太田述正コラム#5234(2012.1.13)
<ビスマルク(その6)>(2012.4.30公開)

8 ビスマルクの遺産

 (1)ウィルヘルム2世とヒットラーによるビスマルクの遺産の蕩尽

 「・・・1930年代初期のドイツの保守主義者達は、現代における最大の誤判断の一つだが、ヒットラーが第二のビスマルクであって、自分達の諸特権を維持するために大衆の支持を活用して、ドイツを再び大国にしてくれる、と信じた。
 というわけで、ステインバーグは、ビスマルクとヒットラーの間に「直線的かつ直接的な」連結(link)を感じる。
 しかし、それは間違いなく誇張だ。
 ビスマルクの任務はいつも限定的なものであり、彼が言うところの、飽和した(satiated)国家たるドイツ帝国を維持することだった。
 それとは対照的に、ヒットラーの生存圏(Lebensraum)に向けての諸計画は、無制限なものだったからだ。・・・」(F)

 「・・・<ビスマルクの>遺産と言えば、ドイツの20世紀における種々の悲劇の種を蒔いたことだった。
 「巨人的な存在の異常なる主権」とステインバーグが呼ぶもの<(=ビスマルク(太田))>によって支配されていた(dominated)ことから、この新しいドイツは、制度的均衡を欠いていた。
 保守主義者達にとっては民主的過ぎ、リベラル達にとっては専制的過ぎたところの、この国内と外国に係る新秩序は、相争う諸力を相互の敵対感情を操ることによって抑制しようとした一人の人格に沿うように仕立て上げられていたのだ。・・・
 2点注意喚起をしておきたい。
 ステインバーグのビスマルクの人格に対する敵意は、彼をして、通常極めて素晴らしかったところのビスマルクの戦略的諸概念を蔑にして、ビスマルクの人格的諸特性を過大に強調させてしまっていることが一つだ。
 もう一つは、ステインバーグがビスマルクからヒットラーに直線を引いていることに関するものだ。
 だが、ビスマルクは合理主義者だったのに対し、ヒットラーは浪漫的虚無主義者だった。
 ビスマルクの本質は、その諸限界と均衡に係る感覚に存した。
 他方、ヒットラーの本質は、自己抑制に係る物差しの欠如と拒絶だ。
 欧州を征服するなどという観念は、ビスマルクの脳裏をよぎったはずがないが、それは、常にヒットラーのヴィジョンの一部だった。
 ビスマルクの有名な金言・・政治的手腕(statesmanship)というものは、歴史を通じての神の足音に注意深く聞き耳を立て、神とともに何歩か歩むということだ・・をヒットラーが口にするようなことはありえなかっただろう。
 ヒットラーは真空を残したのに対し、ビスマルクは、二つの大災厄的<な戦争での>敗北を克服するとともに真似することのできない偉大さの遺産をドイツという国に残したのだ。・・・」(B)

 「・・・ビスマルクは、ドイツ帝国を拡大するのではなく、維持しようとした。・・・
 彼が1914年の時点で宰相であったならば、<第一次世界>戦争は回避できたかもしれない。
 しかし、彼の同盟システムは余りにも複雑であったので、彼以外の誰一人としてそれを運用できるほどの技を持ち合わせていなかった。
 ビスマルクの後継者であるところの、ウィルヘルム2世とヒットラーは、彼の外交的技巧(finesse)も彼の節度(moderation)も、どちらも持ち合わせなかった。
 彼らの手によって、ビスマルクの遺産は破壊されてしまったのだ。・・・」(F)

 (2)現在のドイツでは?

 「彼のドイツ帝国宰相職下で、ドイツは、世界で最も教育水準の高い、最も技術が発達した、最も生産的な国になった、とステインバーグは言う。
 ビスマルクの社会主義への恐れにもかかわらず、(そして、恐れゆえに、)ドイツの勤労者達は、世界において最も早く社会保障制度の恩沢に浴した。・・・」(G)

 「・・・ビスマルクは、我々を偉大かつ強力にしてくれたが、同時に彼は我々の友人達、世界の<我々への>共感、そして我々の良心、を盗み取ったのだ」とフリードリッヒ皇太子は嘆いた。・・・」(G)

 「・・・マックス・ヴェーバー<(コラム#16、81、125、156、210、454、529、957、990、1022、1030、1439、1645、1774、2753、3005、3417、3487、3720、3981、4051、4149、4383)>は、1918年に、ビスマルクは「ドイツ民族に政治教育を施すことを怠り、ドイツ民族は、トップにいる偉大な男が彼らのために政治を提供してくれると期待することに慣れてしまったために、政治的意思を奪われてしまった」と記した。
 これが、ドイツの有識諸階級をして、ヒットラーの種々の犯罪に黙って従わしめた環境なのだ。・・・」(F)

 「アドルフ・ヒットラーの下での欧州支配のもう一つの試み(go)の後、ビスマルクの愛したプロイセンは、布告(decree)によって廃止された歴史上唯一の国という(不)名誉を得た。
 「初期からドイツにおける軍国主義と反動の担い手であり続けたところのプロイセン国は、存在を止めた」と1947年2月に署名された法律によって連合国の占領諸当局は宣言したのだ。・・・」(G)

 「ビスマルクの作品(handiwork)で残っているものはほとんどない。
 現在のドイツの政治は、ドイツ帝国の宿敵(Reichsfeinde)たる両政党であるところの、おおむねカトリックのCDU/CSU(キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟)、及び<社会主義の母斑を残す(太田)>SPD(社会民主党)によって支配されており、この両政党がドイツ連邦共和国を60年以上にわたって静かにかつ平和的に統治してきた。
 また、東と西との間で均衡をとるドイツというビスマルク的観念は、ビスマルクが考える遑がほとんどなかった観念たるEUの中に強固に碇を下したドイツによって超克されている。・・・」(F)

9 終わりに

 ステインバーグや書評子達が指摘していない事実があります。
 それは、ビスマルク(1815〜98年)と(米国人たるリンカーンならぬ)マルクス(1818〜83年)が、まさに、同じドイツ人たる同時代人であったことです。
 私は、二人とも「先進国」イギリスに強いコンプレックスを抱いていたところ、エリート・プロイセン人たるドイツ人のビスマルクは、ドイツをイギリスより早く自由民主主義/福祉国家化しようとした・・彼がユダヤ系イギリス人たるディズレーリと「親友」であったことは興味深い・・のに対し、ユダヤ系ドイツ人たるマルクスは、ドイツを最新型の民主主義独裁国家化・・共産主義国家化・・することでイギリスを超克しようとした、と両者を一対のものとしてとらえています。
 まず、前者の試みについてですが、(イギリス固有の)個人主義/自由主義や人間主義的土壌とは無縁の、すなわち自治や共助的福祉の伝統のない人種主義的なドイツにおいては、ビスマルクによる過早な男性普通選挙制の導入は、(福祉国家化とあいまって、)政治の不安定化を招くことになります。
 他方、後者の試みについては、ビスマルクによるドイツの過早な福祉国家化が、(男性普通選挙制の導入とあいまって、)結果的に、共産主義国家たるドイツの成立を食い止めることになります。

 結局、ビスマルクによるドイツの統一とその過早かつ行き過ぎたイギリス化政策は、ある種必然的に、第一次世界大戦の勃発とドイツの敗北、その後のワイマール共和国の機能障害、(最新型の民主主義独裁たる共産主義・・伝染性が強い・・に代わるところの、イタリア由来の)最最新型の民主主義独裁たるファシズム(ナチズム)・・伝染性が相対的に弱い・・の勃興、第二次世界大戦の勃発とドイツの再度の敗北、をもたらすこととなり、その結果、ある意味でプロト欧州文明(カトリック文明)に先祖返りをした感のあるところの、水で薄めた全体主義国家たる戦後ドイツが成立した、というのが私の見解です。

 そこで結論です。
 共産主義国家であったところの、(かつてのプロイセンの後継国家という側面もあった)東独が、最後まで、ソ連よりもはるかに効果的かつ効率的に機能し続けたことに照らせば、仮に20世紀前半にロシアではなくドイツで共産主義革命が起こっていたとすれば、共産主義圏は、21世紀の現在、より世界を席巻していた形で、しかも、いまだに崩壊していなかった可能性が大であるところ、結果としてであれ、ドイツにおける共産主義革命の芽を摘み取ったビスマルクの人類全体に対する功績は、(彼が第一次及び第二次世界大戦をもたらした点を割り引くとしても、なお)巨大なものがある、と言うべきでしょう。

(完)