太田述正コラム#5266(2012.1.28)
<第一次性革命はあったのか(その3)>(2012.5.13公開)

4 批判一辺倒の書評

 「・・・ダボイワラの典拠は、びっちりと100頁にわたって印刷されているが、それらの典拠は、彼が論じることとしたトピックに関する流行を追った理論的議論に係るものだ。
 <しかし、>彼は、自分の基本的諸仮定を<人々の>実際のふるまい<と突き合わせること>で検証するすることをやっていない。・・・
 <そもそも、>放蕩者的テキストやリバタリアン的テキストは、<18世紀どころか、>文学発生以来存在する。
 ダボイワラのこの分野に関する説明が余り説得力がないのは、彼が英語<文献>だけを用いているからだ。
 歴史的には、反体制文学(subversion)とポルノ文学は、女性や召使いには読めない言語で書かれた危険でエロな著作を集めて貸し借りをし合うという選択肢を持ったところの、教育程度の高い紳士達の領域に属した。
 例えば、<彼らは、>オヴィディウスの『愛の歌(Elegies)』<(注6)>は、ラテン語のものを容易に入手することができた。

 (注6)原題はAmores(The Loves(英語)=恋の歌)だが、英語圏ではエレジー集(Elegies)とも呼ばれるようだ。オヴィディウス(Ovid(英語)=Publius Ovidius Naso。BC43〜AD17年)は、「古代ローマ、「アウグストゥスの世紀」に生きた詩人<であり、>・・・彼は『愛の歌』をギリシア神話を参考に書いたが、あまりに露骨な性的描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、紀元8年、黒海沿岸の僻地であるトミス(現在のコンスタンツァ)へ流されそこで没した。最も有名な作品は、『変身物語』である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Ovid
http://www.poetryintranslation.com/PITBR/Latin/Amoreshome.htm

 この本がマーロウ(Marlowe)<(コラム#479、916、3844)>によって英語に翻訳された時になって、<初めて、イギリスで>この本は燃やされた。・・・
 ダボイワラが、バイロン<(コラム#3373、3734)>の極めて反体制的な諸観念を何度も引用するが、バイロンがイギリスを嫌悪感を抱いて1816年に去ったのは、<イギリスでは>いかなる種類の革命も展望することができなかったからだ、ということに気が付いていないことは明白だ。
 色欲と偽善のルールは、<大昔から>今日に至るまで挑戦されることなく存続しているのではないか。・・・
 少年や妾との、子作りを目的としない、工夫をこらしたセックスなどというものは、<一貫して>欧州社会の極めて恵まれた階級が当然視した特権だった。
 1526年<時点でも>、いかなる当局でも、それがどんなに高い地位の当局であれ、フェデリゴ・ゴンザガ(Federigo Gonzaga)<(注7)>が、自分のパラッツォ・デル・テ(Palazzo del Te)<(注8)>の飾り棚に飾るためにジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)<(注9)>に裸体の男女が16の異なった体位で性交しているイラストを提供するよう委嘱することを妨げるどころか、止めるよう説得することすらできなかった。

 (注7)マントゥア・・北部イタリアの臍の位置にある都市・・侯爵Federico II Gonzaga。後の公爵。1500〜40年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mantua
http://en.wikipedia.org/wiki/Federico_II_Gonzaga
 (注8)イタリア語で正規にはPalazzo del Tと称される。マントゥア(Mantua)に、1524〜34年に、ギウリオ・ロマーノの設計で建設されたところの、マナリズム(mannerist)建築の最も優れたものの一つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Palazzo_Te
 (注9)1499?〜1546年。ラファエルの弟子のイタリアの画家、建築家。ちなみに、件のイラスト集のタイトルが最初に出版されようとした時のタイトルは、まことに露骨な、『やり方(The Ways=I Modi)』だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Giulio_Romano
 『やり方』に収録されていた16のイラスト(を彫版し、印刷したもの)をご覧になりたい方は下掲の下方の16の小さい画像を、それぞれクリックされたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/I_Modi

 マルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi)<(注10)>によって、そのイラスト集を印刷するための版木がつくられた段になって、ようやく時の法王クレメンス(Clement)7世が介入し、版木は破壊され、ライモンディは投獄されようとした。

 (注10)1480?〜1534?年。イタリアの彫版師。もっぱら絵画を彫版し、絵画の大量頒布を可能にした人物の一人。件の咎で短期間投獄されたが、有力者達のとりなしにより、釈放された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Marcantonio_Raimondi
 ライモンディは、まだロマーノが原画を描いている最中にそれを見に来て、それを勝手に彫版し、1524年に出版したことが咎められたもの。
 ロマーノが咎められなかったのは、公刊する意図があって描いたわけではなかったからだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/I_Modi 前掲

 <それでも、>ロマーノのイラスト集のいくつかは生き残った。
 <そして、今度は、>1527年に、ピエトロ・アレティーノ(Pietro Aretino)<(注11)>が、(人々の使っていたイタリアの共通の言葉で)『16の色情ソネット集(Lust Sonnets=Sonetti lussuriosi)』を<この>イラスト集を<、それに自作の詩を書き込んだ形で、>世に出した。

 (注11)1492〜1556年。イタリアの著述家、劇作家、詩人、風刺家
http://en.wikipedia.org/wiki/Pietro_Aretino

 <しかし、こうしてできたところの、イラスト集の>この第2版の版木も没収され破壊された。
 それでも、『アレティーノの体位集(Aretino's Postures)』と呼ばれるところとなったところのものは、その評判が欧州中に鳴り響いた。
 <実に、あの>シェークスピアが言及した唯一の芸術家は、「あの稀なるイタリア人の巨匠、ジュリオ・ロマーノ」だった、ときたものだ<(注12)>。・・・

 (注12)シェークスピアの『冬物語(The Winter's Tale)』の第2幕第5場に、女王ハーマイオニー(Hermione)の彫像が「あの稀なるイタリア人の巨匠、ジュリオ・ロマーノ」によってつくられたとというくだりがある。もっとも、ロマーノは彫刻家ではなかったが・・。(ジュリオ・ロマーノのウィキペディア前掲)

 性革命が起こったのか起こらなかったのかはともかくとして、『アレティーノの体位集』については、いまだにまともな英訳が出ていない。
 2008年には、<ロンドンの>カドガン・ホール(Cadogan Hall)でのマイケル・ナイマン(Michael Nyman)による『色情ソネット集』からとったいくつかの色情歌<(注13)>の演奏が行われる段取りが決まろうという時に、これらの詩の英訳を見せたところ、ホール当局は、慌ただしくこの<演目の演奏禁止と>演奏会のプログラム回収を命じた。

 (注13)ナイマンは、2007年に、アレティーノの作詩した16のソネットのうち8つに音楽を付けた。(アレティーノのウィキペディア前掲)

 アレティーノは、まだイギリス人が扱うにはアブナ過ぎた、というわけだ。

(続く)