もまた>政治になってしまうことを知っていた。
 だから、教会の純粋性を守るためには、ジェファーソンの150年前に、「教会の庭と世界の荒野との間の分離の壁」が必要であるとした。
 <ところが、>マサチューセッツ植民地にはこのような壁が存在せず、宗教的同調性(conformity)を強い、それに反対したウィリアムズを追放した。
 <そこで、>「魂の自由」を求め、彼はプロヴィデンス入植地を創設し、絶対的な宗教の自由を与えるところの、完全に世俗的な政府を樹立したわけだ。
 南北アメリカ大陸の他のすべての植民地の統治協約(governing compact)は、イギリス、フランス、スペイン、あるいはポルトガルのいかんを問わず、当該植民地はキリスト教を推進するために樹立されたと主張していた。
 ところが、プロヴィデンスの統治協約には神への言及がなかった。
 それは、神の祝福さえ求めなかったのだ。
 次いで、ウィリアムズは、宗教の自由と政治的自由とを結び付けた。
 諸政府の権威は神に由来すると当時は普遍的に信じられていた。
 ウィンスロップでさえ、マサチューセッツ植民地の総督に選出された後、「諸君によって選ばれたとはいえ、我々の権威は神から来ている」と投票者達に言ったものだ。
 ウィリアムはこれに異を唱えた。
 国家は世俗的であると考え、彼は、諸政府は、その権威を市民達から得ており、人々が彼らに信頼を寄せている以上の力も期間も与えられていない、と宣言した。
 この声明は、今でこそ自明に聞こえるかもしれないが、当時においては革命的だった。・・・
 <ずっと後に、>米国憲法が採択されてから8年後になって、米上院はある条約を全員一致で承認する際に、このことを確認した。
 <承認の文言>はこう述べていた。
 「米国政府は、いかなる意味においてもキリスト教に立脚して(founded on)いない」と。・・・」(E)

 「・・・<注意すべきは、>ウィリアムズは世俗国家を成立させようとしたのではなく、与えられた自由に対処できるだけ十分精神的に成熟しているところの、自律的諸個人によって構成されているコミュニティを成立させようとした<ことだ>。・・・」(D)

 「・・・<すなわち、>諸個人の宗教の自由が極めて重要であると見なされていたというまさにその理由で、<ウィリアムズを始めとする>多くの人々は、米国政府がその市民達の諸信仰を決定するいかなる役割も追わないことを確保しようという決意を固めていたということなのだ。・・・」(G)

3 終わりに

 最後の二つの引用文を読んで気付かれた方もおられると思いますが、ウィリアムズは、近代人では決してありませんでした。
 彼は、キリスト教を諸宗教中の白眉とみなすとともに、キリスト教の神に帰依することを世俗的なことよりもはるかに重視し、キリスト教の聖書の自分なりの解釈を通じて到達したキリスト教教義を自分の信条とし、その信条に対する他者の容喙から自分を守るために、宗教と政治の分離なる宗教の自由を追求したところの、反動派に超の付く人物・・今はやりの言葉で言えば宗教原理主義者・・であった、と言わざるをえません。

 これに対して、ウィンスロップの考え方は、(これまで何度か述べたことがありますが、)カトリシズム同様に宗政一致を当然視し、その上で、カトリック教会を細分化して、各国や各地域ごとに、少しずつ教義の違うミニ・カトリック教会もどきを輩出させたところの、欧州の宗教改革の担い手たるプロテスタント達の考え方の域を一歩も出ていないという意味で、カトリシズムを当然視していたジュニペロ・セラといい勝負であり、ウィンスロップとジュニペロ・セラの両者とも守旧派以外の何物でもない、と言うべきでしょう。
 結局、このシリーズでこれまで登場した主要人物中、近代人的であるのは、ラス・カサスだけである、というのが私の見解です。
 なぜ単に近代人であるとしないかですが、それは、彼が死ぬまでカトリックの僧職の身分のままであり続けたからです。

 インディアンにキリスト教を押し付けようとしなかった点や、奴隷制導入に反対した(下述)点をとらえて、ウィリアムズを評価するのもいかがなものかと思います。

 「1641年に<当時まだプロヴィデンスが形の上では属していた>マサチューセッツ湾植民地が奴隷制を合法とする、イギリス諸植民地中の最初の諸法を制定したが、この諸法は、植民地連合(United Colonies)が1643年に創設された時に、プリマスとコネチカット植民地に普及した。
 ロジャー・ウィリアムズ・・・は奴隷制に反対し、1652年に奴隷制がロード・アイランドに導入されることを防止しようとして法が制定された。
 不幸なことに、同植民地の領域が再編された時、一連の・・・町がこの法を受け容れるのを拒否したために、この法は空文化した。<(注10)>

 (注10)ウィリアムズが死去したのは1683年だが、「<ロード・アイランド>植民地の領域が再編された時」が分からなかったので、その時点でまだ彼が存命であったかどうかは確認できなかった。
 なお、「この法<が>空文化した」のは17世紀末であったことは確認できた。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Rhode_Island
また、下掲の「<これら一連の町の一つの>ニューポート」の<>内が正しいかどうかの確認もできなかった。

 その後の100年間、ロードアイランド植民地・・・の中心は<これら一連の町の一つの>ニューポート(Newport)であったので、反奴隷制法は無視された。
 実際、ニューポートは、1700年にアフリカ奴隷貿易に参入し、爾後米独立革命までの間、北米における奴隷貿易の中心であり続けた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Williams_(theologian) 前掲

 ウィリアムズが、宗教は世俗的なことよりも重要であると考え、かつ、(個々人によって教義に微妙な違いはあれど、)キリスト教は諸宗教中の白眉であるとみなしていたにもかかわらず、キリスト教に帰依しない迷える子羊たるインディアン達を放置できたのは、そして、(上述のように)奴隷制への反対に徹しえなかったのは、非白人に対する差別意識があったからこそである、と私は忖度しているからです。
 独立後に制定された米国憲法の宗教の自由条項は、このウィリアムズの考え方を法典化したものです。(A)
 (確かに、ウィリアムズは、インディアンから土地を一方的に取り上げることはしなかった・・私は、彼にとって、迫害されていた自らの弱い立場に鑑み、インディアンとの紛争を何がなんでも回避することが至上命題であったからに過ぎない、と踏んでいます・・けれど、)独立後の米国が、インディアンから土地を一方的に取り上げ続け、黒人奴隷制度に固執し続けるという、人種主義国家となったのは、その原点たるウィリアムズの考え方の論理的帰結であった、ということになるのではないでしょうか。

(続く)