太田述正コラム#5062(2011.10.19)
<戦間期の排日貨(その6)>(2012.1.9公開)

 「頻発する反日運動はイギリス人にも危険なものに映った。1925年から27年にかけて中国のボイコットの標的だった上海のイギリス実業界は、ボイコットが上海共同租界の平和と秩序を損なうという理由で中国人の反日運動にも反対であった。・・・
 上海共同租界工部局も秩序維持に努めた。租界警察は壁など人目を引きやすい場所に張られた排日ポスターやスローガンなどをはがし、日貨没収を防止しようと努力した。7月29日、工部局は共同租界内における日貨没収を正式に厳禁し、日貨を不法に没収しようとする者がいれば逮捕すると宣言した。反日会の司令部は共同租界内にあったので、工部局は、共同租界内で日本企業の所有する貨物を反日会がねらった場合、租界警察が介入すると警告した。ボイコット組織側は工部局のこの政策に苛立ち、日英両帝国主義者が同じ穴の貉であることは明らかだから、イギリスが政策を転換しないならば排日の矛先を排英に転じてこれを糾弾すると宣言した。対照的に日本人商工業者は工部局のこの姿勢に大いに感謝して、8月12日には参事会議長フェッセンデン<(注14)>に礼状を送った。・・・

 (注14)「<当時、工部局は、>イギリス5人、日本とアメリカにより2人ずつの計9人の参事会員が選出され上海共同租界を運営していた。・・・参事会員の中でも1920年代まで議長を勤めていたアメリカ人のスターリング・フェッセンデンは・・・上海が最も荒れていた時代に租界の理事をも勤めており、議会にいたイギリス人よりも「イギリス人」として知られていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%A7%9F%E7%95%8C

 満州事変が勃発した時、イギリスの日本に対する批判は厳しいものではなかった。この姿勢の最大の理由としては、イギリス国内の状況があげられる。1931年夏には大恐慌がイギリスに波及し、イギリスは経済だけでなく政治も大混乱に陥っていたのである。・・・このような状況下、イギリスは自らの権益がほとんど存在しない中国東北部での紛争に大きな関心を示さなかった。
 このイギリスの国内要因に加えて、本書で分析してきたような中国における日英関係もイギリスの姿勢に影響を及ぼした重要な要素であった。・・・イギリスは排外運動に巻き込まれることを恐れて日本と共同行動をとろうとはしなかったが、日本にかなり同情的であり、革命外交の手段として利用された排日貨には批判的だったのである。
 満州事変後、中国人の反日感情は上海においても事変以前より飛躍的に高まった。・・・中国人の怒りは経済関係断絶以外の方法でも表現された。中国人が日本人を殴ったり、唾を吐きかけたり、石を投げたりといった衝突も起こった。
 反日感情の盛り上がりによって、上海在留日本人のいら立ちもまた激しくなっていった。今日考えてみると、この怒りが全く正当化されないことは明らかである。しかし、この段階で上海の日本人は、満州事変が中国側の挑発で起こったと信じ、関東軍の謀略であるとは考えもしなかった。彼らは、真実を知らず、中国人の愛国心に配慮して自分たちの感情を抑制することができなかった。・・・
 国際連盟に対しては、すでに9月21日に、非常任理事国に選ばれていた中国が事件を連盟規約第11条によって提訴していた。国民政府の方針は既存条約の廃棄を目指す革命外交から、国際社会の定めた規則を遵守してその助力を確保することに転換したかのようであった。これに対し日本人は、日本政府こそ中国人による反日運動の真の性質を連盟に伝えるべきだと主張した。・・・
 一方、日中関係が険悪化の一途をたどる中、上海共同租界当局は秩序維持に努め、反日ポスターをはがし、日本人を保護したので、中国人との間で板挟みとなった。」(233〜234、236〜238頁)

→上海共同租界の工部局は、英国の息がかかった行政機関でしたが、その参事会議長たる米国人を始めとする参事会が排日貨を取り締まったのは、彼らが親日だったからではなく、法治主義の観点からだった、と理解すべきでしょう。
 これに準えて言えば、日本の第一遣外艦隊が海上で排日貨を取り締まることは、排日貨が行われている海上に係る行政権がどこに帰属していようと、その行政権が効果的に取り締まりを実施していない場合、国際法上の義務である、という点は否定できないのであり、本来、日本の上海総領事館が積極的にこの艦隊(、そして、理論上は、この艦隊がいなければ、その国籍いかんにかかわらず、最近傍に所在する艦隊、)に対し、包括的に取り締まり要請をしていてしかるべきであったとさえ思います。
 また、「満州事変が勃発した時、イギリスの日本に対する批判は厳しいものではなか」ろうと読み切って、関東軍は満州事変に着手した、と考えるべきでしょう。
 さて、後藤は、「この段階で上海の日本人は、満州事変が中国側の挑発で起こったと信じ、関東軍の謀略であるとは考えもしなかった。」と記していますが、その典拠は示されていませんし、示し得るはずもないでしょう。
 というのは、「満州事変が勃発すると、間もなく<日本の>各新聞の報道は大陸における軍事行動を支持した。それまで軍や軍人に対して批判的であった世論も一転し、国民は日本軍の活躍に沸き立った」ところ、かかる新聞論調は、「柳条湖事件後早々のころ、記者クラブで話をしていた・・・若い記者クラブ員たちの前で、<陸軍省の>新聞班の・・・大尉が「実はあれは関東軍がやったんだよ」と、こっそり耳打ちした」にもかかわらず打ち出された
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf06/6-347-358-sato.pdf(348、353頁)ものであったからです。
 つまり、上海在留日本人達もまた、新聞記者達同様、関東軍の謀略であることを知らされたとしても、関東軍の行動を支持したに違いないのであって、いずれにせよ、彼らの排日貨に対する怒りは収まらなかったはずです。
 従って、「今日考えてみると、この<上海在留日本人達の>怒りが全く正当化されないことは明らかである」という後藤の言は、その理由付けにおいて間違っています。
 それに、そもそも、後藤は、この言を、当時の上海共同租界工部局参事会議長らが抱いていたと考えられるところの、排日貨への怒りに対しても、同じように投げかける勇気があるとは到底思えません。
 更に言えば、後藤は「国民政府の方針は既存条約の廃棄を目指す革命外交から、国際社会の定めた規則を遵守してその助力を確保することに転換したかのようであった」と寝ぼけたようなことを言っていますが、「国民政府の方針は既存条約の廃棄を目指す革命外交なのであって、この期に及んで、国際社会の定めた規則を遵守する口吻を弄してその助力を確保しようとしたことは盗人猛々しい」といった具合に書くべきでした。(太田)

(続く)