太田述正コラム#5046(2011.10.11)
<駐日英国大使ティリー補論>(2012.1.1公開)

1 初めに

XXXXさんが最近送ってきてくれた資料の中に、後藤春美『上海をめぐる日英関係 1925〜1932年』(東京大学出版会2006年11月)(コラム#4952)の第6章〜第8章、及び終章が含まれていたことに後になって気付きました。
 最初に、「第6章 駐日大使サー・ジョン・ティリー」を、昨日までのシリーズの補論的にとりあげることにしましょう。

2 駐日英国大使ティリー補論

 「忘れてはならないのは、戦間期のイギリスで、親日家や東アジア専門家は全くの少数派、例外的存在であったことである。むしろティリーのような人物の方が平均的イギリス人、外交官に近かったという可能性は高いのである。
 ティリーの前任者エリオット駐日大使は学者としての経歴を持ち、彼のもとで大使館付武官として勤務したフランシス・ピゴット・・・は、知日家、親日家として知られる。」(173〜174頁)

→外交官(駐在武官を含む)の評価にあたっては、その人が、本国の国益(短期、中長期)、及び任地の情勢と任地に係る国際情勢を的確に把握できるかどうかが決め手なのであり、地域専門家であるとか任地に長くいるとか任地が好きであるとかいったことは、二の次三の次です。
 後藤は、最初から考え違いをしています。(太田)
 
 「ティリーは5年間駐日大使を務めたが、この期間は二つの時期に分けられる。第一は、着任から1928年1月に賜暇によってイギリスに戻るまで、第二は、再び日本での勤務を開始した、同年10月以降である。
 第一期において・・・ティリーが日本での日々を困難に感じた最大の理由として、・・・この時期のイギリスには日本との協調が必要であったにもかかわらず、駐日大使であったティリーは芳しい成果をあげられなかったということがあろう。・・・
 <そして、>第二の理由として、1926年12月25日の大正天皇崩御を受け、その後一年間日本全体が喪に服したことが考えられる。ティリーにとっては暗い日々であった。・・・
 第三は、関東大震災から二年半ほどしか経っていなかった当時、東京は依然復興の途上にあった。「昔の大使館の建物は、…実際のところすべては、1923年9月に破壊されていた」のである。・・・新しいイギリス大使館は1932年に完成するが、ティリーはここで働く機会はなかった。鼠の出没する平屋建ての建物は、堪え難いほどに不快であったという。・・・」(177〜179頁)

→以前にも同趣旨のことを記したことがありますが、一番ダメな外交官は、楽しくいい生活を送るために外交官になった者であり、ティリーはそのような範疇に属す外交官であったようですね。
 なお、第一の理由なるものは、要するに、ティリーが無能であったために成果があげられなかったことからすれば、およそ理由になっていません。(太田)

 「第二期<においては、>ティリーの職務は以前よりはるかに容易になっていたようである。済南事件以降の日中関係悪化に直面し、イギリスの協力を求めるようになった日本政府関係者は、ティリーを熱心に歓待するようになった。日本人の努力は国際政治のレベルでは実を結ばず、中国における日英両国の協議や協力はほとんど行われなかった。しかし、少なくともティリーは、以前より日本での暮らしを楽しむことができたようである。・・・
 この第二期には、ティリーの日本に対する評価はいくぶん上昇したようである。・・・1930年のはじめに書かれた電信には「大体において日本の政策は賢明で先見の明があるし、決していつも利己的だというわけではない」、「中国において日本がいつも陰謀をめぐらしているというのは誇張された意見である」、そして、日本は、他民族が200万人も居住し、その人口が常に移住者によって増大している満州を併合して、中国やアメリカをいら立たせるほど愚かではないだろうなどといった観察が記されている。」(181頁)

→「楽しくいい生活を送るために外交官になった」ティリーという理解で間違いなさそうですね。
 そんなティリーは、「任地の情勢と任地に係る国際情勢を的確に把握でき」ない無能外交官であったことから、満州情勢の読みなど、はずれて当然、といったところでしょうか。(太田)

 「ティリーは2、3の簡単な表現を除いて日本語を学ぶ試みを放棄したので、彼の友人となった日本人は英語が堪能な者に限られた。・・・
 ティリーは日本の陸軍より海軍の軍人を好んだ。その理由は、陸軍軍人が英語を話さず、あまり親しみやすくないからということであった。また、彼は回顧録の中で、日本人の家に招かれることはほとんどなく、招かれたとしても、主人が英語をほとんど話さないために非常に退屈な時間を過ごすことがあったと不平を述べている。・・・
 <また、>ティリーが回顧録で言及する人びとは、華族や政府高官ばかりである。ピゴットなど日本に住んだ他のイギリス人が、信頼感や懐かしさを込めて言及することの多い家事使用人などについてはほとんどふれていない。この事実は、ティリーが階級意識を強く持った人物であったことを推察させるが、同時、1920年代の日本に階級差が濃厚に存在していたことにも思い至らせる。・・・
 <更に、>ティリー<は、>本国の外相との連絡はそれほど頻繁でなかったようである。・・・」(182頁)

→言語を共有しない者同士が友人になるのは確かに容易なことではありませんが、このハンデを克服するための努力をティリーが行った形跡がないことこそ問題です。
 このティリーの怠惰さは、日本の庶民と一切交流しようとしなかったところにも現れています。
 それに加えて、ティリーは本国との意思疎通も不十分だったというのですから、何をかいわんやです。
 なお、後藤は、当時の日本における「濃厚」な「階級差」なるものに言及しているところ、その箇所には典拠も付けられてはいるものの、一体何・・当時の西欧または英国なのか、江戸時代なのか、現在の日本なのか、等々・・と比較して濃厚だというのかを明らかにせずして、そんなことを書いても意味はありません。(太田)

 「ティリーは日本をどのように観察していたのであろうか。・・・
 まず、政治外交面であるが、日本の帝国議会議員についての評価は低い。・・・また、新聞による時事問題批評、それを通しての大衆の教育も非常に不十分、貧弱ということである。大衆は知識も情報も限られているから、新聞で読むことを信ずるしか選択肢がないのにとティリーは憂えた。また、日本の大衆の関心は、身近な事柄のみに限られているようにすら思われると観察している。
 日本人の意思決定の遅さも指摘されている。・・・あらゆることについて多様な顧問・相談役の意見を聞かなければならないのも理由だろうとしている。・・・誰もが責任をとった結果スケープゴートになるのは避けたいと考えているようだと観察した。・・・」(183〜頁)

→そんなテイリーによる日本観察など、紹介するのもバカバカしいわけですが、まず、議員の質については、日本語のできないティリーがどうやって評価したのでしょうね。恐らくは館員等からの聞きかじりなのでしょうが、むしろ、(ここは具体的なデータが欲しいところですが、)英国に比べて、当時の日本の議員の出身階層が広かった、ということなのではないのでしょうか。
 新聞批判については、英国と違って日本には当時(も今も)いわゆる高級紙(quality paper)(注1)がない・・それだけ当時(も今も)日本が階層差が少なく中産階級ばかりの国であった・・というだけのことであって、日英両国の「大衆」に関して言えば、どっちもどっち、その「関心は、身近な事柄のみに限られてい」たはずです。

 (注1)「欧米の新聞の分類にしばしば用いられる区分。タイムズ(英)やルモンド(仏)などのように、政治・経済・文化についての記事や論説を中心に地味な見出しの紙面で、少数の社会的エリートを読者層とした新聞が高級紙、デーリーミラー(英)やビルト(独)などのように、社会的事件やスポーツ・芸能記事などを中心に派手な紙面構成を特徴とし、一般庶民を広く読者層とする新聞が大衆紙とされる。日本の新聞は、一般にこうした区別がな<い。>」
http://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E7%B4%9A%E7%B4%99

 意思決定の遅れについては、縄文化(日本型政治経済体制化)が進んでいた当時だからこそであり、ティリーの言うとおりですが、このあたりは、サンソムからのインプットでしょうか。(太田)

 「テイリーが目を止めたもう一つの問題は、女性の地位の低さである。社交的な集まりから女性は排除されがちであるし、参加が許された場合でも「口をきくのは外交関係の者のみである」。・・・1930年3月、宮内省は、以後未婚の令嬢たちを皇室主催の園遊会に招待しないと宣言した。・・・だが、美しい着物を身にまとった令嬢たちがいなければ、園遊会の楽しみはどうしても半減してしまうのであった。」(185頁)

→これも、ティリーが大衆と交流しなかったことからくる誤解に近いと言えるでしょう。当時、大衆の間では、上流階級に比べて、男女ははるかに平等でした。
 そもそも、ここでもティリーは、社交的な集まりに女性が大勢出ていないと「楽しくいい生活を送」れない不満を述べているだけのように見えます。大勢出ていたところで、日本語のできないティリーでは、「楽し」さも大したことがなさそうに思えますが・・。(太田)

 「ティリー<は>無能だったわけではない。第一次世界大戦中には、筆頭事務官として外務省改革に中心的役割を果たし<たし、>・・・また、駐日大使時代にも、昭和天皇へのガーター勲章授与に向けて・・・イギリスに帰国中<の>・・・1928年3月、・・・・当初、すでに同盟国でなくなっていた日本の天皇にガーター勲章を贈ることに反対だった・・・国王・・・ジョージ5世・・・に謁見するなど積極性もあった。・・イギリスの対外政策決定機構において活動した人物の中で、ティリーが例外であったとは考えにくい。・・・」(178〜179、186頁)

→(内政)官僚としての有能さと外交官としての有能さとは違うし、この二つの能力は必ずしも両立するとは限らない(注2)、ということが後藤には分かっていないようです。
 ガーター勲章の件では、君主を巻き込んでの儀礼外交に一般的に積極的でなかったティリーが、どうしてこの件だけにはこだわったのか、むしろ不思議です。

 (注2)このことの直接的典拠ではないが、『外交』(ハロルド・ニコルソン)
http://ameblo.jp/spy/entry-10695759149.html
といった書物が存在することは、外交官・・外交交渉の専門家・・の職務の特異性を示すものだ。

 繰り返しますが、ティリーは無能な外交官だったのであり、日英関係は、彼によって破綻することがほぼ確定した、と言っても過言ではありません。(太田)