太田述正コラム#5106(2011.11.10)
<世界殺戮史に思う(その2)>(2012.2.26公開)

<脚注:マシュー・ホワイトについて>

 「<ホワイト>は、大卒ではないし歴史や統計学について公式の訓練を受けたこともない。
 彼は、学術的な会議に出席することもないし、学術雑誌に論文を発表することもない。
 彼は、原史料を漁ることもなく、その代わり、<米ヴァージニア州の州都>リッチモンドの連邦裁判所の図書館司書としての仕事の合間に、広範囲にわたる二次的資料から数字を選り抜く。・・・
 ホワイト氏の方法論は単純なものだ。
 彼は、主流の歴史家達がうさんくさいとして相手にしないかもしれないものも含め、自分が見つけられるありとあらゆる推計値を集める。
 (「乞食はえり好みできない」と彼は記す。)
 彼は、最も高い数字と低い数字とを捨て去り、中位の数字を計算する。
 それは、しばしば、詳しい情報に基づく推測(an informed guess)でしかないことを彼は認める。
 武力紛争に由来するところの、飢饉や疾病による死は対象になるが、自然災害や純粋に経済的な出来事は対象にならない。
 (「核心部分に暴力がなければならない」と彼は説明する。)・・・
 ホワイト氏に言わせれば、彼の調査の教訓は明確だ。
 すなわち、特定の政治体制が明白に殺人的であるということはなく、無政府状態こそ最悪だということだ。
 「政府は人々を殺さない」と彼は言う。
 「人々が人々を殺すのだ」と。」
http://www.nytimes.com/2011/11/09/books/the-great-big-book-of-horrible-things-by-matthew-white.html?_r=1&hpw=&pagewanted=all
(11月10日アクセス)
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 (4)ティムール(Timur)(1370〜1405。戦。17。4.7%)

 言語的にテュルク(=トルコ)化し、宗教的にイスラム化したモンゴル貴族の家に、現在のウズベキスタン(Uzbekistan)のサマルカンド市(Samarkand)の南方で生まれたティムール(1336〜1405年)の祖先が(チンギス・ハーンの息子の一人である)チャガタイ・ハーン(Chagatai Khan)の娘と結婚していることから、ティムールは、自分がチンギス・ハーンの跡継ぎ(heir)であるという自負を持っており、それは彼の呼称、ティムール・グルカン(Gurkān=義理の息子=娘婿)に表れています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Timur

 (日本語ウィキペディアは、ティムールは、「チンギス・<ハーン>の子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿・・・」を称した。<彼は、>チンギス・カンの子孫ではない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB
としています。こんな基本的なところで、どうやら間違っているのは困ったものです。)
 以下、英語ウィキペディアに拠って、ティムールの殺戮の後をざっと追ってみましょう。

 「1383年、ティムールは、ペルシャの軍事的征服に乗り出した。
 彼は、<現在のアフガニスタンの>ヘラート市(Herat)
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88 >
<をも含む>ホラーサーン地方(Khorasan)
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3 >
と全東ペルシャを1385年までに奪取し、1387年までにペルシャの大部分を奪取した。
 これらの征服の特徴は、余り例の見られないほどの暴虐さをもって行われた点だ。
 例えば、1387年に、<現在のテヘラン市の南約340kmの>エスファハン市(aesfahan=Isfahan)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
がティムールに降伏したが、彼は、抵抗せずに降伏した諸都市に対して通常そうしたように、当初、比較的寛大にふるまった。
 しかし、同市が、徴税人達とティムールの兵士達若干名を殺して、ティムールの懲罰的な税金に対して叛乱を行うと、ティムールは、同市の全住民の虐殺を命じ、伝えられるところでは、70,000人の市民を殺した。
 目撃者によれば、それぞれ約1,500の首級からなる28を超える塔が数えられたという。・・・
 1398年、ティムールは北部インドに侵攻し、デリー・スルタン朝(Delhi Sultanate)を攻撃した。・・・
 ティムールのインドでの諸戦役は、主としてインド亜大陸のヒンズー教徒の人々に対する体系的屠殺等の残虐行為を真に巨大な規模で伴った。・・・
 ティムールは、デリー市(Delhi)に入るとこの都市を略奪し、破壊し、廃墟にした。
 デリー戦の前に、ティムールは、捕虜100,000人を処刑した。・・・
 1399年末、・・・ティムールは、シリアに侵攻し、マムルーク朝(Mamluk)の軍を敗北させた後、<現在のシリア北部の>アレッポ市(Aleppo)
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D >
を略奪し、ダマスカス市(Damascus)を奪取した。
 同市の住民たちは虐殺された。
 ただし、工芸家(artisan)達は虐殺されず、<ティムール帝国の首都>サマルカンド市
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%89 >
へ連行された。・・・
 彼は、1401年6月にバグダード市(Baghdad)に侵攻した。
 この都市を奪取した後、イスラム教徒たるその市民20,000人は虐殺された。
 ティムールは、各兵士に対し、少なくとも首級二つを持って戻って来て自分に見せるよう命じた。
 (多くの戦士は、恐れの余り、ティムールに提示する首級を確保するためだけに、この戦役の初期に捕獲した捕虜達を殺した。)・・・
 ティムールによる<以上等の>累次の征服によって、1700万人にのぼる死がもたらされたと主張されている。
 この見解を検証するのは不可能だ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Timur

 知る人ぞ知る話ですが、後日譚を。

 「ムガル帝国の初代皇帝(在位:1526年-1530年)<の>・・・バーブル<(Babur。1483〜1530年)は、>・・・<中央アジアのウズベキスタン共和国東部からキルギス共和国、タジキスタン共和国に広がる地域である>フェルガナ盆地
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8A%E7%9B%86%E5%9C%B0 >
を領有していた・・・ティムール朝サマルカンド政権の第6代君主(在位:1497年 - 1498年)<だった人物であり、>・・・ティムールから5代目の直系子孫に当たる。母はチンギス・<ハーン>の次男の家系であるチャガタイ・ウルスの当主ヴァイス・ハーンの王女・・・である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB

(続く)