太田述正コラム#5036(2011.10.6)
<歴代の駐日英国大使(その2)>(2011.12.27公開)

4 ピーター・ロウ 「サー・ウィリアム・カニンガム・グリーン 駐日大使 1912〜19年」(筆者は、マンチェスター大学歴史学講師)

 「緊急の問題としてグリーン<(注2)>の前に立ちはだかったのは、中国の情勢悪化に関連して北京の代理大使ビールビー・オールストン(Beilby Alston)が本国に提出した日本批判文である。・・・1937年7月、・・・第二革命・・・が発生し、孫逸仙支持者らが独私的な臨時大総統袁世凱にたいして武装蜂起したのであった。しかし、袁世凱はこの反乱を鎮圧することに成功した。その結果、・・・日本の反袁軍援助の動機について嫌疑が高まり、外務官僚のなかには、さらに長期にわたって日英同盟を継続させることに疑念を呈する者がいた。代理大使オールストンは激しく対日批判論を述べ、グリーンもまたこれに反論せざるをえなかった。彼は1913年・・・9月12日付けで外務大臣グレイあてに公信書を送り、・・・「個々の日本人が最近の中国の事件に積極的に関与したことはほぼ間違いないが、私は努めて日本帝国政府が彼らの一味であった証拠がないことをはっきりさせようとした」と・・・言う・・・。・・・

 (注2)William Conyngham Greene。1854〜1934年。ハロー、オックスフォード大の学部・修士卒。駐スイス大使を経て駐日大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3

 グリーンは、日英両国がそれぞれ揚子江流域と満州に持つ権益の領域を守ることが、摩擦解消の最も賢明な手がかりだと考えた。しかし、日本の外務省は、日英同盟協約を現在の政治的・戦略的協調手段としてだけでなく、それを経済的分野にまでも拡大しようともくろんでいた。グリーンは・・・半公信として本国の外務省にこのように書き送った、「同盟協約・・・の適用範囲をひろげる・・・<形>がどのようになろうとも、わが国の中国における領域では、日本人は嫌われ、信用されず、日本人と協力することがイギリス人の商人社会で人気を博しそうにないのは疑う余地がない」と。外相サー・エドワード・グレイ<(注3)>と外務次官サー・アーサー・ニコルスン(Sir Arthur Nicolson)は、英国は日本とこれ以上密接な経済関係を結ぶべきではないと、公式見解で一致した。
 1914年・・・3月、グリーンは日本の外務省に覚書を送り、揚子江地域におけるイギリス人の権益の領域を堅持せんとするグレイ外相の決意をくりかえし述べて<いる。>・・・

 (注3)Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon。1862〜1933年。ウィンチェスター、オックスフォード大卒。23歳で自由党下院議員。1905〜16年:英国の外相(史上最長)。鳥類学者としても著名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Grey,_1st_Viscount_Grey_of_Fallodon

 まさにこの時、・・・第一次世界大戦<が勃発した。>・・・
 サー・エドワード・グレイは8月6日、日本に戦争支援を要請した。・・・ところがグレイは、日本が正式に宣戦布告をすれば合衆国やオーストラリア、ニュージーランドを驚愕させるのではないかという迷いがあったので、日本に説いて正式参戦を控えさせ、日本軍の作戦範囲に制限を設けようとしたのである。・・・加藤<高明(コラム#4528、4596、4598、4602、4604、4608、4610、4711、4966)>外相は大隈内閣が対独宣戦布告を決定したことを強調しながらも、グリーンに保証して言った。「日本の作戦は必要欠くべからざる範囲に厳しく限定されるだろう。・・・日本政府は領土拡張の野心とか、あるいはまた、日本の利己的な目的を追求するとかいうような動機に駆り立てられたわけではないので、どうか英国政府はご安心願いたい」と。・・・
 <また、>加藤はグリーンにあてて、日本政府はグレイが提案した地理上の拘束を認めることができない、と通告した。8月15日、日本はドイツにたいして最後通牒を発し、・・・1914年8月23日、日本は正式に第一次世界大戦に参入したのである。・・・
 1914年12月、悪名高き「対華21カ条の要求」<(コラム#713、4598、4602、4952)>が<なされた(注4)。>それはまた、グリーンが対処しなければならぬもう一つの深刻な危機のはじまりであった。・・・

 (注4)1915年1月(18日)の誤り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82

 やがて英国外務省は、日本が提示した要求がグリーンに知らせたものよりもいっそう過激な内容だと言う情報を、ロシア筋から得た。1915年2月10日、『タイムズ』記者とのインタビューで、加藤は「要求」に加えて「希望」を提出したことを認め、その希望のなかには揚子江流域における鉄道施設権の優先的獲得が含まれる、と言った。[加藤はそれを報道しないことを条件にして話したのだが]、グリーンが記者からインタビューの内容を聞くや即刻加藤を訪ねると、外相は食ってかかるように、日本は自国の権益を増進することにかけては、まさに英国が過去におこなったように、独自の行動をとるつもりである、と言った。その後になって加藤が態度を軟化させたのは、英国外相グレーから強硬な反駁に接したり、ロンドンの日本大使館がもっと宥和的な取組み方をするようにと勧めてきたからだ。・・・
 結局、大隈内閣と元老らとのあいだに、対華21カ条の要求から中国全土に適用される第五号を削除し、第一号から第四号に基づいた<(注5)>最後通牒を発するという合意に達した。中国は日本と戦争を交える立場になかったので、袁世凱はその対華要求の条約に調印する以外は選択の余地がなかった。その条約で、袁は満州と揚子江流域における日本の権利拡張を承認したのである。」(200〜207頁)

 (注5)第1号 山東省について、第2号 南満州及び東部内蒙古について、第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について、第4号 中国の領土保全について、第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他。(ウィキペディア上掲)

→ロウが、「<1915年>3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた。日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。」という史実(ウィキペディア上掲)に全く言及していないのは遺憾です。
 いずれにせよ、この時点で、英国は、日本に比べて相対的に力が衰えつつあることを正視し、東アジアにおける覇権を日本へと委譲して行く心の準備に着手すべきであったところ、ついにそれを行いえないまま、事態は推移して行くのです。(太田)

(続く)