太田述正コラム#5286(2012.2.7)
<モサデグ・チャーチル・米国>(2012.5.23公開)

1 始めに

 クリストファー・ド=ベレーグ(Christopher de Bellaigue)の、近く発売になる 'Patriot of Persia: Muhammad Mossadegh and a Very British Coup' の書評がガーディアンに載っており、他にも書評がないか探したのですが、ありませんでした。
 しかし、この本、というかこの本ないし書評、チャーチルを全く評価していない私にとって、大いに「心強い」ものがあるので、ご紹介しようと思い立ちました。
 ちなみに、ド=ベレーグは、1971年生まれのイギリスのジャーナリストであり、ケンブリッジ大学の学部、修士卒で、エコノミスト誌のテヘラン特派員を務めたほか、トルコにも在住経験があり、奥さんはイラン人の建築家で、本人もイスラム教シーア派に改宗している、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_de_Bellaigue

2 モサデグ・チャーチル・米国

 「・・・ムハマッド・モサデグ(Muhammad Mossadegh)<(コラム#109、203、771、1192、1193、3351、3361、3425、3427)>はペルシャ貴族であり、19世紀末に生まれ、1950年代初にイランの首相として、イランの石油の国有化を行った。
 これが彼を、第一次世界大戦直前にイランに利権を有したアングロ・ペルシャ石油会社の大株主となっていたところの、(ウィンストン・チャーチルに率いられていた)英国政府と紛争に至らしめた。
 チャーチルは、このモサデグの動きが先例を打ち立てることになれば、英国の帝国的権力が地球全般にわたって脅威の下に置かれるだろうと考えた。
 最初のうちは、米国は中立であり、モサデグ寄りでさえあった。
 ところが、本件に関するイランの認識によれば、不実なる英国が米国を説得してその姿勢を変えさせたのだ。
 1953年に大統領に当選していたドワイト・アイゼンハワーは、モサデグのリベラリズムが共産主義へと導くのではないかと恐れた。
 <モサデグを追放する>ク−デターには英国と米国の諜報機関の闇の諸技術が駆使された。
 すなわち、歪曲情報の流布、挑発者の使用、ならず者達や政治屋達の買収、文書の偽造、を行ったのだ。
 悲劇的にもそれは成功した。
 これが、当時の最も啓蒙的であった中東の政府を打ち倒し、まず、シャーの独裁体制が、次いでアヤトラ・ホメイニのイスラム革命を先導することとなった。
 デ=ベレーグは、チャーチルが「ムッシー・ダック(Mussy Duck)」という綽名をつけた男に対する英国人の態度に人種主義を見てとる。
 トマス・バビントン・マコーレイ(Thomas Babington Macaulay)<(注1)>のような政治家が、「良い欧州の図書館のたった一つの棚」が「インドとアラビアの全ての現地産の文献」に勝る、と見ていたのだ。

 (注1)Thomas Babington Macaulay, 1st Baron Macaulay。1800〜59年。ケンブリッジ大卒の英国の詩人、歴史家、ホイッグ党の政治家。生涯独身。現地でインド統治に携わり、中等教育以上において使用する言語をペルシャ語やサンスクリットから英語に切り替えさせた。また、刑法素案を彼が中心となって起草し、これがインド内乱後、正式にインド刑法となり、その後の英国の植民地における刑法の原型となった。その後、本国で陸相、主計総監(Paymaster-General)を歴任。歴史家としては、いわゆるウィッグ史観で彼が書いた'The History of England from the Accession of James the Second' (全4巻中後半の2巻は彼の死後、妹によって完成、出版された)で有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Babington_Macaulay,_1st_Baron_Macaulay

 このような態度が、ルーミー(Rumi)<(注2)>やハーフェズ(Hafez)<(注3)>のような詩人達の地<たるイラン>において顰蹙を買わないはずがない。

 (注2)ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Jalāl ad-Dīn Muḥammad Rūmī。1207〜73年)。「ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。イスラムの神学者、スーフィズムの重要な人物のひとり。・・・1219年頃にモンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征にともない、家族とともに戦火を避けて郷里のバルフを去り西方へ移住した。10年の流浪の末、ルーム・セルジューク朝治下にあったアナトリア(ルーム地方)中南部の都市コンヤに定住し、ルーム地方にちなみルーミーと号した。・・・ルーミーとはローマの人のことで、後年に住んだアナトリアが以前東ローマ帝国(アラビア語ではルーム)の領土だったことによる。」←英語ウィキペディアがないという珍しい事例。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%BC
 (注3)フワージャ・シャムスッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・ハーフェズ・シーラーズィー(Khwāja Shamsu d-Dīn Muhammad Hāfez-e Shīrāzī 。1325〜89年)。「イラン南西部ファールス地方の主都シーラーズで生まれ育ち、生涯この地を離れることはなかった。・・・ハーフェズの存在は、その抒情詩とともに、ペルシア語圏では知らない人はいない・・・。・・・サアディー、ウマル・ハイヤーム、ハージュー・ケルマーニーと並ぶ四大詩人の一人に数えられる。・・・後に編纂された『ハーフェズ詩集』は、東西の文化に影響を与え、ゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受け、『西東詩集』が綴られた。・・・コーラン)を全て暗唱する者の称号をハーフィズという。シャムスッディーンも暗誦者であってハーフィズの号を冠しており、そのため単に『ハーフェズ』と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Hafez

 そもそも、この地においては、英国の地に鉄器時代の部族達が住んでいた時代に、既に帝国が存在していたのだ。・・・
 モサデグは、原則の男であり、愛国心と正義感に基づいて行動したけれど、それが政治的に都合がいいと思ったら熱発して寝込むことを躊躇することはほとんどなかったし、その職にあった最期には自らの民主主義的諸価値に反する行動をとった。
 <そもそも、>彼は、憎むべき英国と妥協をする何度かの機会を逸している。
 妥協しておれば、イランに資しただけでなく、自分の政府の延命も可能だったかもしれないのだが・・。
 モサデグの失敗の原因は、一つは彼自身の複雑で欠陥のあった性格であり、もう一つは彼が時代の先を行っていたことだ。
 <ちなみに、>アングロ・ペルシャ石油はその後ブリティッシュ石油となって現在に至っている。・・・
 英国や米国の政治屋達が、<現在のイランの>アハマディネジャド大統領をその核計画に関して厳しく責め立て、「人参と棒」について語るたびに、現政府を厭い、その核政策に不同意なイラン人達でさえ、モサデグとチャーチルの話を思い出すのだ。
 ここで、穏やかならざる疑問が生じる。
 イランがいつの日にか核兵器を保持することへの我々の現在の反対が、イランの石油が自分達ではなくイラン人のものとなるという観念への1950年代における英国の恐怖とうり二つではないのかという・・。
 そうではないという理由はたくさんあげられるけれど、こうような疑問を口にしてみて、初めて、あなたは、<核問題に関する>現在のイラン政府の交渉戦略と修辞を理解することができるのだ。」
http://www.guardian.co.uk/books/2012/feb/05/patriot-persia-bellaigue-mossadegh-review

3 終わりに

 チャーチルの、アングロサクソン文明の至上性信仰に基づくその他の文明の国や民の過小視や大英帝国存続への過大な思い入れが、米国をたぶらかして共犯者に仕立て上げ、日本を先の大戦への引きずり込んでその帝国を瓦解させ、その結果、東欧と東アジアでの赤露の大躍進をもたらしただけでなく、一旦野に下ってから戦後に首相に返り咲いた彼は、これに懲りず、今度は、またも米国をたぶらかして共犯者に仕立て上げ、イランの民主主義の芽を摘み、その結果、イランのシーア派原理主義国家化とその核武装の恐怖、更には、(かかるイランのヒズボラやハマスへ、更にはシリアのアサド政権への支援により、)パレスティナ紛争の永続化と中東地域の自由民主主義化の足踏みをもたらした、と言えそうです。
 チャーチルのこの第一の過ちによって(米国の思惑もあり)大英帝国は過早に瓦解し、第二の過ちによって、チャーチルの後を継いだイーデン首相は、スエズ戦争で(米国に煮え湯を飲まされて)、大英帝国の終焉の幕をぶざまに降す羽目にあいなったわけです。

 もう一点。
 上記第一の過ちがらみで当時の米国は赤露の脅威を著しく過小評価していたのに対し、上記第二の過ちがらみで当時の米国は赤露の脅威を著しく過大評価していたわけであり、その二度にわたる致命的な評価ミスによって全世界がどれほど迷惑と被害を被ったかを思い起こせば、米国の国際音痴度がいかにひどく米国がいかに無責任か、に改めて憤りを覚えさせられるというものです。