太田述正コラム#5028(2011.10.2)
<戦間期日本人の対独意識(その17)>(2011.12.23公開)

 「しかし、1937年7月に盧溝橋事件が勃発し日中戦争に突入すると、国内では日独防共協定が見直されるようになった。当時は、蒋介石政権の背後にはコミンテルンがあると考えられたからである。7月28日、衆議院本会議で杉浦武夫<(注59)>議員が日独防共協定強化の必要を訴えると、場内からは割れんばかりの拍手が寄せられた。

 (注59)岩村または岩村が拠った典拠に誤りがあって議員の名前が誤記されているのか、ネットで調べてもこの人物の痕跡を全く見つけることができなかった。

 こうした事情を背景に日独同志会も活動を活発化させ、全国各地で時局問題講演会を開催した。・・・新聞報道によれば、これらは大変好評で聴衆に深い感銘を与えたと言う。講演の詳しい内容は不明であるが彼らが同時期に雑誌に執筆した論文から、その主張をみることができる。それは、一、日中戦争の根本的解決は、コミンテルンを徹底的に殲滅することにある。二、ドイツとイタリアは、日中戦争における日本の立場を理解し、陰に陽に支援的行動をとっている。三、したがって日独防共協定は日本外交の基軸とされる必要があり、さらに強化して日独攻守同盟にまで進めるべきである、ということであった。彼らは、この時点ですでに日独軍事同盟の必要も主張していたのである。
 また彼らは、防共協定の意義を説くだけでなく、日本人のナチス・ドイツへの「誤解」を解くための努力も行った。「日独同志会設立趣意書」には、「独逸の指導者主義と所謂『ファッショ』乃至独裁専制主義とを同一視するが如き重大なる誤謬を是正一掃」することの重要性が挙げられている。・・・
 松本は・・・「イタリーやロシアや支那」とは非常に違<って、>・・・ナチス政権は国民の世論を背景に国民大衆の支持を受けて樹立されたものである。ナチスは1932年以来独逸議会において第一党の座にあり、ヒンデンブルグ大統領の命によって合法的に内閣を組織した。決してクーデターやプッチ等の非常手段によって天下をとったのではない、と。・・・
 しかし彼らは、ナチスが政権掌握後に他党を次々と弾圧して一党独裁にしたこと、言論機関に厳重な統制を加えたこと、ナチス内の反対派を大量に粛清したこと(レーム事件)、ユダヤ人を排斥し無残な仕打ちを加えていること、これらについては必ずしも明確な説明を加えていない。
 ともあれ、彼らのこうした活動は、ある程度の成果を挙げたといえるだろう。1937年11月にはイタリアが防共協定に参加して日独伊防共協定となるが、前年の日独防共協定締結時とは一転して歓呼の声で迎えられた。・・・新聞雑誌からは防共協定批判の声はほとんど姿を消した。・・・
 こうした状況を見て、日独同志会は結成当初の目的が達せられたと判断した。そこで1938年9月1日、組織の発展拡大を目指して大日本防共同志会と改称するに至った。・・・
 ところで、1938年から1939年にかけて、日独伊防共協定を拡大強化し三国軍事同盟にしようとする動きが出てきた。コミンテルンのみを対象とするのではなく、英米までも対象としようとするのである。陸軍が賛同したが海軍と外務省は反対し、近衛文麿内閣と平沼騏一郎内閣は五相会議を繰り返すが意見対立を纏めきれず、対応に苦慮していた。
 かかる状況において、国家主義団体の多くが三国同盟の即時締結を主張した。・・・加えて、天津租界封鎖問題をめぐって日英間が緊迫化すると、国家主義団体はイギリスに対して激しい反発の声をあげた。各地で排英集会が相次いで催され、新聞はこれを扇動的に報じた。三国同盟締結要請運動は反英運動と結びつき、燎原の火の如く燃え広がった。三国同盟に反対する「親英派」は糾弾の対象とされ、暗殺計画まで練られた。」(201〜205頁)

→日独同志会の主張の一〜三は、いずれも全うです。
 問題は、同会が、敵の敵に過ぎないドイツのヒットラーやナチスを積極的に擁護したことです。
 当時のイタリアをファッショないし独裁専制主義の国と規定したように当時のドイツについてもそう規定すべきであったところ、そうしなかったのは、同会の創立有力メンバーが二人ともドイツ心酔者であったことが大いにあずかっていたでしょうが、それに加えて、彼らもまた、当時の日本人として、外交をマキャベリスティックにではなく、「道義や信頼関係で考える傾向」(コラム#5018)に染まっていて、「道義」的な国としか、同盟関係に入るなどということはもとより、協働した外交を行うことすら望ましくない、と思い込んでいたからではないでしょうか。
 (それならば、イタリアの防共協定入りには反対しなければならなかったわけですが、そうしなかったところに、同会のイタリア軽視ないし蔑視が透けて見えます。)
 この関連で、松本が支那・・これは伝統的な支那ということではなく、当時の中国国民党政権の支那を指していると考えられます・・を「ファッショないし独裁専制主義」の国と規定していることが注目されます。
 こちらの方は、紛れもなく、当時の日本の世論であったのではないでしょうか。
 何度も繰り返して恐縮ですが、私の見方は、日独同志会の主張は、対赤露抑止論を基軸としており、ヒットラーやナチスに甘かった点を除いては、当時の帝国陸軍、ひいては日本の世論の主張と合致しており、しごく全うであった、というものです。
 なお、岩村は、「国家主義団体」という言葉を多用していますが、ナショナリズム団体という趣旨でしょうか。
 彼は、少なくとも、この言葉の定義をした上で用いるべきであったと思います。(太田)

 「さて、以上の如く三国同盟締結論が強く叫ばれていた状況は、1939年8月23日に成立した独ソ不可侵条約によって一変した。ポーランド侵攻を意図していたドイツは、二正面作戦を避けるためにソ連と一時的に手を握ったのである。ノモンハンでソ連と衝突していた日本にとって、その衝撃は大きかった。三国同盟論議は一時的に棚上げとなり、平沼内閣は退陣した。前述したように、防共協定を袖にしてソ連と手を結んだヒトラーの人気は低落した。
 つまり、それまで日独防共協定強化を叫んできた「親独派」は面目を失する事態となったのである。・・・
 しかし、大日本防共同志会はドイツ支持の態度を変えようと<せず、>・・・次のように主張した。・・・ドイツは日本に対して既に軍事同盟を意図した交渉を続けていた。しかるに日本がいたずらに時日を浪費して同盟締結に踏み切らなかったため、ドイツはやむを得ずソ連と手を結んだのである。・・・<この>論説<が掲載された、同会の>・・・機関紙・・・の号外(8月24日)・・・<は>発禁処分となった。
 それでは、日本は今後どのように進むべきなのだろうか。該論説は次のように論じる。対英、対ソの問題を根本的に解決しなければ、日中戦争を徹底的に処理することは不可能である。英ソ両国を各個に撃破するならば、現在最も不利な状況にあり、極東において日本と本質的に相容れないイギリスこそを先に倒さなければならない。さればこそ日独伊軍事同盟を速やかに締結し、三国相携えて断固滅英の挙に出るべきである、とした。」(206〜207頁)

→1939年の段階で、しかも、第二次世界大戦勃発前に、ドイツと提携して対英開戦をすべきである、と主張していた団体があったということに、瞠目するとともに、(ヒットラーやナチスに対してあれほど甘い、いわば国際事情に昏い団体としては信じ難い)その冷徹な慧眼に舌を巻きます。
 日本の外務省が、英国政府及びフランス政府に対して、日本は、援蒋ルートを英国及びフランスが閉鎖しないのなら、ドイツと同盟関係に入った上でルート遮断のための軍事作戦を東南アジアで敢行することを考慮せざるをえない、といった脅しを非公式に利かせておれば、といったことを想像するのは楽しいものです。
 もっとも、そんな発想や才覚を日本の外務省に求めるのは、木によって魚を求むたぐいのことでしょうが・・。(太田)

(続く)