太田述正コラム#5040(2011.10.8)
<歴代の駐日英国大使(その4)>(2011.12.29公開)

 「<リンドリーは、>日本の行動を外部世界が批判するのは、日本国内の世論を陸海軍寄りに強めるだけだろう。頑固な国際的態度は知らず知らずのうちに、日本の計略にかかるようなものだ<と考えていた>。・・・
 彼の憤慨は次の手紙で明らかである。

 連盟における英国の代表代理のロバート・セシル卿(Lord Robert Cecil)<(注8)>・・・その他の平和主義者が我々が矢面に立たねばならない世界戦争を引き起こすことを避けようと努力して、私はひどい目にあった。昨<1931>年10月に彼らが満州の事件を間違って処理したので、危険はまだ去っていない。それ故、再び安定した状態を取り戻すのは不可能である。その当時、彼らは私が致命的だと告げたすべての事をやってのけたのである。それほど重要な間違いは正すことができない。・・・

 (注8)Edgar Algernon Robert Gascoyne-Cecil, 1st Viscount Cecil of Chelwood(1864〜1958年)。3度英首相を務めたソールズベリー卿の息子。イートン、オックスフォード大卒。弁護士。保守党下院議員。エスペランティストにして国際連盟の熱烈な支持者。

http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Viscount_Cecil_of_Chelwood

 <また、>彼は9月4日に署名されて10月1日に刊行された<リットン>報告書の内容を、おそらく予知していたのである。彼は次のように書いている。

 私は満州についての連盟調査団の報告書が出たあとで、嵐模様の秋になることを予期している。借金の返済に好意を示してくれることを期待して、米国に対し完全な屈従を強いられている我が国政府と、<日本との間で>非常に不愉快な争いが起こるのではないかと私は思っている。それは私には愚かな考えだと思われる。だから私は極東における英国の利益が、何の理由もなく犠牲にされるのを避けるために、全力をつくして守らねばならない。・・・

 <1933年>新年に満州の日本軍が北京の北方にある中国の熱河省で起こした戦闘<(コラム#4616、4683、4726、4950、4992)>・・・はジュネーヴにおいて悪い印象を与えた。しかし、東京や北京などの現地にいた英国の代表たちは、日本の参謀本部の目的は中国北部の侵略に乗り出すよりも、熱河戦争の終局において満州(今や満州国と称す)における日本の地位を手際よく収めるためだという考えにかなり確信を抱いていたらしい。日本の野心を最小限に見るこの意見は、英本国および大英帝国の都合に合致した。もし日本がその活動を万里の長城の北部に制限すれば、英国の包括的な利益にとって、日本の脅威が一層少なくなる可能性があった。
 それにもかかわらず、日本は教訓を与えられるべきだとロンドンでは考えた。世論の激しい圧力の下で、英国政府は1933年2月27日、日本への軍需品の供給を中断し、中国へも同様の措置をとった。この制限付きの武器の輸出禁止は他の列強諸国の支持をえられずに、二週間後・・・結局撤回された。リンドリーは・・・意見として次のように述べた。輸出禁止政策は英国にとって不利益しかもたらさない<、と>。そのすぐあとに続いた提案は、列強諸国は東京から大使を引き揚げるという案であった。意見を求められてリンドリーはこう書いた。「弊害しかもたらさないような提案にたいして、どれほど深く遺憾の意を表しても十分とは言えない。譴責の形をとったやり方は、日本を強く怒らせるだろう。」・・・
 <結局、日本は>国際連盟を脱退すると通告<した。>・・・リンドリーは<次のような>・・・手紙を書い<た。>・・・

 ・・・今や私は実現性は分からないが、切迫した危険に自分が直面していると思う。それは私が派遣されている国との悲惨な、しかし回避し得る衝突を阻止しなかったという重大な失敗に基づく危険である。

 ・・・リンドリーの職業上の履歴が東京で終わったあとも、東京に多くの彼の称賛者がいた。その最も強力な者の中にサンソム夫妻がいた。・・・」(258、260〜266頁)

→「ロバート・セシル卿・・・らは私が致命的だと告げたすべての事をやってのけたのである。それほど重要な間違いは正すことができない」、「借金の返済に好意を示してくれることを期待して、米国に対し完全な屈従を強いられている我が国政府と、<日本との間で>非常に不愉快な争いが起こるのではないかと私は思っている。それは私には愚かな考えだと思われる。だから私は極東における英国の利益が、何の理由もなく犠牲にされるのを避けるために、全力をつくして守らねばならない」、しかし、「私が派遣されている国との悲惨な、しかし回避し得る衝突を阻止<でき>なかった」、と言ってのけたリンドレーは、後のクレイギーに勝るとも劣らない(英国の相対的な力、ないしその趨勢を踏まえつつ、最大限の英国益を追求するという意味での)愛国者であると同時に、日本の理解者であった、と言えるでしょう。
 解せないのは、あれほどクレイギーに反発したサンソムが、クレイギーと同じようなものの考え方をしていたリンドリーを称賛していることです。
 一つには、サンソムが(クレイギーから見れば)反日的かつ反英的スタンスでもって、クレイギーの日本着任前の1934年に報告書を書いた(コラム#4582)こと、かつクレイギーの在任中の1939年に英本国で根回しをしたこと、をクレイギーが許せなかったために、サンソムに厳しくあたったからであると考えられますが、案外、熱烈なリンドリー・ファンであったサンソム夫人にサンソムが感化されていたから、という単純な理由であった可能性もありそうです。(太田) 

7 アントニー・ベスト 「サー・ロバート・クライヴ 駐日大使 1934〜37年」

 「サー・ロバート・クライヴ(Sir Robert Clive, 1934-37)<(注9)>・・・は1877年・・・に生まれ、・・・最初は東京の大使館に1905年から1909年・・・まで三等書記官として勤務し、そのあと更に1920年から1923年・・・まで北京の英国公使館の参事官として東アジアを経験している。・・・

 (注9)Sir Robert Henry Clive(1877〜1948年)。ヘイリーベリー・カレッジ(Haileybury College)を経てオックスフォード大卒。駐ペルシャ公使、駐バティカン公使を経て駐日大使に就任。駐日大使後は駐ベルギー大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Clive_(diplomat)

 <彼>は日英関係史のなかで奇妙な位置を占めている。それというのも彼が駐日大使を務めた時代は大きな研究対象であるにかかわらずクライヴ大使自身が・・・彼の前任と後任・・・の二人に比べてとくに・・・謎の人物だからである。彼の名が比較的知られていない理由は説明しにくいことではない。リンドリーやクレイギー・・・と違って、彼は在任中にロンドンの本省や北京駐在の同僚大使と意見を戦わすということをあまりしなかったからである。・・・」(271頁)

→前にも述べましたが、一人おきに凡庸な大使を日本に配置するとは奇妙な英本国の人事政策よ、と言いたくなりますね。そして、今回は、取り返しのつかない結果がもたらされることになります。(太田)

(続く)