太田述正コラム#5154(2011.12.4)
<映画評論31:ニュルンベルグ軍事裁判(その5)>(2012.3.21公開)

 (3)手続き的不公正

   ア 裁判所が立法機能と検察機能を持つ

 「1945年8月8日、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝連合国はロンドン協定 (London Charter of the International Military Tribunal) を定めて、裁判の法的枠組みを設定した。しかし、・・・ロンドン協定には、アメリカ検事ジャクソン、フランス予備裁判官ファルコ、ソ連検事ニキチェンコが署名している。このことは、ニュルンベルク裁判が、立法者、検察官、裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分割」という根本的な原則からして大きく逸脱していたことを意味している。」(E)

   イ 弁護側が差別された

 「証拠の・・・選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…また、・・・検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。
 控訴権もない。・・・
 証拠採用基準は近代の裁判基準から大きく逸脱しており、通常の裁判でならば、信頼できないものとして却下されるような伝聞証言が、犯罪を立証する証拠として採用され<(注5)>、弁護団には裁判資料を閲覧する機会、検事側の証人に対する反対尋問の機会がほとんど与えられず、その一方で弁護側の証人は様々な脅迫を受けて、出廷を妨げられたり、退廷させられたりしたからだという。もっと問題であるのは、被告が逮捕・尋問の過程で脅迫ひいては拷問を受け、自白を迫られていることである。アウシュヴィッツ収容所の所長であったヘスも、尋問の際にリンチを受けている。」(E)

 (注5)「偽善の抗弁(tu quoque<=appeal to hypocrisy=自分だって同じ罪を犯しているじゃないかとの抗弁
http://en.wikipedia.org/wiki/Tu_quoque 
>)は認められなかった。・・・
 ニュルンベルグ裁判所規約(The Charter of the International Military Tribunal)・・・第19条は、「本裁判所は証拠に関する技術的諸規範には拘束されない。…また、本裁判所が証拠価値(probative value)があるとみなすいかなる証拠も採用することができる」と、そして・・・第21条は、「本裁判所は、共通の知識<の域に達している>事実であるとの証明を求めずして裁判所の当然の認識(judicial notice)としなければならない。すなわち、様々な連合諸国において戦争犯罪の調査のために設立された諸委員会の活動や資料、及び連合諸国の軍事その他の裁判所の記録や発見、等の連合諸国の公式資料や報告書を裁判所の当然の認識としなければならない。」と規定していた。」

   ウ その結果何が起こったか

 「ニュルンベルク裁判では、ドイツ側の戦争犯罪が告発されたが、その中には現在冤罪であったことがはっきり分かっているものもある。例えばカティンの森事件は、今日ではロシア政府も当時のソ連が虐殺を実行したと認めている事件であるが、ニュルンベルク裁判当時は、ソ連検事は虐殺の責任をドイツに押し付けた。この事件はソ連が崩壊するまでドイツによる仕業と信じられていた。」(E)
 「ソ連の主任検事は、スモレンスク(Smolensk)近くのカティン(Katyn)の森での数千人のポーランド人将校の殺害<(コラム#3285、3935、3941、3947、4330、4834、4868)>に関して被告達を告発しようとして偽の資料を提出した。しかし、他の連合国の検事達はこの告発を支持することを拒否し、ドイツ人弁護士達は<ソ連にとって>ばつが悪い弁護を行うと確言した。結局、カティンの森虐殺に関しては、誰も起訴されず、従って有罪ともされなかった。1990年にソ連政府は、カティンの森虐殺はドイツによってではなく、ソ連の秘密警察によって実行されたことを認めた。」(F)

 「大戦中、ポーランドのイェドヴァブネ村で起こった虐殺事件(イェドヴァブネ事件)<(注6)>も、ドイツ軍によるものと長年にわたって信じられていたが、現地調査により実際にはポーランド人の手によって行なわれたことが判明している。

 (注6)Jedwabne pogrom。「1941年6月、ドイツ軍はソビエト侵攻の際、1939年の独ソ不可侵条約によりソビエトに併合された地域を即座に侵略した。この地域でナチスは「ユダヤ人はポーランドに対するソビエトの犯罪行為を支援している」とプロパガンダを行い、ナチス親衛隊によって地域のユダヤ人を殺害するための特務部隊が組織された。イェドヴァブネ北東の町Wiznaでは数十人のユダヤ人がドイツ軍によって銃殺されるところが目撃されている。
 一ヵ月後の1941年7月10日朝、イェドヴァブネの非ユダヤ系住人は近隣のユダヤ人をWiznaやKolnoから訪問中の者も含めてできるだけ集め、包囲。町の中心区画に追いやり、暴行を加えた。その中の40から50人のユダヤ人は、ソビエト占領期に建造されたレーニンの像を破壊するよう強制された。彼らはそれから殺害され、像の破片と共に埋められた。
 しばらく後(一時間後あるいは二、三時間後と証言者によって異なる)、暴行で死ななかった残りのユダヤ人は小屋に集められ、そこに火を放たれた。彼らは生きたまま焼き殺された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%96%E3%83%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ダッハウ強制収容所などドイツ国内にあったとされていた大量殺害を行なうためのガス室を備えた絶滅収容所の存在も現在では否定されている・・・。ニュルンベルク裁判で、大量ガス殺の現場証拠として法廷に提出されたのは、アウシュヴィッツ収容所の物的証拠ではなくダッハウ収容所のシャワールームの水栓であった。裁判では、ダッハウ収容所はシャワー室を改造したガス室の存在した絶滅収容所だと断定され、絶滅収容所はドイツ各地に存在したとされた。反対尋問は許されず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。しかし現在では、イスラエルの学者でも、ダッハウ収容所で大量ガス処刑が行なわれたという者はいないし、ドイツ国内に絶滅収容所があったという者もいない。ナチの戦犯追及に尽力したユダヤ人活動家、サイモン・ヴィーゼンタールも、ドイツ国内には絶滅収容所はなかったと述べている。
 現在、絶滅収容所であったとされているのは、ソ連軍が占領して調査した東ヨーロッパの収容所である。これらの収容所は戦後しばらく、ソ連が立ち入りを禁止したために、西側の調査団は調査を許されなかった。そのため、ソ連が解放した収容所の実態についての議論が尽きない状態になっている。・・・
 ニュルンベルク裁判では、ソ連検事が「人間の死体から石鹸を作ることが行なわれた」と告発し、裁判の判決も「犠牲者の死体の脂肪から石鹸を商業生産する試みがなされた」と断定した。だが、・・・脂肪ではなく水酸化ナトリウム及びカリウムについては人間のものが使用された痕跡があり、脂肪から作られた事はないが、研究の中で人間から造られた石鹸があるとする見方が主流である。またホロコースト史家のイスラエル・ガットマンは「今日ではそれが大規模に行われたことはない」と述べている。・・・
 1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所に到達し、約7,500名の収容者がソ連兵士によって解放された。ニュルンベルク裁判でソ連検事は、アウシュヴィッツで「400万人」が虐殺されたと告発した。アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスも裁判で「250万人がガス室で殺され、そのほか50万人が飢えと病気で死亡した」と証言している。
 しかし、現在ではこの人数は公式に否定されている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、ソ連崩壊後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められた。世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。これらの数字についても疑問視している研究家もいる。」(E)

 以下は、ブラックユーモアのような話です。

 「ソ連の主任弁護士のルデンコ(Rudenko)大将は、ニュルンベルグ裁判の後、ザッハゼンハウゼン(Sachsenhausen)強制収容所の所長になった。
 (東独の終焉の後、ソ連<占領>時代の犠牲者12,500人<の遺体>がこの収容所から発見された。
 それらは主として、「子供達、青年達、そして高齢者達」だった。)」(F)

 (4)如何ともしがたい問題?

 「ニュルンベルク裁判アメリカ検事団長のロバート・ジャクソン連邦最高裁判事の上司で、当時アメリカ連邦最高裁長官だったハーラン・フィスケ・ストーン判事 (Harlan Fiske Stone) は、・・・私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。」(E)

(続く)