太田述正コラム#5126(2011.11.20)
<世界殺戮史に思う(その8)>(2012.3.7公開)

 (13)元王朝の没落(Fall of the Yuan Dynasty)(1340〜70年 壊 7.5 2.1%)

 紅巾の乱についてのコラム(#4906)に譲ります。

 (14)太平天国の乱(Taiping Rebellion)(1850〜64年 内 20 1.7%)

 太平天国の乱についてのコラム(#4902)に譲ります。

 (15)毛沢東(大部分は飢饉)(Mao Zedong (mostly faime))(1949〜76年 専 40 1.3%)
 全般については、毛沢東について取り上げたコラム(#745、746)、(及び毛沢東の悪行のうち)大躍進政策について取り上げたコラム(#4236)があるので、これらコラムに譲ります。

 (16)30年戦争(Thrity Years War)(1618〜48年 壊 7.5 1.4%)

 かつて(コラム#129と162で)オルダス・ハックスレーの著作を通じて、フランスのリシュリューやトロンブレーの立場から30年戦争に触れたことがありますが、この戦争そのものがいかなるものであったかを書くときりがないので止めますが、そこで記した30年戦争における殺戮数を最新のものに置き換える必要があるので、ウィキペディアにあたってみました。

 残念ながら、日本語ウィキペディアは、殺戮について、以下のように、余り多くを語っていませんでした。

 「長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあって人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

 そこで、英語ウィキペディアですが、以下のように記されています。

 「この戦争によってもたらされた荒廃は余りにも大きく、様々な推計は、ドイツ諸国家における人口が15%から30%減少したとしている。
 他の地域よりも、より大きな影響を受けた地域があった。
 例えば、ヴュルテムベルグ(Wurttemberg)<(注10)>では戦争の間に人口の4分の3が失われた。

 (注10)ドイツ南端に11世紀から1918年まで存在した公領/王国で、首都はシュトゥットガルト(Stuttgart)だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/W%C3%BCrttemberg

 ブランデンブルグ(Brandenburg)<(注11)>領内では、人口の半分が失われ・・・た。・・・

 (注11)「ブランデンブルク辺境領 (Mark Brandenburg) は、1356年に金印勅書を受けて辺境伯が選帝侯になったことで選帝侯領となり、1815年にプロイセン王国の10ある州の一つ<の>州(Provinz・・・)となった。」現在のドイツでは、東ドイツの東端に位置する州で、ベルリンを囲む形になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%B7%9E

 ドイツ諸国家における男性人口は半分近くへ減少した。
 チェコ地方の人口は戦争、疾病、飢饉、そしてプロテスタントたるチェコ人の追放によって3分の1減少した。
 一般住民の生命財産の破壊は、指揮官は金持ちだったけれど兵士は貧しかったところの、傭兵達の残酷さと貪欲さによってもたらされた。
 村々は、掠奪する軍隊によってとりわけ容易に餌食にされた。
 かろうじて残ったところの、マインツ(Mainz)<(注12)>近くのドライス(Drais)という小さな村では、回復するのにほとんど100年を要した。

 (注12)ドイツ南西部のマイン河とライン河の合流点に位置する都市。「中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84

 スウェ−デン軍だけでも、ドイツの城2,000、村18,000、町1,500・・これはドイツの全ての町の数の3分の1だ・・を破壊した可能性がある。・・・
 1618年から1648年にわたって、様々な種類の疫病がドイツ内及びその周辺地の戦闘員と一般住民の間で猛威を振るった。
 この戦争の様々な様相が疾病を蔓延させた。
 例えば、諸外国からの兵士の流入、戦闘の前線の場所の遷移だ。
 これらに加えて、一般住民の立ち退きや都市の難民による超過密化があった。
 様々な伝染病についての情報は、教区台帳や徴税記録といった地方文書(chronicle)の中に一般に見出されるが、それらはしばしば不完全であり、誇張されている可能性がある。
 諸年代記が示すところによれば、伝染病は戦時だけのものではなく、1618より前の何十年にわたってドイツの色んな部分で起こっていた。
 しかし、オランダ軍と皇帝軍がザクセン(Saxony)<(注13)>とテューリンゲン(Thuringia)<(注14)>で1625年と1626年に会戦を行った際には、地方諸社会において疾病と感染が増加した。

 (注13)大ブリテン島に渡らなかったサクソン(ザクセン)人は東南方向に植民し、後に、原居住地ではなく植民した地域・・現在の東ドイツの西部から南部にかけての一帯・・がザクセンと呼ばれるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3
 (注14)ドイツ中心部・・ただし、チェコに近い・・に位置する地域。30年戦争当時は、「ザクセン選帝侯・・・<が>テューリンゲンを領有しており、この地は反皇帝・親プロテスタントの牙城」だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E5%B7%9E

 地方諸文書においては、繰り返し「頭病(head disease)」、「ハンガリー病」、そしてチフスと判定されているところの「発疹(spotted)」病への言及がある。
 イタリアにおけるフランスとハプスブルグ家との・・・1629〜31年<の>・・・マントゥア(Mantuan)戦争<(注15)>の後、イタリア半島の北半分は腺ペスト伝染病で席巻された。

 (注15)マントゥア継承戦争(The War of the Mantuan Succession) 。1628〜31年(始まった年が1年異なる理由は不明(太田))。
http://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Mantuan_Succession
 マントゥアは、北イタリアのロンバルティア平原に位置する都市。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mantua

 ニュレンベルグ(Nuremberg)<(注16)>の最終的には失敗に終わった攻囲戦の間には、スウェーデン軍と帝国諸軍の両方の非軍人と兵士達がチフスと壊血病に斃れた。

 (注16)ミュンヘンの北170kmに位置する都市。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nuremberg

 その2年後に、帝国軍が敗北したスウェーデン軍を南西ドイツに向けて追跡すると、ライン河沿いにおける伝染病による死者が続出した。
 腺ペストも戦争の間、流行し続けた。
 1634年から始まり、ドレスデン、ミュンヘン、そしてオーベルアメルガウ(Oberammergau)といった小さいドイツ地域社会、において伝染病の死者が大量に記録された。
 戦争の最期の20年間、チフスと赤痢がドイツの風土病と化した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years'_War

(続く)