太田述正コラム#5200(2011.12.27)
<リベラルなイスラムは可能か(その3)>(2012.4.13公開)
          
 (2)「リベラルなイスラム」を目指して

「20世紀を通じて、トルコと他の中東諸国は、世俗的専制主義と宗教的専制主義の間の選択を提供された。
 <しかし、>イスラム世界に必要なのは、「イスラムとリベラリズムの止揚」であるとアキョールは言う。
 現在のトルコは、この理想に最も接近しつつある。・・・
 彼は、7世紀に編纂されたコーランが、その時代と場所の伝統の頸木を断ち切り、財産に対する保護の権限を与え、理性による判断を呼びかけ、(専制君主の気まぐれによる統治とは対蹠的な)法の支配の観念を促進したことを銘記する。・・・
 それをおちぶれさせたのは何かをめぐる議論が何世紀にもわたって猛威を振るっている。
 アキョール氏は、それが、中東における「砂漠の文化」の勝利のせいだとする。・・・
 初期の段階においては、イスラムは「商人達、及び彼らの合理的で活気に満ち、かつ世界主義的な思考傾向によって駆動された」宗教であった、とアキョール氏は言う。
 しかし、究極的には、「東洋のより強力な階級であるところの、地主達、兵士達、そして小作人達が支配的となり、より少なく合理的でより多く静的な思考傾向がこの宗教を形作り始めた。
 そして、交易が減衰すればするほど、イスラム教徒の考え方はより停滞して行った。」・・・
 近代的な<トルコ>共和国の建国者たるケマル・アタチュルク(1881〜1938年)は、リベラルにとっては遺憾なことに、彼の共和制的世俗主義の霊感をフランスの生硬なフランス的世俗主義(laicite)<(注10)>から得た。それは、宗教を国家の下に置いてしまった。

 (注10)国家世俗主義(state secularism)とも言い、国家と宗教の完全分離を特徴とする。
http://en.wikipedia.org/wiki/La%C3%AFcit%C3%A9

 アタチュルクの中央集権的政府と国家主義的経済的諸観念は、ビスマルク(Bismarck)のドイツ由来だ。・・・

 (注11)Otto von Bismarck。1815〜98年。ドイツ帝国宰相:1871〜90年。プロイセン首相(Minister President):1862〜73年、1873〜90年。
 「<彼が就いていた>ドイツ帝国とプロイセン王国双方の役職から、ビスマルクは、ドイツ帝国の内政と外交政策に対するほぼ完全なコントロール権を有していた。・・・
 1873年に、ドイツと欧州及び米国の多くが長い不況期に入った。・・・ビスマルクは、自由貿易を放棄し、保護関税網を構築することとした。・・・<こうして、彼は、>1879年にドイツの農業と工業を外国の競争相手から守るための各種の関税を施行した。・・・
 ドイツは、プロイセン<王国>とザクセン<王国>において、1840年代から始まるところの、福祉制度の長い伝統を有した。
 1880年代における、ビスマルクの社会保険制度は、世界最初のものであり、他の諸国のモデルとなり、近代福祉国家の基礎となった。
 ビスマルクは、老齢年金、損害保険、医療<保険?(太田)>、雇用保険を導入した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_von_Bismarck#Economy

 アキョール氏の英雄は、トゥルグット・オザル(Turgut Ozal)<(注12)>だ。

 (注12)1927〜1993年。クルド人の血が混じる。イスタンブール工科大学卒。トルコ首相:1983〜89年。トルコ大統領:1989〜93年。国営企業の民営化に着手した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Turgut_%C3%96zal

 彼は、1993年の早すぎた死までの10年間、トルコの政治を牛耳った。・・・
 首相として、エルドガン(Erdogan)<(注13)>氏は、オザルの遺産の上に<現在のトルコを>築いたのだ。」(B)

 (注13)Recep Tayyip Erdoğan。1954年〜。貧しい家庭に生まれ、高卒後、経営学を学ぶ。若い頃、地方のクラブのセミプロのサッカー選手だった。イスタンブール市長に当選するも、市長時代に吟じた詩がもとで投獄される。2003年にトルコ首相に就任、現在に至る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Recep_Tayyip_Erdo%C4%9Fan

 「(13世紀末から始まり20世紀にまで至る)オスマン帝国になってようやく、イスラムは経済的足がかりを再構築し始めた。
 言ってみれば、オスマン帝国は、もちろん、イスラムにとっての「ルネッサンス時代」だったのだ。
 それは、思想、芸術、哲学、そして文化というたくさんの分野にわたる偉大なる刷新の時だった。・・・

→アキョールが何のことを言っているのか不明です。
 そのスルタンのアハメッド(Ahmed)3世の時のいわゆるチューリップ時代(1718〜30年)が欧州のバロックやロココ文化の影響を受けてのものであった以来、オスマントルコの「思想、芸術、哲学、そして文化」は、欧州文化の表層的輸入とその立ち枯れの連続に過ぎないからです。
 唯一、評価できるとすれば、それは、欧州で迫害されていたユダヤ人を積極的に受け入れ、交易の振興を図ったことでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire (太田)

 トゥルグット・オザル・・・の諸政策は、観念、宗教、及び事業の自由に立脚していた。
 オザルは、アキョールによれば、自由交易の上に構築された計画経済が健全なる(robust)トルコ経済の基礎をつくると信じた。
 オザルの時代は、その早すぎる(自然)死によって終わり迎えたが、オザル革命として知られている。」(C)

(続く)