太田述正コラム#5060(2011.10.18)
<戦間期の排日貨(その5)>(2012.1.8公開)

 「日本外務省、総領事館の排日運動への対処にも全く問題がなかったとは言えないであろう。排日貨に苦しんだ上海の日本人商工業者は次第に総領事館に対する不満、不信を強めていった。彼らは、外交官が上海の実情を理解していないのみならず、日本企業の援助にもとくに興味を持っていないと考えるに至った。
 1894年以来、日本の職業外交官は外交官試験によって選ばれてきた。上級外交官のほとんどは東京帝国大学の卒業で、20パーセントほどが東京商科大学の出身であった。彼らは社会的な事件には精通しておらず、また、同情的でもない、民衆からは超然とした閉鎖的エリート集団を形成していた。戦間期の日本には依然として厳然とした階級差が存在し、外務省と民衆との間には深い溝があったようである。この時期に日本外交を率いた幣原は、外交官試験で選ばれた最初の外務事務次官であり、また最初の外相であった。彼の姿勢は合理的、近代的で、戦前期日本において最善のものの一つと評されてきた。しかし、彼の姿勢には欠点もあった。すでに1927年春の南京事件の際にも批判されたことだが、大衆の欲求不満に対する幣原の感度は低かった。そして、1931年夏の段階では、幣原は排日運動に対しほとんど無為無策に見えた。また、彼は大衆を教育し、その意見を変え、自らの外交政策への支持を動員する努力をすることもなかった。
 幣原も上海在勤の日本人外交官も自分たちの姿勢を実業家たちに十分に説明したり彼らを教育したりする努力をしなかった。したがって、たとえば、前述の、商品を没収された会社を叱責した総領事館員の態度は、別の世界に属する者の活動を真剣に受け止めていないことを示すように感じられたのではないだろうか。ことによると彼自身、自分は国家の崇高なる任務に従事しているのだから、海産物の没収のような些細な事件に煩わされるべきではないとすら考えていたのかも知れない。日本に富と名声を生み出していた綿業に対してすら、同様であった。・・・」(231〜232頁)

→後藤の結論にはおおむね首肯できるものの、彼の理由付けには大いに違和感を覚えます。

 第一に、一高や三高志望者と陸士・海兵志望者との間に出身階層において大きな差はなかったと見るべきではないでしょうか。
 
 海兵志望者については、学費が高かったと思われるところの、予備校が繁盛していた(下掲)ことだけからしても、一高や三高志望者との間に、出身階層にほとんど差はなかったと考えられます。

 「海軍兵学校<は、>・・・全国から優秀な青年が競って志願した超難関校であった。また、募集人員が少なかった明治から昭和の初期までの海軍兵学校は、日本最高のエリート校と目されたひとつであった。・・・
 海軍兵学校設立の明治時代から、この海軍兵学校に入学するための予備校的な学校が、全国に存在していた・・・
 第65期(昭和9年・・・入学)から第69期(昭和13年・・・入学)の入学試験倍率は20倍を超えていた。この期は、東京府立一中<等の>・・・全国の数多ある有名中学が上位合格者数を競いあっていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

 陸士の場合は、幼年学校出身者がいました・・だから予備校がなかった?・・が、幼年学校の学費は一般の旧制中学並であったのではないかと思われる・・ただし、陸海軍の士官子息は半額
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1
・・ことから、幼年学校に貧しい階層の出身者が入ったとは思われないので、海兵の場合と基本的に違いはなさそうです。
 ただ、海兵の場合と違って、陸士の志望者については、「貧しい家庭の子」という表現がしばしば出てくることから、一高/三高や海兵の志望者に比べると、相対的に若干なりとも、出身階層が貧しい者が多かったのかもしれません。
 
 「陸軍士官学校<は、>・・・全国の中学の秀才を集め、「一高・三高・海兵・陸士」などと並び称されるほどであった。また、上級学校に進学できない貧しい家庭の子にとって、授業料なく高等教育(戦後は旧陸士卒業生の進学等では短期大学相当の教育程度と認定される)を受けられる陸士は憧れの的であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

 (蛇足ながら、「陸士と海兵は授業料が必要なく、家庭が裕福でない学業成績の者が多く受験するために競争率は極めて高くその点では一高よりも難関であったようです。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314972713
といったことがしばしば語られますが、果たして「一高よりも難関であった」かどうかは、疑問です。
 2ちゃんねるに転載されていたものですが、以下のようなデータがあるからです。

 「調査資料(岐阜県立岐阜中学校一覧より)

岐阜中学校成績上位者の進学先

昭和2年(159名)・・・首席・名古屋高工、2番・名古屋高商、3番・八高、…54番陸士、93番陸士
昭和3年(138名)・・・首席・名古屋高工、2番・八高、3番・八高、…12番陸士、
昭和4年(144名)・・・首席・一高、2番・八高、3番・横浜高工、…14番陸士、15番陸士、16番陸士、39番陸士
昭和5年(159名)・・・首席・一高、2番・名古屋高工、3番・名古屋高工、…24番陸士、27番陸士、47番陸士
昭和6年(153名)・・・首席・東京高等師範、2番・海兵、3番・―、4番・八高、…18番陸士
昭和7年(146名)・・・首席・三高、2番・八高、3番・岐阜師範、、…16番・海軍経理、56番陸士」
http://unkar.org/r/joke/1235050475 )

 なお、「戦間期の日本には依然として厳然とした階級差が存在し、外務省と民衆との間には深い溝があった」と後藤は述べているところ、「依然として」というのですから、明治期の日本、江戸期の日本と遡れば遡るほど、より「厳然とした階級差が存在し」ていたはずで、そのこと自体は当然間違いではないわけですが、にもかかわらず、明治期において、「外務省と民衆との間に」より「深い溝があった」という印象はありません。
 ということは、後藤が示唆しているように、主として東大法学部を卒業して外交官試験を通った者がキャリア外務官僚として外務省の中心になってから、「外務省と民衆との間に・・・深い溝が」できた、ということにならざるをえません。
 後藤は余計なことを述べるべきではありませんでした。

 第二に、キャリア外務官僚は「社会的な事件<(=社会事情)>には精通して」いなかった、と後藤は言っていますが、以上からして、この点について、一高/三高等の旧制高校を経て東大法学部等を卒業したキャリア外務官僚と、陸士・海兵を経て陸大・海大を卒業した将校との間に、本来、差があったはずがありません。
 差ができたとすれば、それは、陸士・海兵出の将校は、若い時から、下士官に加えて、徴兵で入ってくるところの、様々な地域や階層出身の兵を統率しなければならず、自ずから「社会的な事件に・・・精通」するに至ったと思われるのに対し、一高/三高等出の外務官僚には、そのような機会が与えられなかったからでしょう。
 なお、キャリア内政官僚であれば、行政対象の人々について勉強しなければなりませんし、行政対象たる様々な地域や階層の日本人と接触する機会も少なくなかったでしょうが、外務官僚の場合は、そのような機会もまた、乏しかったはずです。
 ですから、外務当局は、このようなキャリア外務官僚のハンデを補うために、キャリア外務官僚の人事・教育に十分配慮しなければならなかったというのに、それを怠ったのでしょうね。
 (他方、明治期の高級外務官僚が、明治期の高級軍人や高級内政官僚同様、社会事情に精通していたであろうことは、彼らが、武官である以上に行政官であった武士であったり、武士の卵として藩校等で学んだ人々であったことから、容易に想像できるところです。)

 第三に、キャリア外務官僚に東大法学部を出た者が多かったところ、そこでの教育に問題があった、という点も指摘しなければなりません。
 この話は、何度もしている(最近では、コラム#5056)ので、ここでは改めて説明しません。

(続く)