太田述正コラム#5042(2011.10.9)
<歴代の駐日英国大使(その5)>(2011.12.30公開)

 「クライヴが・・・着任したとき日英関係はきわめて厳しい局面を迎えていた。<一つは、>日本が、中国にたいする欧米の不干渉を要求して、東アジアにおいて独自のモンロー・ドクトリンを展開しようとしていたからである。もう一つ<は、>・・・インドを中心とするアジアの英国の植民地への日本からの輸出が急増し、・・・日本からの輸出品の流入を抑えるために輸入割り当て制が実施された<ことだ。>・・・もう一つ<は、>・・・1921年22年・・・のワシントン会議で始まった米英日三国の海軍軍備縮小交渉の行方であった。・・・」(272頁)

→ベストは、1934年4月のいわゆる天羽声明(コラム#4378、4380、4618、4695、4719)を指して、日本が東アジアにおいて独自のモンロー・ドクトリンを展開しようとしていた旨記していますが、対赤露安全保障に言及していないという内容上の問題や、上司の決裁を経ない「声明」であったという形式上の問題はあったものの、到底東アジアモンロー・ドクトリンなどと称することが出来るような代物ではなかったのであり、ベストの筆の滑りと言わざるをえません。(太田)

 「そのころ・・・英国政府内部にナチス・ドイツの脅威の台頭にたいして一部の政治家や官僚、特にネヴィル・チェンバリン財務相と財務官僚が、英国は日本との緊張関係を続ける余裕はないとし、対日融和策を模索していた。同様の考えは、日本側の一部にもあ<った。>・・・
 1934年7月5日、廣田弘毅<(注10)(コラム#3958、4427、4429、4618)>外務大臣は、クライヴとの最初の会見で、軍備縮小協定への道を開くため、日本は英国および米国との間に不可侵協定を結ぶ用意がある、と持ちかけた。・・・これらの問題におけるクライヴの役割はおおむね連絡役で、英国政府の訓令の下に、廣田外相の提案内容をもう少し詳しく説明してもらうよう外相に働きかけるというものだった。・・・

 (注10)1878〜1948年。一高、東大法(政治)。外交官、政治家。「外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。文官では唯一のA級戦犯となり死刑となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85

 1934年9月から10月にかけて訪日した[満州視察を目的とする]英国産業連盟(Federation of British Industry)使節団[団長の名前をとってバーンビー使節団とも呼ばれる。]に<関し、>・・・一番問題だったのは天皇陛下拝謁の予定が・・・[・・・駐日英国大使館に事前に一言の相談・連絡もなく]・・・<日本側によって>入っ・・・たことである。・・・
 <ちなみに、>この・・・使節団は、満州国の非承認の継続は満州市場の喪失になるという英国の、特に鉄鋼と関連製品の輸出産業の懸念を反映したもので、他面、英国外務省を迂回して日英友好の増進を図るという政治的な任務も帯びていたようである。<(訳注)>・・・
 <クライヴ>は、おそらく・・・ジョージ・サンソム・・・の助言に従って、<このような>日本側の友好的言辞は英国をして東アジアで従属的な地位を甘んじさせようとする欲望以外の何ものでもなく、うわべだけの何ら実態のないものであると判断した。・・・
 1935年の11月に、彼はジョージ5世の秘書官サー・クライヴ・ウィグラム(Sir Clive Wigram)に憤懣やるかたない調子で次のように書き送っている。

 日本の内部の仕組み[意思決定構造]はわれわれの理解を遥かに超えており、日がたつにつれ、日本人をわれわれ自身の基準で絶対に判断してはならないこと、あるいは彼らにわれわれと同じような反応を絶対に期待してはならないことが分かってきました。」(272〜274頁)

→クライヴがサンソムを高く評価していたことは事実のようですが、だからと言って、クライヴの考えがサンソムによって吹き込まれたものである、とは必ずしも言えないのではないでしょうか。
 というのは、サンソムは、当時の日本について、旧体制(江戸時代)への復帰の側面があると(否定的に)とらえていた(コラム#4726)ところ、当時の日本の意思決定構造について五里霧中のクライヴの様子からして、彼が、サンソムから、日本の旧体制における意思決定構造・・ボトムアップ等・・に関して説明を受けていたとは思えないからです。
 天皇拝謁「問題」に対するクライヴの異常な姿勢は、英国の力の相対的衰退からも日本人の生来的親英感情からも目を逸らすほど彼が情勢把握能力のない、無能外交官であったことを示すもの以上でも以下でもないでしょう。(太田)

 「英国の対日政策に関してクライヴは、英国が日本側のいうなりにあっさり妥協するのでなく、また米国と組んで反日陣営を構築するのでもない、中間の進路をとるよう最大限の努力をした。・・・
 <ところが、>英国財務省・・・は、独自に日本との交渉に乗り出した・・・。1935年秋<の>・・・サー・フレデリック・リース・ロス・・・<の日本と中国への>派遣<である。>・・・財務省が対日宥和に動いて日英同盟に代わる日英不可侵協定に動いたのは主に財政面から海軍予算の増大を抑える必要に迫られていたという事情があった。<(訳注)>・・・クライヴはこの種のアマチュア外交が気に入ら<ず、>・・・激怒し<た。>・・・
 一方、日本サイドにおいて<は、>・・・1936年<に着>・・・任の吉田茂・駐英大使<が>・・・日英修復を強く訴え<ることになる。>・・・<しかし、>クライヴは1936年3月、吉田の駐英大使発令を知るとすぐ、今度はエドワード8世の秘書官になっていたサー・クライヴ・ウィグラムへの手紙で、吉田は非常に愛想のいい、いつもにこにこしている小柄な男ですが、英国側関係者が一様に尊敬している前任者の松平恒雄<(コラム#4392、4687、4986)>ほどの人物でもなく力量的にもおよびません、と書いている。・・・1936年秋、彼は、吉田が本国政府の明確な承認を得ないまま、英国政府にたいして、日英関係に横たわるすべての問題をひとまとめにして解決する案を英国側に働きかけていることを知った。・・・クライヴは、ロンドンの本省にいくつもの警告を発信し、吉田が東京ではあまり影響力がないこと、駐英大使に任命されたのは、1936年3月の組閣のとき軍部により彼の外相任命を拒否されたので彼の面目を立ててやる人事だったことを伝えた。・・・
 <ベスト>は別の論考のなかで、英国の諜報機関は早くも1918年・・・から日本外務省の電報傍受に成功しており、このときも吉田大使が何の権威もおびずに発言していることを知るに至った、と書いている。<(訳注)>」(274〜276、281頁)

→クライヴの吉田評はいかにも慧眼のようですが、時の外相の廣田と吉田が外務省同期(1906年)で、前者は実父が石工で外務省首席合格で先に外相になった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 上掲
のに対し、吉田は大金持ちのぼんぼん(ただし養子)であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
こと等、また、松平恒雄が貴種(会津藩主松平容保の息子)で外務省に首席合格(1902年)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%81%92%E9%9B%84
した等、当時日本の外務省の関係者から小耳に挟んだ話をもとにクライヴは吉田評をつくりあげたのでしょう。
 いかにも、貴族的なエリート校のイートンやハローならぬ、(恐らくは学費の安い)英東インド会社創設(1862年)の新興パブリックスクール
http://en.wikipedia.org/wiki/Haileybury_and_Imperial_Service_College
たるヘイリーベリー卒のクライヴらしい、屈折した人物評だと思います。
 なお、この頃、英財務省や英財界は、英国の力の相対的衰退を明確に自覚しており、彼らが、クライブ同様かかる自覚が足らなかった英外務省を迂回して、独自外交を展開したのは、当然であったと言えるでしょう。(太田) 

(続く)