太田述正コラム#5262(2012.1.26)
<鄭和・明・米国>(2012.5.11公開)

1 始めに

 アジアタイムスに、シンガポールの東南アジア研究所(Institute of Southeast Asian Studies)のシニア・リサーチ・フェローの、オーストラリア人歴史学者、ジェフリー・ウェード(Geoffrey Wade)のインタビュー記事
http://www.atimes.com/atimes/China/NA26Ad01.html
が出ており、大変興味深いので、急遽取り上げることにしました。

 19世紀末に米西戦争でプエルトリコとキューバとフィリピン等を占領した米国は、それぞれを植民地、軍事基地付きの保護国、植民地にしましたが、プエルトリコこそそのまま領有を続けたものの、領有したフィリピンについては、早晩、キューバ的な保護国にする、という方針を決めます。
 それ以来、20世紀に入ってからは、米国は、海外において新たな領有地を求めず、先の大戦以後は、キューバや独立させた後のフィリピンのような、軍事基地付きの保護国を世界の各所に確保する戦略を採用して現在に至っています。
 米国のこの戦略転換のきっかけになったのは、白人、とりわけアングロサクソンやそれに準じる存在をコアとするところの、人種主義の米国において、外国領土の拡大に伴う非白人の流入によって本国の人種的構成が「劣化」することへの恐れである、というのが私の見立てであることはご承知のことと思います。
 私は、このような米国の20世紀以降の帝国主義は、(古典ギリシャのアテネの帝国主義と似たところが若干あるものの、)基本的にユニークなものである、と思っていました。
 しかし、どうやらそうではなさそうなことが、以下ご紹介するウェードの鄭和(Zheng He)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C
(コラム#132、799、800、1126、3394、4450)論から分かりました。

2 ウェードの鄭和論(Qはアジアタイムス記者、Aはウェード)

Q:中共の正統派の鄭和・平和的航海者(peaceful seafarer)説の主張を要約して欲しい。
A:<一つはこういうものだ。>・・・
 「鄭和の時代から社会主義建設の新時代に至るまで、鄭和の西の大洋への累次の遠征中の業績は、支那人の愛国的教育を実施するにあたっての素晴らしい素材であり続けた。」・・・
 <もう一つはこういうものだ。>・・・
 「<鄭和がやったのは>友好的外交活動だった。
 西の大洋への7回の遠征の全般において、鄭和は、他国において、一片の土地も占領せず、要塞をつくることもなく、財産を奪うこともまたなかった。
 商業的かつ交易的活動において、彼は、受け取るものより多くを与えるやり方を採用したので、その経路沿いの様々な国の人々から歓迎され、賛美された。」・・・
Q:<ところが、>あなたは、鄭和が「プロト植民地主義的」であったし、彼の財宝艦隊は戦艦からなる無敵艦隊(armada)であった、としてその証拠を山のようにあげている。具体的には?
A:鄭和についての<私の>主たる史料は明帝国の年代記だ。
 そして、このテキストに加えて、彼に随行したイスラム教徒たる通訳のマ・フアン(Ma Huan)のような人物によって書かれたものだ。
 私の<正統派への>非難を裏付ける証拠はこれらで十分だ。・・・
 一例を挙げれば、<ある遠征時には>乗船していた総員27,400人中26,800人が一般構成員であり、その内訳は、非正規兵と正規兵に加えて、水夫達と書記達だった。
 一遠征ごとに、どうやら、20,000人を超える軍人が運ばれた模様だ。・・・
 南支那の雲南(Yunnan)や今日のヴェトナムの大越(Dai Viet)に送られた明の兵力と同じように、彼らは、火砲、ロケット、火槍(firelance)といった、当時の世界の最先端火器を携行していた。・・・
 鄭和は、第一次遠征の際、1407年にスマトラ島のパレンバン(Palembang)のオールド・ポート(Old Port)を攻撃<したが、その時、>チェン・ズイ(Chen Zu-yi)という「海賊」を本国に連れ帰っている。
 彼は、「降伏と見せかけて密かに我が帝国軍を攻撃せんと企んだ」として捕縛されたものだ。
Q:その時死者はどれくらい出たのか。
A:明の艦隊の報告によれば、5,000人を殺し、船を10隻燃やし、7隻を捕獲している。・・・
 <また、>鄭和はスマトラ島北部の内戦に介入し、明に敵対的でない側を支援したように見える。
 つまり、遠征の主役は軍事力であって、後に東南アジアとインド洋と称されることとなる地域に、「パックス・明」を押しつけるものだったのだ。
Q:どうしてあなたは、ジャワ島においてもこの暴力的なパターンが続いたと執拗に主張するのか。
A:鄭和の部隊は、1407年にジャワ島に上陸した。
 ジャワでの<支那人の>死者は全部で170人にのぼった。
 これは、海洋東南アジアにおける地域覇権に係る明の主たる競争相手のマジャパヒト(Majapahit)<(注1)の下にある原住民との派手な喧嘩の際、あるいはマジャパヒトに反対するジャワの兵力と敵対した際、に生じたものだ。

 (注1)1293年から1500年前後まで、ジャワ島を拠点に現在のインドネシアとマレーシア全域を支配した帝国。
http://en.wikipedia.org/wiki/Majapahit
 日本マジャパヒト協会が存在する!
http://www.j-majapahit.com/

 支那側の記録は、彼らが「東の王が統治する地域に…交易を行うために上陸した」ことを示唆しているが、これは、ジャワの内戦に、意図的であったかどうかはともかく、支那が介入したことを示すものだ。
Q:しかし、ジャワ人は支那人を打ち負かした。そうしたら支那人はどうした?
A:明は、ジャワの西の王に賠償金の支払いを要求した。
 「彼らの命の補償とお前の罪滅ぼしのために、ただちに金60,000リャン(Liang)を払え。これを飲まなければ、お前の罪を処罰するため軍を派遣するしか方法はない。安南(Annnam)で起こったことが前例となるだろう」と。
 1リャンは、支那の約1オンスだ。・・・
 永楽帝(Emperor Yong-le)による統治が始まると、彼は、今日のシャン<(注2)>
州(Shan State)の一部であるムバン(Mu-bang)・・支那名はセンウェイ(Hsenwei)に対する影響力を持とうと特に競った。

 (注2)ミャンマーのシャン州を中心に、支那、タイにまたがって住んでいる民族。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shan_people
http://en.wikipedia.org/wiki/Shan_State

 1409年に明の王宮にやってきたムバンの使節がナ・ルオ・タ(Na-luo-ta)という名前のビルマの支配者について苦情を述べた。
 永楽帝の返答は、下掲を含んでいた。
 「ナ・ルオ・タは小さい領地しか持っていないが、偽りの心を持ち(double-hearted)間違っている。朕は前からこのことを知っていた。これまでそこに部隊を派遣しなかったのは、善き人々が傷つけられることを恐れてのことだ。既に朕は、指示を与えた人々を派遣し、彼に行いを改め、再出発をするよう求めている。もし彼が改めなかったら、朕は将軍たちに軍を派遣するよう命ずるだろう。部隊は大洋経由で攻撃するだろう。諸君は、その土着の騎兵でもって地上から攻撃するよう取り計らえ。この軽蔑すべき奴はこれに抗することはできないだろう。」
Q:命令が鄭和に下されたというわけか。
A:この海上部隊への言及は、鄭和の西の大洋の艦船群についてのものだ。
 この明の皇帝の脅しは、遠征の軍事的役割を示している。・・・
 <また、>鄭和はスリランカの王の都に侵攻し、その軍事力を殲滅し、王とその家族を南京の明の王宮へと連れ帰っている。
Q:(マレーシアの)メラカ(マラッカ)に要塞ないしグアンチャン(guanchang)を設けたというあなたの主張の根拠を示して欲しい。
A:マ・フアンは、メラカ海峡の最先端のメラカとサムデラ(Samudera)の存在を、『大洋の海岸における最高の眺望」という意味のインヤイ・シェンラン(Ying-yai sheng-lan)という著書の中で証言している。
 これらの遠征の際につくられたいくつかの地図もまた、このことを裏付けている。
Q:どうしてあなたは鄭和を、その後にやってきたポルトガル人達に準えるのか。
A:明は海洋プロト植民地主義に従事していた。
 それは、海洋植民地主義の初期形態であって、支配的な海洋大国が、経済的・政治的便益のために、軍事力または脅しによって、東西大洋交易の主要ネットワーク沿いの主要港湾政体群、プラス、その間の海、をコントロールする、というものだ。
Q:明の<鄭和に>課した任務の最大の目的は何だったのか。
A:その目的は、地域的支配(dominance)であるところの、「パックス明」であり、それは同時に、港湾と航路帯をコントロールすることでもあった。
 彼らは、後の欧州諸国の植民地主義のように、領域の支配を目指さなかった。
 そうではなく、彼らは、経済的生命線、結節的地点、及びネットワークからなる空間全域を政治的・経済的に指揮(command)することを欲したのだ。
 港湾と交易路を押さえることで、財宝収集という責務を果たす使節にとって本質的なものであるところの、交易をコントロールしたわけだ。・・・
 明の初期において、永楽帝は、<第一の一撃として、>雲南におけるタイ(Tai)族の諸政体に対して戦役を仕掛け、<第二の一撃として、>ヴェトナムの政体を占領してそれを新しい省(province)とし、<また、>第三の一撃(prong)を送ったが、今度は、それは、鄭和とその他の宦官の船長達によって率いられたところの、海上兵力だった。(注3)

 (注3)明の永楽帝は、1402年、即位し、北はモンゴルと干戈を交え、南は、1403年から雲南のタイ族の平定に乗り出し、
http://en.wikipedia.org/wiki/Ming_Dynasty_military_conquests
1406年には安南(大越)に遠征軍を送ってそこを直轄領とし・・ただし、叛乱がうち続き、永楽帝の2代後の孫の宣徳帝の時に放棄・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
それと相前後して、1405年には鄭和に第一回目の遠征に出発させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

Q:あなたが、東南アジア人達が、明に保護を受ける見返りに「朝貢」したことに言及していない、と非難する者もいる。
A:支那の公式記録類は、国がカネを出した交易者達が「朝貢使節」として到着した旨記録している。
 しかし、東南アジアの歴史的テキスト類には、かかる<明に対する>従属的な状態なる観念についての記録は全くない。
Q:彼が文化交流と相互理解を促進したという観念についてはどうか。
A:彼の砲艦群が、いわゆる文化交流を促進したことは確かだ。
 <しかし、それは、>欧州諸国の植民地主義も「文化交流と相互理解」を促進したけれど、それは政治的支配の文脈の中で行われた<ことと同じだ>。
Q:鄭和は、彼がプロト植民地主義の対象となった地域においてどのように記憶されているのか? 
 彼の擁護者達は、東南アジアでは、人々が彼を神格化した、と主張している。
A:東南アジアの支那人達の幾ばくかは、彼をまさに保護してくれる軍事力<の統率者>として崇拝した。
 「野蛮人の」土地における支那人の擁護者として神格化された地方戦士達の事例は支那史上たくさんある。
 東南アジアにおける非支那人たる人々は、鄭和についての記憶を持っておらず、ほんの最近、支那との関係付けのために、そして、イスラム教を普遍的宗教として称揚するために、彼を道具として使い始めたところだ。
Q:真実は、賛美と否定的見解の混合といったところか?
A:歴史を書くにあたっては、人は、自分が使うことができる典拠に立脚した説明を提供しなければならない。
 歴史上の記録群は、鄭和は明という支那の国家権力の手先であって、彼が、地域の諸政体と大洋群を支配するために、巨大な暴力を使ったことを示している。
 鄭和を平和と友好の大使として描くことは、<彼を>中華人民共和国の外交に奉仕させることを意図したところの、現代における発明である、と言わざるをえない。・・・」

3 終わりに

 明が、北方のモンゴル族に備えつつ、南方の蛮族の地域において、同地域に居住する漢人と連携を取りつつ領域の拡大を図り、更に、この南方接壌地域への更なる南方からのにらみを利かせるためにも、インド洋に海軍力を展開した、というのは、その約500年弱の後に、米国が、北方のイギリス(カナダ)に備えつつ、南方のスペイン系人/土着民系蛮族の地域において、同地域に居住する米国系人と連携を取りつつ領域の拡大を図り、更に、この南方接壌地域への更なる南方からのにらみを利かせるためにも、カリブ海、ひいては太平洋に海軍力を展開したことと酷似していますね。
 明は、やがてプロト植民地主義から降りてしまったのに対し、ポルトガルはプロト植民地主義から通常の植民地主義へと移行し、米国はプロト植民地主義を実践したまま現在に至っている、ということです。
 いずれにせよ、歴史を振り返ってみれば、米帝国主義は、必ずしもユニークな存在ではなかったわけです。
 そして、中共が、今や、明の永楽帝の時代のプロト植民地主義戦略を改めて採択し、東アジア/西太平洋において、先行プロト植民地主義覇権国たる米国と不気味な対峙状況に入っている、ということになります。