太田述正コラム#5222(2012.1.7)
<ダニエル・カーネマンの世界(その6)>(2012.4.24公開)

 (5)その他

 「・・・「最も良く知られ、最も議論のある」実験が、彼とツヴェルスキーが一緒にやった「リンダ問題(Linda problem)」だ。
 参加者達は、リンダという仮想上の若い女性で、独身で、はっきりものを言い、大変頭の良い学生で、差別と社会正義の問題に深い関心を持っている人物について聞かされた。
 その上で、参加者達は、次の二つのうちどちらの可能性の方が高いかを尋ねられた。
 一、リンダは銀行の窓口嬢である。
 二、リンダは銀行の窓口嬢でフェミニスト運動に積極的に取り組んでいる。
 圧倒的多数の答えは、二の方がより可能性が高い、というものだった。
 換言すれば、関連情報が提供されている以上、「フェミニストの窓口嬢」が「窓口嬢」に比べて、よりもっともらしいというわけだ。
 もちろん、これは、確率の法則を甚だしく蔑にするものだ。
 (フェミニストの窓口嬢は全員窓口嬢だ。より詳しい情報を付け加えることは、確率を減らすことに他ならない。)
 ところが、確率論について広範な訓練を既に受けていたはずのスタンフォード・ビジネス・スクールの学生の85%がこのリンダ問題でしくじってしまった。
 初歩的な論理的しくじりを犯したと知らされた一人の女子学生は、「私は、あなたが私の意見を聞いたと思ったですが」と答えたものだ。・・・」(F)

 「・・・言語学者達が「含意群(implicatures)」と呼ぶ、述べられていないところの諸期待の豊かな背景の下で我々の日常的会話は行われる。
 かかる含意群は心理学的諸実験に染み込む。
 我々の会話を促進するところの諸期待の下では、この実験への参加者達が、「リンダは銀行の窓口嬢である」を、彼女はそれに加えてフェミニストではないという含意である(imply)、と受け止めることは、極めてまっとうなことなのかもしれないのだ。
 仮にそうだとすれば、彼らの回答は、実際には間違いではなかった、ということになろう。
 結局のところ、恐らくは、我々はそれほど非合理的な存在ではないのだろう。・・・」(F)

 「我々は、いつも原因、とりわけ人的原因を探そうとする。
 だから、我々は、2つのものの間に関連(association)を見出した場合、一つの出来事がもう一つの出来事の原因になった、と余りにも簡単に結論付けがちなのだ。・・・
 第二次世界大戦中に、ドイツの爆弾が南ロンドンのいくつかの場所に落ちなかったことがあったところ、人々は、これらの地区に敵のスパイが隠れているためではないか、と疑った。
 しかし、統計学的分析を行ったところ、パターンのように見えたことは、恐らくは偶然の結果であったことが判明した。・・・
 <また、>カーネマンが、知的形成期のイスラエル軍の心理学者であった時代に、彼は、良い成績を褒めることは逆効果である、と執拗に主張する飛行教官達に出会った。
 操縦をうまくやり遂げたことを褒められた候補生達は、次回もう一度やらせると、一般に出来が悪いが、大失策をしでかしてこっぴどく叱られた候補生は次回にはもっとうまくやる、という経験を彼らはしていたからだ。
 しかし、彼らは、<事象は>分散(variation)するとの本性からして、やらせたことが顕著に良かったり悪かったりした後でまた<同じことを>やらせると、前の出来が良ければより悪く、悪ければより良く、より平均に近い出来になるものである、ということが分かっていなかったのだ。・・・」(D)

 「・・・カーネマンは、自分自身の偏向を描写する手段を知っているからといって、その偏向を克服することにさして資するわけではない、と我々に対して注意を喚起する。
 もしも我々が社会の中で合理的なふるまいをみんなにやらせようと思うのなら、我々全員が協力しなければならない、と彼は主張する。
 他人の失策(errors)を見つける方が自分の失策を見つけるよりも容易であることから、我々全員が、自分の友人達の出来の悪い判断をあげつらい、その犯した誤りを笑いものにしなければならない、と。・・・」(E)

3 終わりに

 ありとあらゆるおかしなことを、世の中の人は無自覚のまましでかしています。
 だからこそ、最後に引用したカーネマンの言には重いものがあります。
 おかしなことをしでかした人や集団に対して、(温かい思いやりでもって接しつつも、)それをあげつらい、笑いものにすることは我々の市民的義務である、ということです。
 日本は、人間主義社会であることもあずかって、いつの時代にも、「まともな」市民によってそれが比較的適時適切に行われてきたからこそ、日本の社会の、他の社会に比べての相対的健全性が保たれてきたのであろう、と私は思います。
 ですから、口幅ったいですが、私のように、一般の人に比べて、若干、より世界を知っているために先入観が少なく、また、幸か不幸かしがらみも少ない、という意味で「恵まれている」「まともな」人間は、一般の市民に比べて、かかる市民的義務を、より敢然と遂行することが求められている、と改めて肝に銘じた次第です。

(完)