太田述正コラム#5048(2011.10.12)
<戦間期の排日貨(その1)>(2012.1.2公開)

1 始めに

 後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925〜1932年』の第7章、第8章、及び終章を表記の下でご紹介し、適宜私のコメントを付すことにしましょう。

2 戦間期の排日貨

 「<駐中国英公使の>ランプソン<(コラム#4510、4512、4968、4970、4972、4976、4978、4984、4986)>・・・は中国の「日本についての妄執」に同情できず、将来の紛糾を予想した。1929年1月7日、<済南事件で派遣された>日本軍の徴兵期日を明示するようにという中国側の要求でかなり疲れた様子の堀義貴代理公使と会談した後に、彼は次のように日記に記した。

 まったく中国人は意図的に災難を求めている。そして今回は起こらないかもしれないが、もし私が徴候を正しく読んでいるとするならば、彼らは近い将来に自分たち<英国人>に<対する>不愉快な衝撃を準備しているのである。

 ・・・済南事件に対する抗議として始まった排日貨<(ボイコット)>は、衰えを見せないまま1929年夏まで続いた。その目的や性格は次第に変化し、抗議だけでなく、日中交渉に圧力をかける手段ともなった。・・・
 しかし、中国が日本と合意に達しない限り、英中関税条約などの新条約にもかかわらず、・・・最恵国条項が依然有効であったから・・・中国は関税自主権を行使することができなかった。したがって、・・・中国にとっても妥協が必要だった。1月11日、<国民党政府>は関税問題を済南問題と切り離すことを認めた。・・・30日、中国が日中通商条約を一方的に廃棄しないという条件で、日本は前年12月7日に公表されていた中国の新関税率を承認した。
 <他方、>済南事件をめぐる交渉・・・は<遅々として進まなかった。>」(193〜194頁)

→ランプソンは、有能な外交官であると言うべきでしょう。
 このように、当時の英国には有能な外交官がかなりの割合でいたのに対し、当時の日本の外交官にはほとんどいなかった、というのがかねてより申し上げている私の見立てです。(太田)

 「<しかし、>上海の日本人商人は、統計が排日貨の実態を示さず、本国は依然として情勢を表面的にしか理解していないと考えていた。製品がすでに<支那に>輸出されたとみなされ、統計上は輸出の数字に含まれている場合でも、上海の倉庫に保管されているだけの場合があったというのである。保管の責任と費用が日本国内の業者から上海の<日本>業者に移されたのみであった。
 1928年12月13日に開かれた会合で、金曜会<(注1)>は排日貨の実態を本国に伝えるための冊子を発行することを決定した。・・・<この>冊子の第一号は翌年1月10日に発行された。その主張によると、排日貨は国民党、左翼の行動家、そして一部の職業的指導者によって支援され、その目的は不平等条約の改正であり、日本からの輸出品は単に上海の倉庫に山積みされているだけだ、というのであった。・・・

 (注1)「日貨排斥運動への対応を、目的として組織された・・・上海<日本>商<工会>議<所>を中心とする有力経済団体の結集体」
http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1768

 これとは対照的に、・・・横竹平太郎上海駐在商務参事官<(注2)は>、日本から輸出される商品は主として生活必需品だから<中国国民党政権による日本との>経済関係の断絶は不可能と依然信じていた。<金曜会関係者>が排日貨は非常に徹底的で揚子江下流の諸都市では日本品をみかけなくなったと報告しても、横竹は、日本人は悲観的になるべきではないと主張していた。排日貨が終われば中国人は再び日本品を求めるからと横竹はいうのであった。この楽観的な意見を知って、上海の日本人商工業者は外交官があまりにも事態に無関心で助けにならないと考え始めた。そして外交官に対するこの不信感は時とともに増大していった。

 (注2)横竹については、ネット上では、「「島津君の『上海案内』は大正二年発行以来版を重ぬる事茲に十回、内容年と共に補修せられ面目回を追ふて又新、上海を知らんとするものゝ案内書として誠に好個のものと思考す。」(横竹平太郎、上海駐在商務官『上海案内』第十版より)」
http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843335345
くらいしか情報が得られなかった。

 1929年2月末、重光葵<(コラム#763、4116、4276、4348、4350、4366、4376、4378、4390、4689、4699、4732、4740、4754、5004)>が上海総領事として着任した。三月下旬、済南事件交渉は再び開始され、24日、日中両国はついに合意にこぎ着けた。双方とも謝罪も保証も要求しない、という内容であった。・・・<しかし、>その後、排日貨は上海では5月10日前後に下火になったが、揚子江流域では継続した。そして日本品が内陸で売れなければ、上海での事業も低調なままであった。・・・
 済南事件解決の際に合意された通り、5月20日には日本軍はすべて山東半島から撤退したが、それでも排日貨は終息しなかった。重光はこの事態を次のように説明した。排日運動の根底には「国民の教育、軍隊の訓練、官吏の養成に際し余程強く注入」された「排外思想」があり、済南事件を解決したのみでは問題全体の解決にはならない。また「此の辺の消息は一般外人特に英国人の良く諒解する処にして」、「其の根本に於ては元々共働の禍なりとして」排日運動ができるだけ早く終息することを望んでいるというのであった。・・・
 7月18日、国民党はついに排日運動の即時停止を命じた。済南事件決着以後4ヵ月にわたって南京国民政府は、国民の日本に対する怒りと憎悪を取り締まる方法はないと主張し続けてきたが、実際には反日運動を停止させることができた。1932年に出されたリットン調査団の報告書でも、国民党がボイコット運動全体の司令統制組織であることに疑いはないとされている。」(197〜200頁)

→横竹は、実態から目を逸らせていますし、重光は、排日貨が赤露の策略であることに全く思いをはせていません。両人とも、自分の思い込みに固執し、現実から学ぼうとせず、また、深く物事を考えることもしない、無能外交官の典型、というか、当時の日本の外交官の典型、です。
 (なお、在支英国人の排日運動観については後出。)
 対照的に、当時の在支日本人商工業者達の排日貨観は、<>内でどぎつく補足しましたが、「排日貨は国民党<(内の容共分子)>、左翼<(赤露系)>の行動家、そして一部の<(赤露系)>職業的指導者によって支援され」ていた、というのですから、まことにもって正鵠を射ています。
 彼らの声が日本の世論を形成し、帝国陸軍を動かして行くのです。
 いずれにせよ、中国国民党政府は、排日貨という戦争を日本に仕掛けていたのであり、日本は、英国と協調しつつ、断固としてこれに対応する必要があったというのに、そうすることはついになかったわけです。(太田)

 「排日貨禁止の最大の理由は、7月10日に始まったソ連との東支鉄道をめぐる抗争に起因する対外宣伝の方針転換であろう。中国東北地方の張学良<(コラム#189、290、292、745、3314、4004、4010、4504、4612、4679、4685、4722、4950、4962)>政権はこの鉄道に関する権利を回収しようとしたのである。しかし、10月中旬から11月の武力衝突で張学良軍は敗北し、12月22日のハバロフスク議定書で論争に決着がついた。ソ連は東支鉄道に関し原状回復、すなわち鉄道管理権掌握に成功した。なお、イギリスは、中国東北地方の北部にほとんど権益を持っておらず、この事件にはそれほど関心を抱いていなかった。
 中ソ紛争以外の排日貨停止の要因としては、5月20日に日本陸軍が山東半島から撤退していたこと、6月3日、日本が南京国民政府を承認したこと、7月2日、田中内閣が総辞職し、民政党総裁の浜口雄幸が首相となり、外務大臣には幣原が返り咲いたことなどが考えられる。
 9月初旬まで上海の日本人商工業者は排日貨の復活を恐れていたが、実際には1931年の夏まで排日貨が再開されることはなかった。・・・」(200〜201頁)

→1928年に(爆殺された父張作霖の後を継いだ)張学良が蒋介石と手を結び、形の上で国民党政権の隷下に入った(コラム#4612、5003)とは言っても、張学良治下の満州は事実上、国民党政権から独立していたのであり(典拠省略)、張学良の起こした赤露との紛争の帰趨が、国民党政権の排日貨・・しかも日本は「帝国主義国」だった・・政策に影響を及ぼした、とは必ずしも言えないのではないでしょうか。
 (1936年の西安事件の時点で張学良が中国共産党の秘密党員であったということが事実だったとすると、張学良がいつから秘密党員であったかはともかく、かなり前から容共であった可能性が高い(コラム#4950)わけですが、そうなると、彼がこの赤露との紛争をどうして起こしたのか、解明する必要があります。)
 なお、英国がこの紛争にそれほど関心を抱いていなかったことは当たり前ですが、「中国東北地方・・・に・・・<大きな>権益を持って」いた日本が、この時に強く赤露に当たらなかったことは極めて問題でした(コラム#4612)。
 また、後藤は、排日貨停止のその他の要因もあげていますが、上記の要因よりはもっともらしいとはいえど、やはり単なる憶測に過ぎません。
 基本的には、赤露が、「帝国主義国」に対しては、これら諸国を反目させるように各個撃破(分断)戦術をとり、かつまた、一張一弛戦術をとっていたことから、この時期、日本に対する攻撃、すなわち、排日貨は、一時的にトーンダウンされた、ということ以上の意味はないのではないか、というのが私の考えです。(この点についても、裏付けを得たいところです。)(太田)

(続く)