太田述正コラム#5166(2011.12.10)
<大英帝国論再訪(その2)>(2012.3.27公開)

 (3)批判的証言

 「彼がビルマでの警察官としての職を辞してから2年後の1929年、ジョージ・オーウェル(George Orwell)<(コラム#508、739、1105、1254、2099、3243、3873、3929、4107、4471、4676、4866、5009)>は、果たして大英帝国は良かったのか悪かったのかという、英国と米国の多くの人々を依然として悩ましている問題について、少なくとも彼の頭の中で結論を下し、彼は、「<大英帝国とは>奴隷と主人<の関係>なのだ。主人は良いのか悪いのか?そんなことは問題ではない。だから、我々は、単に、このコントロールは専制的(despotic)で自己本位なものでる、と言うことにしようではないか。」と記した。
 ルドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)<(コラム#356、712、2456、4446、4568、5009)>による、白人の重荷を雄々しく背負った英国人兵士達、行政官達、そして技師達という伝説について、1942年に記したオーウェルは、更にぶっきらぼうだ。
 彼は、「帝国というものは、第一義的には金儲けの営みであるということについて、平均的な兵士や植民地行政官と同様に、キップリングは気が付いていないように見える」とオーウェルは記した。・・・
 インド総督のベンティンク(Bentinck)卿<(注5)>は、1834年に、英国の自由貿易者達によって零落へと追い立てられたところの、「綿織物の織り手達の<遺骸の>骨」が「インドの平野という平野を白く染めている」と報告した。・・・

 (注5)Lieutenant-General Lord William Henry Cavendish-Bentinck 。1774〜1839年。インド総督(Governor-General of India):1828〜35年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_William_Bentinck

 例えば、インドの初代首相のジャワハルラル・ネール(Jawaharlal Nehru)<(コラム#354、749、1790、1847、2262、3486、3496、3698)>は、彼自身のような進歩的なインド人達が、「民主主義と自由」について語ることが英国人をどれほど「苛立たせた」かを知っていた。
 「これらの言葉は、我々が使うために作られたのではなかったからだ」とネールは冷笑的な意見を開陳した。・・・
 英帝国主義がナチズムの「双子の兄弟」<(注6)>であって、<両者の>「変奏」<の程度>ときたら、前者は「植民地や属国(dependency)で機能した」のに対し、後者は欧州で同様に機能するものとみなされた点だけだ、という1936年になされたネールの分析を<見ても分かるように、>彼の慢性的な親英主義は、彼の分析を水で薄めはしなかった。」(F)

 (注6)コラム#5067で既出。

 (4)ゴット批判

 「<ゴットとは対照的に、>パックスマン(Paxman)<(注7)>は、「原住民」が「我々」に対して犯した身の毛のよだつ数々の所業を思い起こさせてくれることに、かつまた、帝国を運営した人々の大部分は本当はそんなに悪い連中じゃないと<我々を>安心させてくれることに、より関心があるように見える。」(B)

 (注7)Jeremy Paxman。1950年〜。英国のジャーナリスト、作家、テレビ・プレゼンター。今年 'Empire: What Ruling the World Did to the British' を上梓。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Paxman

 「英国の全球に及ぶ帝国的な掛かり合いは、とにかくあまりに巨大かつ種々雑多な現象であることから、単一的評価はできない。
 17世紀のニューイングランドへの清教徒の植民、19世紀の南アフリカないし支那への資本投資、1950年代のケニヤでの警察行動、そして今日におけるアフガニスタンでの紛糾(embroilment)、の全てを網羅する貸借対照表をつくることは、可能であるとしても、かなり無意味だ。」(B)

 「ゴットが反抗運動に焦点をあてることで失われるものは、<原住民による>協力(collaboration)の意味を理解するにあたっての微妙さだ。
 彼は、繰り返し20世紀ナショナリズム、そして反ファシズムさえ、のレンズを<通して物を見る>ことを繰り返し強いるため、叛徒にならなかった者は裏切り者や「第五列」にされてしまう。
 彼は、各種の英勤王党を配慮と同情を持って調査しようとはしないし、いかなる過ちからかはともかく、自分の運命を英国側に投じることを選択した人々の動機と経験を調査しようともしない。
 彼は、英国の力の経済的・技術的基盤が1750年と1850年の間にどのように変わったかを探索することもしない。
 科学と産業が生産、運輸、通信、そして戦争にもたらした革命のおかげで、英国が<原住民の>自発的協力を、より容易にその気にさせた上で強奪することを可能にし、英国人達の国民としての自分達自身に対する理解と英国人達のより広い世界における諸権利に対する理解を変えたというのに・・。
 <つまり、>大英帝国は、暴力以上のものによってつくられたの<であって、ゴットは間違っているの>だ。」(A)

 「<この本の>巻末注と関係書目から見る限り、<ゴットが>大英帝国史に関する最も重要な近代的著作のほとんどどれにも一瞥さえくれていないことは明らかだ。・・・
 ゴットの証拠的基盤は当惑させるほどのごたまぜだ。
 時々、彼はほぼ時代遅れになってしまった著作に、そして時々、多数の、適切で、より専門的な文献が存在する場合においても皮相的な説明に、依拠している。
 時々、彼は特定の主張について、典拠を全くあげていないことがある。
 そして典拠をあげる場合も、彼は、決してその本の関連する頁をあげることをしない。
 だから、我々は、大変な努力をしない限り、彼の参照先にたどりつけない。
 それができないのなら、注をつけても仕方がないというのに・・。」(B)

 (5)結論

 「<ゴット批判者は四の五の言うが、>英国が本当にその諸植民地において大きな成功を収めたのなら、どうしてその<旧植民地の>多くが、いまだに暴力と騒擾の源であり続けているというのだ。」(C)

3 終わりに

 引用だけで十分だと思い、コメントは付けませんでした。

(完)