太田述正コラム#5054(2011.10.15)
<2011.10.15オフ会次第(その1)>(2012.1.5公開)

1 始めに

 今回のオフ会には、私を除き、14名が参加し、1次会には12名、2次会には12名、3次会には10名の参加でした。
 今回は、初参加の人が5名もおり、その中には、初めての大学生(2名)、初めての現役の(若い)自衛官(1名)が含まれており、幹事の一人から、オフ会参加者平均年齢が、これまでで一番低いオフ会だったのではないか、との感想がありました。
 幹事団の皆さん、まことにお疲れ様でした。

2 1次会(講演会)

 講演原稿から離れた話を基本的に行いました。
 順不同で、そのほんの一部をご紹介しておきます。

 世界的ピアニストの内田光子(外交官の娘、夫は英国の外交官)のインタビュー記事を紹介しておきたい。
 彼女は、12歳まで過ごした日本、留学した欧州、国籍をとった英国、という三つの世界で生きてきた。
 どうして英国を選んだかだが、その開放性と音楽的に無のところに惹かれたと言っている。音楽的に無とは、彼女が弾く曲はこう弾くものだ、という観念を欧州の聴衆は、それぞれの国が輩出した作曲家について持っているため、彼女が自由に演奏しにくい雰囲気があるのに対し、英国では作曲家をほとんど輩出していない、ということを指している。
 このほか、英語の論理性に対するに日本語の関係性についても彼女は語っているほか、日本においては、シンプルさと俗っぽさが共存している、とも語っている。
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/50eb01f4-f3fc-11e0-b221-00144feab49a.html#axzz1ao55D81v

 私は、3つのアングロサクソン体験を重ねてきた。小学生の時の3年8か月のカイロ生活、1974〜76年の米国スタンフォード大学への2年間の留学、1988年の1年間のロンドンの国防大学留学の3つだ。
 次第にその本拠地へ、という形で、私は、アングロサクソン体験をしたことになる。

 昨夜、過去のアングロサクソン論コラムの一部に目を通したが、科学の話から始まっていることは感慨深い。
 
 最初の頃のものは、防衛庁で人事第二課長をしていた頃に、自衛隊部内紙の『朝雲』に2週間に1回コラムの連載を行った時に、時折書いたアングロサクソン論関係のコラムを太田述正コラムに転用したものであり、オリジナルを書いた当時は、紙の典拠の時代であったところ、本を専ら典拠にしたわけだが、頁まで記していないのが今となっては残念だ。
 
 太田コラムの中では、「ロビン・フッド」シリーズ(コラム#4468、4470、4472、4474、4476)もアングロサクソン論として重要だと思う。

 昨夜、べじたんさんら作成の太田述正【非公式FAQ】で、アングロサクソン論の所にも目を通した。
 そこには次のような、コラムからの切り貼りが掲げられている。

 アングロサクソン文明とは、純粋なゲルマン文化を継受したものであり、コモンローと個人主義(=利己的)を特徴とする、帰納的、経験論的思考の文明である。
 個人主義を特徴としているということは、アングロサクソン文明は、本来的に資本主義的文明である。(#3754)
 また、アングロサクソン的な考え方とは、理論と現実のフィードバックを重視する経験論的・帰納的な考え方で、改革と妥協的政治をもたらした。(#1256)

 自由主義は、個人主義なくしては生まれ得なかった。そういう意味では、個人主義の果たした歴史的役割は大きい。
 これに関連し、人権は、法の支配(≒アカウンタビリティー)と裏腹の関係にあるところ、人権は、法の支配とともに、自由主義の一環であって、真の近代化のために確保されるべき前提だ。

→現時点で書くとすれば、「真の近代化のために確保されるべき前提だ。」の前に、「非人間主義社会においては、」を挿入しなければならないだろう。(太田)

 そういうわけで、自由主義は普遍性がある、と言えよう。
 つまり、アングロサクソン文明とは、自由、人権、法の支配を重視するリベラリズムの文明である。
 なお、民主主義は、自由主義(人権/法の支配)が一定程度機能している社会においてのみ、文明を超えた普遍性がある。(#3614)

 アングロサクソン文明が近代の殆ど全てを生み出した文明であることは私が力説しているところであり、この文明が文化や富を生み出す力でいまだに世界をリードしていることは周知の事実である。(#84)
 ちょっと日本人の皆さんに想像力を働かせてみていただきたいのだが、仮に日本文明が世界をリードしていたとすれば、他の文明を皆さんは、どうご覧になるだろうか。恐らく、一段低いものとして見下されるのではないだろうか。そして、その「一段低い」他の文明に対しては、自分の文明に害を及ぼす可能性のある部分は抹殺ないし無害化し、その上で、害を及ぼさないと考えられる部分は世界遺産ないし天然記念物的に可能な範囲で保全しつつ、できる限り自分の文明を普及しようとされるのではないだろうか。
 アングロサクソンは、まさにこのような、階層的世界観を抱いている。それは、最上階の四階にいるアングロサクソンが、身内である三階の準アングロサクソン(スイス・オランダ・北欧諸国等)、よそ者であり潜在敵であるところの二階の(上記以外の)欧州諸国等、そして保護すべき対象であるところの一階のサハラ以南のアフリカ諸国等、に君臨しているという四層からなる世界観である。(#768)
http://wiki.livedoor.jp/veg_tan/#content_5_5_6

 これまでの太田コラムの中における記述中、以下の二つは、本日の講演に直接からむものだ。(としゃべる予定だったが、しゃべり忘れた。)

 「陪審制一つとっても、全国どこでも、豊かでヒマがあり、教育程度も高い人々・・陪審員適格者・・がいる、イギリスのような社会でないかぎり、採用し、定着させることは難しい」(フォーテスキュー。コラム#91)

 「「・・さまざまな「階級」・・を召集して、税金への同意を求めるという慣習は、14世紀においては、何もイギリスだけに限られたものではない。しかし、イギリス社会本来の構造に規定されて、其処では議会が、忽ちのうちに、フランス・・とは大いに異なったものになる。・・階級を・・区分すること[が、]もはやイギリスの現実と一致しなかったからである。・・[イギリスでは、]次第に土地から一定の収入を得ている者は皆「騎士」にさせられるようになり、都邑の公民(都市の市民=ブルジョワのこと(筆者注))たちと結婚等を通じて結合するに至る。・・この騎士と都邑の公民の結合は一つの重要な事実である。この結合は、何故にイギリスでは、18世紀のフランスのように、国内が二つの敵対階級に分裂したことが一度もなかったか、と言う理由を説明する。」(アンドレ・モロワ。コラム#92)

(続く)