太田述正コラム#5455(2012.5.2)
<皆さんとディスカッション(続x1538)>

<太田>(ツイッターより)

 バイリンガルは、老人性痴呆症にかかりにくい等、様々な面で優れていることが分かっているが、雑音の中で聴きたい話等を聞き取る能力も優れていることが分かった。
 ここから、集中力と抑制力が優れていることが推認できるとさ。
 音楽家も似てるって。
http://www.bbc.co.uk/news/health-17892521

<globalyst>

 --平家の興亡--

≫当時の歴史の勉強をされたらいかが。≪(コラム#5451。太田)

 日宋貿易(平忠盛)から宋銭の導入(平清盛)(興隆期)、重商主義(平家一門)と重農主義(守旧派)との対立(対立の激化)、デフレからハイパーインフレ(平家滅亡)へと平家の興亡を経済を切口に展開する山田真哉氏のコラムもも分かり易い。
http://gendai.ismedia.jp/category/taira

<太田>

 ありゃー、先を越されました。
 源平合戦以外の文献(ウィキペディアだけですが)を紹介し、また、改めて源平合戦の文献を山田真哉を含め、紹介しようと思っていたのですがね。
 なお、私は、大河ドラマ『平清盛』の時代背景・・貴族政権から武士政権へ・・としては、日宋貿易の進展よりも荘園領国制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%85%AC%E9%A0%98%E5%88%B6
の進展の方を重視する立場ですので、山田真哉の主張については、宋銭の流通とそれが源平合戦による平家の急速な没落をもたらした、という部分だけに注目しているところです。

<globalyst>

 --結婚率--

≫女性の方が結婚率が高い理由は何なんだろ?≪(コラム#5453。太田)

 数字の意味するところは、複数の配偶者を持ったことのある人の割合が、女性よりも男性の方が多い(男は離婚後再婚する人が多く、女性は離婚した後に再婚しない人が多い)ということで、有り体に言えば、(性的にも経済的にも)番える男は歳をとっても(=離婚しても)若い(=未婚の)相手を見つけられるけど、番えない男はいつまでたっても独身のままで、

 「ヒトは基本的に一夫一妻制の動物であり、社会的、経済的地位が十分に高く、より多くの女性とその子供に対して物理的、経済的保護を行うことができる少数の有力なオスのみが、一夫多妻を実行できる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/一夫多妻制

ことの現れではないでしょうか。

<たろう>

 今の男女の差ですが、要するに少数の男が多くの女に種つけてるってことであり、今の日本社会はどんどん「自然状態」に近づいてると言えますね。
 80年は女の方が未婚率高かったし、その差は2%程度に過ぎませんでした。
 女の方が高い理由は当時は男が圧倒的に経済力があるなど優位な時代だったから、では説明になりませんかね。
 差が小さいことは離婚のハードルが高くより完全な「一夫一婦制」に近い社会だったから。
 つまり、今の男女差の理由をザックリ言えば「種々の制約が弱まった結果社会がジャングル化し、自然状態へと回帰しつつあるため」となるでしょうね。

生涯未婚の男性、2割を突破…30年で8倍
読売新聞 5月1日(火)8時5分配信

 「50歳時点で一度も結婚したことがない人の割合である生涯未婚率(2010年時点)は、男性20・1%、女性10・6%と、初めて男性が2割台、女性が1割台に達したことが30日、わかった。
 政府が6月初めに閣議決定する2012年版「子ども・子育て白書」に盛り込まれる。
 1980年時の生涯未婚率は、男性2・6%、女性4・5%で、今回は30年前より男性が約8倍、女性が2倍以上に増えた計算。男女共に90年頃から生涯未婚率が急上昇している。
 年代別の未婚率を見ると、25〜29歳では、男性71・8%、女性60・3%だった。30〜34歳は男性47・3%、女性34・5%。35〜39歳は男性35・6%、女性23・1%。」

 差が小さいのは離婚のハードルも今よりずっと高かった。
 より完全に近い「一夫一婦制」だった。

<Εεεεε>(「たった一人の反乱」より)

≫女性の方が結婚率が高い理由は何なんだろ? ≪(コラム#5453。太田)

 理由は、不景気で低所得者が増えているからでしょう。
 専業主婦は珍しくもない(2005年度、約710万1千人)けど専業主夫はめったにいない(2005年度、約2万1千人)のをみても、自分の収入で家族を生涯養う自信が持てないという理由で結婚をしたがらない低所得男は多いだろうけど、自分が低所得だから結婚を躊躇するという女は少ないだろうし。

 ※数字はウイキペディア

<εΕεεε>(同上)

 あと出産の限界年齢ってのもあるんじゃないだろうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BD%A2%E5%87%BA%E7%94%A3
 男は基本何歳でも子作り出来るけど、女性は高齢になればなる程リスク高まってしまうから焦るんじゃねえの?

<太田>

 面白いねえ。
 もう少し、皆さんで議論してみてください。

 この話も併せてどうぞ。↓

 「「自殺考えた」23%に増加…20代女性3割超・・・」
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=58217&from=yoltop

<たろう>

 --NHK 日米諒解案--

 近衛首相はアメリカとの緊張緩和を模索し、日米の間で事態打開のための「日米諒解案」がまとまりかけた。ところが「四国協商」に固執する松岡外相はこの「日米諒解案」に反対し、日米交渉は頓挫してしまう。

NHKホームページより引用

 松岡がじゃましなければ諒解案の通り米国が満州国を承認し、日米戦争は回避されたのでしょうか?

<太田>

 然り、とする人も確かにいますね。↓
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-a945.html
 これは、後で紹介する典拠に照らせば、この交渉に携わった岩畔豪雄(コラム#3771、4969)の見解でもあります。

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 日米諒解案については、下掲を参照。↓

 「1940年・・・の日本軍の北部仏領インドシナ進駐と、日独伊三国同盟の締結に対する、アメリカ側の重慶国民政府への援助強化、太平洋艦隊の強化などの対応によって冷え込んだ日米関係を打開するため、同年11月、<米国のカトリック教会の>ウォルシュ司祭とドラウト神父が来日しました。二人は政府、財界、軍部各方面の関係者と会見し、日米関係の改善策について意見を交換しました。そして、アメリカ帰国後の・・・1941年・・・1月、ルーズヴェルト米大統領とハル米国務長官にその結果を報告、「ウォルシュ覚書」を提出しました。この民間交渉の背後にいた人物としてフランク・ウォーカー米郵政長官が挙げられます。
 また、ウォルシュ、ドラウトの訪日時、日本側でもっとも緊密な連絡をたもったのは、産業組合中央金庫理事の井川忠雄でした。井川はドラウトが日本滞在中にもちかけた「日米首脳会談」案を近衛総理大臣、松岡外務大臣、武藤章陸軍省軍務局長らに取り次ぎました。
 井川は「外務省嘱託」の資格で、・・・1941年・・・2月下旬に渡米しました。井川の渡米には近衛や有馬頼康元農林大臣の支持があり<ました。>・・・
 このようにして<駐米日本>大使館の関知しないまま、3月17日には日米国交調整に関する「原則的合意」についての予備的草案である「井川・ドラウト案」が作成されました。4月からはこの民間交渉に陸軍省の前軍事課長岩畔豪雄大佐が加わり、大使館側も岩畔から報告を受け、協議も行われるようになりました。
 やがて「井川・ドラウト案」をもとにして修正案が作成され、4月14、16日の野村<駐米大使>・ハル<米国務長官>会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。」
http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html
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しかし、そんな発想は、およそナンセンスです。
 なぜなら、太平洋戦争は、日米諒解案ができあがった時までに、英米両国が一方的に開戦する形で既に実質的に始まっていたからです。
本件に限りませんが、物事は全体像を見なければいけないのであって、本件に関して言えば、日米関係、就中日米交渉だけを見ていてちゃダメなんですよ。
 (岩畔には、当時、全体像は見えていなかったであろうことから、彼は責められませんが・・。)

 1940年5月の段階で、チャーチル英首相が米国を第二次世界大戦に参戦させる決意を固めていたところ(コラム#4214)、その手段は、日本に対米開戦をさせることであったこともほぼ間違いないでしょう。
 そして、そのための布石をチャーチルは次々に打って行き、それにローズベルトは積極的に応えて行きます。
 一番分かり易いのが、既に何度かしている、フライング・タイガース(コラム#2982、3771)の話です。
 1940年冬の段階で、英空軍が買うはずだった米国製の100機の戦闘機を、米国人が操縦するところの、蒋介石政権支援米義勇空軍たるフライング・タイガースに回す計画に英米両政府が協力して着手します。
 日米諒解案がハルから野村に提示された4月14日の翌日の15日に、ローズベルトは、現役の米軍人がフライング・タイガーズに入ることを認める大統領命令に署名しています(通説)。
 そして、その年の春のうちにこの100機は英領ビルマに運び込まれ、ビルマ内でフライング・タイガースの部隊編成が行われるのです。
 (以上、事実関係については下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Flying_Tigers )

 当然、こんな話には日本も気が付くと英米両国は思っていたはずです。
 気が付いてくれれば、チャーチルが一番恐れていたところの、日本による(援蒋ルート閉鎖目的の)対英のみ開戦が避けられるだけでなく、日本が対英米開戦をしてくれる可能性が高まるからです。
 しかし、何時まで経っても日本政府が気付いた様子はありませんでした。(典拠なし)
 (何でそんなことが英米両国に分かったと思われるかですが、米国は、当時、既に日本の外務省暗号も海軍暗号も破っていたことを想起してください。) 
 そこで、とりあえず、日本の対英のみ開戦を完全に封じるために、日本側に希望という幻想を抱かせるべく、英国が暗に陽に働きかけて、米国をして日米諒解案を提示させるに至った、と私は見ているのです。(典拠見つかんないかなあ。)
 そうこうしているうちに、そのほぼ一か月後の翌5月初旬には、ヒットラーの対ソ侵攻計画を英米両政府が掴むところとなります。(後述)
 ソ連が第二次世界大戦の当事者となることで、英国が敗北する恐れが当面なくなる見込みが出てきた以上、英米側、とりわけ米国としては、日米交渉を継続する意義は小さくなったわけですが、幸か不幸か、米側が何もしないうちに、松岡外相の抵抗で、日米交渉は行き詰まってしまいます。
 そして、その更に一か月後の6月中旬には実際に独ソ開戦となり、米国は、諒解案に係る日米交渉を打ち切るのです。
 (ただし、英国は、対独勝利を早期に確実なものにしたかったので、なお、日本に対英米開戦させることにこだわり、12月になって、ついにそれに成功するわけです。)
 
 岩畔に焦点をあてて日米諒解案をめぐる日米交渉等を説明した、なかなか面白い文章があった
http://www.iwakuro.com/chapter_3/chapter_3-4.html
http://www.iwakuro.com/chapter_4/chapter_4-1.html
ので、そのご紹介かたがた、もう少し補足しておきましょう。

 「岩畔<(4月)>や井川<(2月)>が渡米した時、既に、米国首脳部は英国を支援するための対ドイツ参戦を決意していた。」

→典拠が付いていないが、その通りだろう。(太田)

 「英国は、ワイズマンらによる陰の工作とは別に前外相ハリファックスを米国に特派、米国の対独参戦を誘導するべく猛烈な政界工作を展開していた。
 ・・・国務長官ハル<は>自宅の棚に英国国王夫妻の写真を飾っていた」

→英国による対米工作は念には念を入れ、ということだったのだろうが、(岩畔自身が目撃したものと思われるが、)ハルが英国命じゃあ、英米両政府の癒着関係は明々白々というものですね。(太田)

 「<共和党の前大統領の>フーバーと話をして2人が驚かされたのは、彼が岩畔、井川の渡米の目的と、渡米してからこれまで行ってきたことの大部分を既に知っていたことだった。」

→(英)米が日本を対(英)米開戦へ追い込んだわけではない、と米国内向けに後々申し開きをするためにも、米国政府は鳴り物入りでこの日米交渉を宣伝した、ということでしょうね。(太田)

 「アメリカからは大量の援助物資が<英領ビルマ等の>援薄ルートを通じて中国へ流れ込んでいた。」

→これだけでも、英米による実質的な対日開戦である、と言えようかという話です。それに加えて、間違いなく実質的な対日開戦であったところの、フライング・タイガース計画が推進されていた、ということになります。(太田)

 「米国は自衛を大義名分として対独参戦することを考えており、そのための用意として、<諒解案の中で、>日本に対しても自衛権の拡張解釈を要求することを忘れなかったのである。
 一方、アメリカは着々と戦争準備を整えていた。」

→万一、日本が対英のみ開戦をした場合、今で言う、集団的自衛権を発動して米国も対日参戦できるように、米国政府は布石を打っていた、ということでしょうね。(太田)

⇒誤解がないように付言しておきますが、どうせまとまるワケがないと見越した上で、なおかつ、日本政府は、諒解案のラインを基本的に受け入れることを表明した上で日米交渉を行うべきであった、というのが私の考えです。
 まとまらない結果、英米側の背信行為が明らかになるだけに、その後対英米戦になって日本が敗北することになったとしても、吉田ドクトリンに戦後日本が毒されるようなことは回避できたに違いないからです。
 やはり、松岡の責任は重大だと言わざるをえません。(太田)

 以下は、オマケ的に興味を覚えた箇所です。

 「陸軍では、武藤軍務局長から報告を受けた東条陸相は、「また岩畔の大風呂敷ではないのか」と訝りながらも、直ちに「日米諒解案」推進方針を打ち出した。・・・
 一方、海軍は奇妙な動きをしたという。
 穏健派の反対で実行には移されなかったものの、海軍省軍務局長・岡はワシントンの横山駐在武官に宛て、「それ以上、交渉には深入りせぬように」と、命令を発しようとしたという。・・・
 ワシントン駐在の海軍武官・横山一郎のもとには、早くから、岩畔、井川の行動を監視し牽制するようにとの指令が届いていたという。・・・
 当時、外務省内部は、日米国交回復を3国同盟に優先して推進しようとする寺崎アメリカ局長と、それに対抗してあくまで3国同盟に固執しアメリカに対して対決姿勢で臨もうという松岡を頂点とした大橋事務次官、加瀬俊一秘書官らの2つの勢力に分かれていたという。・・・
 <英国や蒋介石政権のそれと比べ、>日本の外交は全く不在と言っても良かった。・・・外務省暗号、海軍暗号は既に米国に解読されていたが、唯 一、陸軍の暗号だけは、この時も暗号として機能していた。」

→ダメな順は、外務省>帝国海軍>帝国陸軍、という私の持論どおりでしょ。(太田)

 「<岩畔は>ハルの知る日本の外交官と比べれば月とスッポンだった・・・。
 ハルは・・・言っている。
 「近年日本の軍部が外交を引きずるという声をたびたび耳にするが、岩畔大佐の如き人材が多くそは、なるほど無理からぬ話である」・・・
  <1941年5月10日、>ヒトラーの腹心ルドルフ・ヘスが単身飛行機を操縦してイギリスへ謎の亡命を遂げているが、米英諜報機関はヘスからドイツのソ連侵攻計画を聞き出していたと言われる。・・・
 6月22日の夕刻、<独ソ戦の可能性に言及した>ハルの言葉が気になった野村は、大使館員と駐在武官を集めて、「独ソ開戦の見通し」を皆に問いかけた。
 誰もが、それぞれの意見を述べたが「独ソ開戦必然論」を唱えたのは岩畔だけだった。中でもある情報担当秘書官に至っては、あらゆる論拠を挙げて「独ソ非戦論」を熱弁し、岩畔がそれに対して反論しても不愉快そうに自分の主張を繰り返すだけだった。
 ところが、皆が解散して後、テレタイプ室に足を運んだ岩畔は、まさに「独ソ開戦」を伝える第一報が入電して来るのを目撃する。」

→帝国陸軍軍人の上澄みの方が日本の外交官の上澄みより、よっぽど外交官としても優れていたことが分かりますね。
 同じことが、外交官以外の官僚の上澄み(井川忠雄:元大蔵官僚)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%9B%84
と日本の外交官の上澄みについても言えそうです。(太田)

⇒そうそう、忘れるところでした。
 この日米諒解案づくりの話は、そもそも、二人のカトリック教会神父のイニシアティブで始まったのでしたよね。

 「<1940>年11月25日―― 。2人のアメリカ人神父が横浜港に降り立った。
 カトリック.メリノール派の神父ウォルシュとドラウトである。乗船は日本郵船新田丸。
 港には同派の京都教区長バーン司教と、熱心なカトリック信者として「軍服をまとった修道士」の異名をもつ山本信次郎予備役海軍少将が出迎えた。・・・
 メリノール(Maryknoll Missionaries: Maryknoll Foreign Mission Society)とは、アジア地域教化のため、1911年ジェームス・A・ウォルシュ司教とフレデリック・M・プライス神父により創設されたカトリックの 海外伝道組織である。機構上はバチカンの直轄ということになり、アジア各地へ派遣する司祭の養成が目的であった。入会にはアメリカ国籍を有することが条件とされていた。・・・
  後に、メリノール本部を訪れた岩畔は、教団の活動資金が株式市場で運営されていることを聞かされ、大いに感心している。」
http://www.iwakuro.com/chapter_2/chapter_2-2.html

 つまり、これは、「主権国家」たる法王庁による、ほとんど公式のと言ってもよいところの、日本と(英)米間の仲介の試み・・より正確に言えば、東アジアで反赤露政策を遂行していた日本への支援活動・・であった、ということです。
 (どうして誰もこのことを指摘しないのだろうか。)
 形の上では日本が、しかし、実質上は(英国と)米国によって、この仲介が無に帰したことで、太平洋戦争が起こり、戦後東アジアと中東欧は赤露に席巻されてしまう、という形で、反ナチスとともに反共でもあったところの、法王庁にとっての悪夢が現実化することになるのです。

<εεΕεε>(「たった一人の反乱」より)

 太田さんはダークナイトは見たとコラムでありましたが、評論はされてましたか?

<太田>

 していません。

 それでは、その他の記事の紹介です。

 巨額の株式評価損をくらったところの、機関投資家を含む株主の多数が承認したのに何の文句があるの? というのが形式的な答えだし、日本型政治経済体制ってのはこんなものよ、(そもそも、オリンパス内で誰も飛ばしで個人的にカネ儲けした人物はいなかったでしょ、)というのが実質的な答えだろうな。↓

 「オリンパスは4月20日、一連の損失隠しの責任を取って全取締役が退任するのに伴い、新たな取締役候補の承認などを得るため、臨時株主総会を開いた。英米メディアはこぞってこの臨時株主総会について報じたが、その論調は一様に厳しく冷ややかだった。・・・」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20120425/231396/?ST=pc&REF=ML
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太田述正コラム#5456(2012.5.2)
<ナチスドイツの最期(その3)>

→非公開