太田述正コラム#5130(2011.11.22)
<世界殺戮史に思う(その10)>(2012.3.9公開)

 「レオポルドのコントロール下にあった期間における死者数の様々な推定にはかなり差がある。
 自由国の統治の始まりからベルギーによる統治が始まった1908年との間の人口の減少は、この比較を行った全ての人が銘記しているところだ。
 最近の本件に関心を持つ人々や最近の・・・学者の推計は、この期間の人口は半分に減ったことを示唆している。
 しかし、異論を唱える人々もいる。
 ベルギーの・・・学者達<がそうだ。>・・・
 ロジャー・ケースメント<(前出)>によれば、この人口減少には、「無差別戦争」、飢餓、出生率の低下、そして疾病という、4つの主要な原因があったという。
 眠り病(sleeping sickness)<(注24)>がこの国を荒廃させたが、体制側は、それを人口が減少した言い訳に用いてきた。

 (注24)アフリカ睡眠病=嗜眠(しみん)性脳炎。「ツェツェバエが媒介する寄生性原虫トリパノソーマによって引き起こされる人獣共通感染症である。病状が進行すると睡眠周期が乱れ朦朧とした状態になり、さらには昏睡して死に至る疾患であり、これが名前の由来となっている。・・・イスラム帝国を作り上げたアラブ人がなぜサハラ砂漠以南を征服できなかったかについては、本疾病が大きな理由と言われている。また、カメルーンなど・・・では、・・・南部の海岸沿いよりも北部のサハラ砂漠の周辺部で発展してきたと言われる。これも、本疾病のために家畜を中南部に連れてくることができなかったためとされている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%9D%A1%E7%9C%A0%E7%97%85

 しかし、レオポルド国王の反対者達は、行政当局それ自体がこの伝染病の流行に責任があるとみなされるべきであるとしてきた。
 <ベルギーのある>教授は、「ずっと昔からこの病気のあったコンゴ自由国、フランス領コンゴ、及びアンゴラの領域内の地域に恒常的に存在したこの病気が、これら地域の<西欧勢力による>占拠に伴うところの、祖先からの生活状況や生活様式の暴虐的変更によってふたたび活発化した、ということが認められるのではないかと思う、と指摘している。
 <コンゴ自由国で>国勢調査が行われなかった・・初めて<ベルギー領コンゴで国勢調査が>行われたのは1924年だ・・以上、・・・この期間の人口の変化を数字で示すことは不可能だ。
 それにもめげず、・・・少なくとも500万人<減った、>・・・<或いは>1000万人<減少した、>・・・<もしくは、>3000万人から800ないし850万人に減った<、という諸説が唱えられている。>」
http://en.wikipedia.org/wiki/Congo_Free_State 前掲

 (コンゴ自由国での原住民虐待振りについて、もっと知りたい方のために。
 マーク・トウェインの前出の本に引用されている、イギリス宣教師の手紙が物語る、コンゴ自由国におけるゴム集めの恐るべき実態が下掲に出ています。
http://www.geocities.jp/shokatusei/Memorial/30000a.html
 また、既に引用した下掲もよろしければ目をお通しください。
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-49dd.html 前掲)

 (20)ロシア内戦(Russian Civil War)(1917〜22(23?)年 壊 9 ?%)

 表記については、シベリア出兵という切り口で、これまで何度か取り上げたことがありますが、その全体を取り上げたことはありません。
 どうしてロシア内戦が起こったかは明明白白なので、その間に行われた殺戮に焦点をしぼりたいと思います。

 「この内戦の結果は巨大なものだった。
 ソ連の人口学者の・・・は、この内戦とポーランド・ソヴィエト戦争(Polish Soviet War)<(注25)>の戦闘で殺された者の総数を300,000人(赤軍が125,000人、白軍とポーランド軍が175,000人)で、(両者の側からの)疾病による軍人の死者数は450,000人である、と推定している。
 大粛清(Red Terror)の間に、<共産党側の秘密警察である>チェカ(Cheka)は「人民の敵」を総数で推定250,000人処刑した。

 (注25)ポーランド・ソビエト戦争=ポーランド・ソ連戦争。「第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランド[共和国/ウクライナ人民共和国とロシア社会主義連邦ソビエト共和国/ウクライナ社会主義連邦ソビエト共和国]のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。・・・実際に戦争が行われたのはソビエト社会主義共和国連邦成立前である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E6%88%A6%E4%BA%89
http://en.wikipedia.org/wiki/Polish%E2%80%93Soviet_War ([]内)

 <また、>総数約300万人のうち、約300,000人から500,000人のコサックが、非コサック化(Decossackization)の期間中に移住させられた。
 <更に、>推定100,000人のユダヤ人が、その大部分が白軍によってウクライナで殺された。
 <はたまた、>全大ドン・コサック団(All Great Don Cossack Host)<(注26)>の懲罰諸機関は、1918年5月から1919年1月の間に25,000人の人々に死刑を宣告した。

 (注26)ドン・コサック団。16世紀末から20世紀初頭まで存在した、ロシアの辺境軍事組織。
http://en.wikipedia.org/wiki/Don_Cossacks

 コルチャック(Kolchak)<(コラム#4643)>の政府は、エカテリンブルグ<(注27)>州(Ekaterinburg province)だけで、25,000人の人々を射殺した。

 (注27)Yekaterinburg。ウラル山脈地域の東側に位置する都市。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yekaterinburg

 この内戦が終わった時点で、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(Russian SFSR=Russian Soviet Federative Socialist Republic)は消耗しきり、ほとんど廃墟と化すに至っていた。
 1920年と21年の旱魃と1921年の飢饉は、この大災厄を更に悪化させた。
 疾病は全国的流行病の域に達し、1920年にはチフスだけで3,000,000人が死んだ。
 更に何百万人もが、広範な飢餓、両者側による大規模な虐殺、そしてウクライナと南ロシアでのユダヤ人に対するポグロムによって殺された。
 1922年には、第一次世界大戦とこの内戦による10年間近くの荒廃の結果、少なくとも7,000,000人の路上生活児童が存在するに至っていた。
 これに加えて、白いエミグレ(White emigres)と呼ばれたところの、100万から200万人の人々が、・・・若干は極東から、残りは西から新しく独立したバルト海諸国へと、ロシアから逃亡した。
 これらのエミグレには、教育を受け技術を身に付けたロシアの人々のかなりの部分が含まれていた。
 戦争によってロシアの経済は荒廃し、工場や橋は破壊され、牛や原料が略奪され、鉱山は水で満たされ、機械は破壊されていた。
 産業生産額は1913年の7分の1に落ち、農業生産額は3分の1に落ちていた。・・・
 1921年時点の総工鉱業生産は第一次世界大戦前の20%に落ちていたと推定されている。
 多くの枢要な物品はもっとひどく減っていた。
 例えば、第一次世界大戦前の水準からみて、綿花生産は5%へ、そして、鉄の生産は2%へと。・・・
 農民達は食糧徴発に対して農地を耕作しないことで応えた。
 1921年には、耕作地は第一次世界大戦前の面積の62%に縮減し、収穫量は通常の約37%に過ぎなかった。
 馬の数は1916年の3,500万頭から1920年には2,400万頭へ、牛は5,800万頭から3,700万頭へと減少した。
 対米ドル交換率は、1914年の2ルーブルから、1920年には1,200ルーブルへと下落した。・・・
 <以上、しめて、>犠牲者総数は、共産党側が1,212,824人(数字に漏れがある)、反共産党側が、少なくとも1,500,000人<と推定されている。>」
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Civil_War

(続く)