太田述正コラム#5244(2012.1.18)
<スチュアート王族の歴史(その2)>(2012.5.5公開)

 (2)プロローグ

 「・・・スチュアート一家は、11世紀にノルマンディの霧雨の中から出現したように、そして、次いでより霧雨的な地であるスコットランドに、王室候補としてというより王室の召使いとして長く住んだように見える。・・・」(A)

 「仮に、1807年のヘンリー<(注4)>の死が<スチュアート家の>物語の終幕であるとすれば、開幕は何だったのだろうか。

 (注4)Henry Benedict Thomas Edward Maria Clement Francis Xavier Stuart。1725〜1807年。亡命先のローマのムーティ宮殿(Palazzo Muti)で、祖父のジェームス2世/7世が王座を失ってから37年後、父親(the Old Pretender)の王座奪還の試みが失敗してから10年後に生まれた。1745年に兄(Bonnie Prince Charlie=the Young Pretender)による王座奪還のための叛乱を助けるべくパリに赴く。1748年に枢機卿に任命される。フランス革命によって困窮に陥った彼に対し、イギリスのジョージ3世は、年金支給を始めた。(イギリスの)ヘンリー9世と呼ばれることもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Benedict_Stuart

 イギリスの読者は、テューダー朝にスチュアート朝がとってかわったところの、ジェームス1世の戴冠のことをまずは思うかもしれない。
 しかし、彼らが特別にイギリス中心的な教育を受けてでもいない限り、彼らは、<イギリスの>ジェームス1世は<スコットランドの>ジェームス6世でもあって、スコットランドの代々の国王達の御曹司(scion)であることを思い出すことだろう。
 実際、スチュアート達・・・は、スコットランドを14世紀末から統治してきたのだ。
 それより前は、スコットランドの主要な土地所有者達であり、世襲の職である「スチュワード(steward)」(おおむね、首席財務官)をスコットランドの諸国王の下で務めた。
 そして、もともとは、彼らはブルターニュからイギリスに移動してきた。
 ヘンリー1世<(注5)コラム#90、96、3124、3812)>は、彼らのうちの一人をイギリスとウェールズの境界沿い地区(Welsh Marches)の行政官にした。

 (注5)1068〜1135年。イギリス国王:1100〜35年。「ノルマンディー公アンリ1世(Henri I, 在位:1106年〜1135年)でもあった。通称は碩学王(Henry I, Beauclerc)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 彼は、ブルターニュ語に堪能であったことから、<ブルターニュ人の故郷である>ウェールズの原住民との対話が可能だった。<(注6)>

 (注6)コラム#4920、4926参照。

 彼が、<ウェールズ出の>テューダー朝の直系のご先祖様の誰かと親しく駄弁ったかどうかは、残念ながら定かではない。<(注7)>・・・」(B)

 (注7)コラム#4478、5009参照。

 (3)スコットランド国王時代

 「・・・スチュアート家の個々の人間についてどんなことが言われようとも、彼らが、尋常ならざる能力、いやビジョンさえ持っていたからこそ、最初のスチュアートの国王たるロバート2世(在位:1371〜90年)<(注8)>の時代、すなわち、君主が個人的権威、魅力、そして注意深く配分された力に依拠した時代、から、巨大で調停機関を介した諸利害のピラミッドの頂点としての国王という、近代的理解に近いところに至るまでの移行期間を生き残り続けることができたのだ。・・・

 (注8)1360〜90年。スコットランド国王:1371〜90年。母親がロバート1世の娘だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_II_of_Scotland

 スコットランドのジェームス1世<(注9)>は<当時の首都の>パース(Perth)で暗殺された。
 これはスチュアート家の物語の中の背筋が寒くなる挿話の一つだが、ジャームス2世<(注10)>は、自分の火砲の一つからのくさび形をした金属が顔に当たっ<て死ん>だ。
 火砲は、スチュアート家のテーマとでも言うべき関心事項だった。・・・」(c)

 (注9)1394〜1437年。スコットランド国王:1406〜37年(イギリスで人質生活を送っていたため、帰還して実際に統治を開始したのは1424年)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA1%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89)
 (注10)1430〜60年。スコットランド国王:1437〜60年。イギリスに「占領されていたロックスバラ(Roxburgh)城を包囲している時、大砲の爆発により死亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA2%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 「・・・スコットランド国王のジェームス4世<(注11)>はヘンリー7世の娘のマーガレット・テューダー(Margaret Tudor)と1503年に結婚した。

 (注11)1473〜1513年。スコットランド国王:1488〜1513年。「有能な統治者で、反乱を抑え、芸術を振興し、銃鋳造や造船に力を入れた。<イギリス>とは1502年に平和条約(Treaty of Perpetual Peace)を締結し、1503年にヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと・・・結婚・・・<し>た。・・・<イギリス>とフランスの間で戦争が始まると、<イギリス>との平和条約とフランスとの古い同盟(Auld Allianc)の板挟みになった。1513年<イギリス>の新しい王ヘンリー8世がフランスへの侵入を図ると、<イギリス>へ宣戦布告したが、フロドゥンの戦い(Battle of Flodden Field)で・・・大敗し、・・・戦死する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA4%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 彼の狙いは、イギリスとの平和を確保することだったが、逆にそれは戦争をもたらした。
 しかし、同時にそれは、スチュアート家をイギリス王座をめぐる争いに加わらせることとなった。
 スチュアート達の戦争としては、累次のスコットランド独立戦争、イギリス・スコットランド王座統合<の戦い>、イギリス内戦、王政復古<の戦い>、その他がある。・・・

 バンクォー(Banquo)<(注12)>のブルターニュにおける子孫達は、この一家の指導者が世襲の職たるスコットランド執事長(the High Steward of Scotland)になった時にスチュアート(Steward)へと姓を変えた。・・・」(E)

 (注12)バンクォウ。?〜1043年。「バンクォウは・・・マクベスに殺され、ウェールズに逃れていた長男のフリーアンスもまた四年後の1047年に殺されたが、フリーアンスの長男ウォルターは生き残り、彼の子孫がスチュアート朝を開いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%82%A6
 マクベス(Macbeth。在位:1040〜57年)はスコットランド国王ダンカン1世(Duncan I。在位:1034〜40年)を殺害してスコットランド国王になったが、史実ではその共謀者であったバンクォーを、シェークスピアは、戯曲『マクベス』では、バンクォーがスチュアート家の祖先の一人と考えられていたことから、時のジェームス1世/6世に配慮して、マクベスに殺害させた、と憶測されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Banquo
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/scot_kings.html

 「・・・<スチュアート一族は、>「ブルターニュの塩分の多い湿地帯(salt-marshes)からムーティ宮殿の陰鬱に至る長い旅路」<たどった。>
 スコットランド王家の招致によりスコットランドに定住化したアングロ・ブルターニュ(Anglo-Breton)貴族の一員として出発したこの家は、デイヴィッド1世(David I)<(注13)>から、「執事長(High Steward)」の世襲称号をウォルター・フィッツアラン(Walter Fitzalan)<(注14)>が授与されたことにちなんでそのような姓を名乗ることとなった。

 (注13)1180?〜1153年。スコットランド国王:1124〜53年。カトリック教会の聖人。「デイヴィッド1世は<彼の>兄達と同様<イギリス>で育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン青年達と親しく交わった。・・・王位を嗣<ぐとイギリス>で知り合ったノルマン人の友人達をスコットランドに招き、要職につけた。こうして、デイヴィッド1世は司法・行政などをノルマン流に改革し、王権の強化に努めた。<イギリス>でスティーブンと従妹のマティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こると、それに介入し<、・・・そ>の結果、<イギリスの>ノーサンバーランド、カンバーランドなどの支配権を獲得した。このときにイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造した。これにより、スコットランドでコインが流通し、経済が発展した。<また、>・・・司教区を整備し、教会や修道院を建設するなど改革を進めたため、スコットランド国内にキリスト教が広く普及した。また、スコットランド化した英語(スコットランド語)が共通語として通じるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%891%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 (注14)Walter fitz Alan。1150?〜1177年。世襲職としての執事長:1157〜77年。文化的にはノルマン人、血統的にはブルターニュ人と称された。上記イギリスでの王位争いでは、ディヴィッド1世の姪の神聖ローマ皇后マティルダを支持、彼女が敗れるとディヴィッド1世と親しくなり、1136年にスコットランドにやってきてイギリスと戦った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_fitz_Alan
 なお、上出のバンクォーの孫のウォルターとこのウォルターとの血統関係は解明できなかった。マッシーのこの本を読めば分かるのだろうが・・。

 何世代か後に、彼の直系の子孫であるウォルター・スチュアート(Walter Stewart)<(注15)>がロバート・ブルース(Robert Bruce)<(注16)(コラム#2470-1、2472、4570)>の娘のマージョリー(Marjorie)<(注17)>と結婚し、そのブルースの主要な子孫が1371年に絶えると、この二人の間の息子がロバート2世としてスコットランド王位に就いた。

 (注15)1296?〜1327年。第6代執事長。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Stewart,_6th_High_Steward_of_Scotland
 (注16)ロバート1世(Robert I)またはロバート・(ドゥ・)ブルース。1274〜1329年。スコットランド国王:1306〜29年。スコットランドのブルース朝の創始者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 (注17)スコットランド国王の父ロバート1世の唯一の子供。(王妃を深く愛していたこの父は、マージョリーを彼女が産んで産褥ですぐ死んだところ、マージョリーが6歳になるまで再婚しなかった。)ウォルターと結婚して2年目に、落馬して息子(後のロバート2世)を早産し、その数時間後に死亡した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Marjorie_Bruce

 その後の150年間、ジェームス5世<(注18)(コラム#4278)>が、1542年に、唯一の嫡子たる生誕6日のスコットランド女王メアリー<(注19)>を残して亡くなるまで、スチュアートの息子、そのまた息子、がスコットランド王位に就き続けた。

 (注18)1512〜42年。スコットランド国王:1513〜42年。「ジェームズ4世とイングランド王ヘンリー7世の娘(ヘンリー8世の姉)マーガレット・テューダーの子。・・・1541年に<イギリス>出身の母が死ぬと<イギリス>との和平を保つべき理由も薄れ、<イギリス>との戦争が始まった。・・・1542年・・・国境近くの・・・戦い・・・で敗北し、・・・そのまま倒れた。・・・<フランスの大貴族の長女の>王妃メアリーが女子<(後のスコットランド国王メアリー1世)>・・・を出産した知らせを聞くが、回復することなく、<その>6日後・・・に死去した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA5%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
 (注19)1542〜87年。スコットランド国王:1542〜67年。イギリス「国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時皇太子だったエドワード6世と婚約させられた<が、>・・・1548年、王母マリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。1558年・・・メアリーはアンリ2世の皇太子フランソワと結婚式を挙げた。・・・<1544年>にアンリ2世が亡くなると、皇太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。・・・1560年・・・、フランソワ2世が16歳で病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1561年・・・にスコットランドに帰国した。・・・1565年・・・、メアリーはダーンリー卿と再婚した。・・・。しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていった。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになった。・・・<そのリッチオが白昼宮中で殺害されるという事件が起きる。>・・・子ども<(後のジェームス6世/1世)>は生まれたが、しかしダーンリー卿との仲は冷え切ったままだった。<その後、今度はダーンリーが殺害される。>・・・ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られて<いるが、二人は結婚し、メアリーは廃位され、息子のジェームズが王位に就く。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

 メアリーが誰からも異論なく王位を承継できたことは、この王家による王朝の継続性がスコットランド王国の独立の象徴であり保証者であると見なされていたスコットランドにおいて、長子相続制の原則がいかに深く根付いていたかの証拠だ。
 もとより、大人になってから、メアリーは、スコットランドの政治的保守主義を限界まで、いや限界を超えて、試練に晒すこととなった。
 しかし、一家の傍系に属するヘンリー・スチュアート(Stewart)であるダーンリー(Darnley)卿<(注20)>と結婚し、彼との間で息子のジェームスをなすことで、メアリーは、少なくともこの王朝・・ただし、今やフランス語化したStuartという形で・・の将来を確実なものにしたのだ。

 (注20)1545〜67年。メアリー1世の従兄弟(共にマーガレット・テューダーの孫。ただし、ダーンリーはこの祖母の再婚相手との間の娘の子供)であり、メアリー同様、スコットランドとイギリスの両方の王位継承権を保持していたところの、メアリーの第二の夫。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stewart,_Lord_Darnley

 それだけではない。
 テューダー達を追放する陰謀を企てたとしてエリザベスの手によってメアリーが処刑されたにもかかわらず、1603年に、彼女の息子がスコットランドのジェームス6世であると同時にイギリスとアイルランドのジェームス1世となったのだ。・・・」(F)

 「・・・ジェームス1世は<この本の>38頁で寝間着姿で殺され、ジェームス2世は55頁で自分の顔の前で爆発した砲弾の破片で殺され、ジェームス3世は65頁で小競り合いの後に殺され、ジェームス4世は84頁でフロドゥン(Flodden)で殺害されているのが発見され<(注21)>、また、ジェームス5世は102頁で<上述のような>不可思議な死を遂げた。・・・

 (注21)発見されたジェームス4世の遺体とされるものが本当の遺体なのかどうかはっきりせず、本当の遺体は別途埋葬されたという説や、実はこの時死なずに亡命したという伝説まである。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_IV_of_Scotland

 ・・・スコットランドの貴族達は、しばしば、その個々の国王と戦ったり殺したりする用意があったというのに、何世紀にもわたってこの<スチュアートという>家族に忠誠であり続けた。<(注22)>

 (注22)頭の整理のため、スチュアート家の歴代スコットランド国王を列挙しておこう。
 ロバート2世→(長男)ロバート3世→(三男)ジェームス1世→(次男)ジェームス2世→(長男)ジェームス3世→(長男)ジェームス4世→(三男)ジェームス5世→(長女)メアリー1世→(長男)ジェームス6世
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/scot_kings.html 前掲

 <スコットランドには>少数派が常にいたにもかかわらず、<スチュアート家の王座の>簒奪者は現れなかったのはどうしてだろうか。
 その答えは、史的学識とともに人間理解の問題だ。・・・」(G)

(続く)