太田述正コラム#5174(2011.12.14)
<田中上奏文(その4)>(2012.3.31公開)

 「キャプラの宣伝映画「なぜ戦うのか」シリーズで注目すべきは、1944年の作品『バトル・オブ・チャイナ』であろう。『バトル・オブ・チャイナ』は、「なぜ戦うのか」シリーズの第4作であった。この映画は、第二次上海事変における無差別爆撃の映像に始まっており、・・・「田中メモリアル」が「世界征服の青写真」として登場し、"In order to conquest the world, we must first conquer China"という一節が引用された。
 <そして、>・・・満州地下資源の獲得、中国の人的資源の征服、インドなど南方の制圧、東進によるアメリカの壊滅、という四段階の計画が「田中メモリアル」にはある。このような日本の野望には、後ろ盾としての中国が必要であり、満州事変によって「田中メモリアル」の第一段階は達成された。さらに日本は、世界制覇に向かおうとしたが、日中戦争における中国の抵抗によって、「田中メモリアル」の第二段階は成し遂げられなかった。「田中メモリアル」の第二段階が行き詰ったにもかかわらず、日本は第三段階と第四段階をこれ以上遅らせるべきでないと判断したという。ソ連やイギリスがヨーロッパ情勢にかかりっきりであり、アメリカの国力も整っていなかったからである。
 その時期を見計らって、第二段階が完成していないにもかかわらず、日本は「田中メモリアル」の第三、四段階、すなわちインド諸国とアメリカの征服に踏み込んだと『バトル・オブ・チャイナ』は訴えた。これが真珠湾攻撃であ<る>・・・というものであった。・・・
 1945年の『汝の敵を知れ--日本』も、プロパガンダ映画として著名である。やはり監督はキャプラであり、制作はアメリカ陸軍省であった。この映画では、日本人が天皇と軍隊に従順な民族として描かれた。とりわけ、太平洋戦争中に日本が掲げた八紘一宇という標語が強調されており、「田中メモリアル」も何度か映画に現れた。映画によると、「田中メモリアル」は「日本の『我が闘争』」であり、八紘一宇という目的のもとでアメリカが最終的な標的にされているという。満州事変のような大陸進出策も、「田中メモリアル」の計画に従ったものと位置づけられた。当然ながら、『汝の敵を知れーー日本』において、「田中メモリアル」は中国を支援する文脈において用いられている。
 「田中メモリアル」を用いた戦時中のアメリカ映画は、宣伝映画に限られない。1945年の娯楽映画『ブラッド・オン・ザ・サン』にも、「田中メモリアル」は用いられた。その内容は、アメリカ人新聞記者が東京で「田中メモリアル」を入手して、日本の野望を伝えようと奮闘するというものである。・・・
 冒頭のキャプションで、田中義一は「東洋のヒトラー」と紹介された。・・・
 大戦末期のアメリカでは元海軍大将のヤーネル(Harey E. Yarnell)<(注8)>が、『ワシントンポスト』紙上で「田中メモリアル」に論及した。ヤーネルは、アジア艦隊司令長官を1936年から1939年まで務めて退役していた。同紙でヤーネルは、国際機構の設立を提案したダンバードン・オークス会議を受けて、戦後秩序のあり方について提言した。そこでは、「田中メモリアル」についても触れられており、ドイツや日本は『我が闘争』や「田中メモリアル」で野心を公言したとヤーネルは論じたのである。」(249〜251)

 (注8)1875〜1959年。海軍兵学校、海軍大学。米海軍勤務:1899〜1944年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_E._Yarnell

 「1944年・・・11月<当時の>・・・外務省政務局の調書によると、ソ連の対日観は、「田中上奏文」に基づいて侵略政策を実施した日本がノモンハン事件などで対ソ政策に行き詰まり、南方に転じて対英米戦を開始したというものであった。・・・
 1945年・・・8月15日の・・・玉音放送と前後して、・・・ハバロフスクのラジオ局は、降伏した日本に追い打ちをかけるような非難を浴びせた。・・・
 日本は「田中メモリアル」の世界征服計画を実践して太平洋戦争にまで至っており、ソ連の対日参戦は正当化されるという。」(252〜253)

→結局のところ、米国のローズベルト政権もまた、当時の中国国民党同様、(しかし、中国国民党とは違って、ほとんどその意識のないまま、)赤露の支那侵略政策のフロントを務めた、という感を深くしますね。
 (亡命したトロツキーは、反スターリンではあっても、死ぬまで赤露に忠義を尽くしたといったところでしょうか。)(太田)

(続く)