太田述正コラム#5026(2011.10.1)
<戦間期日本人の対独意識(その16)>(2011.12.22公開)

 「1936年11月の日独防共協定締結により、前述してきたような状況は変化を見せる。協定自体には批判が少なからず存在したが、満州事変以来孤立してきたわが国にとって、ドイツが唯一の「友邦」となった事実は重要であった。この頃からヒトラーの漫画は徐々に新聞紙面から姿を消していき、顔写真が使われるようになっていった。
 内務省も取り締まりに本腰を入れるようになった。・・・
 さらに、日中戦争を経て、1937年10月に締結された日独伊防共協定は、日独の結びつきをより強化した。内務省の取り締まり方針も厳格化し、これ以降ヒトラーやムッソリーニを「誹謗」する言論については、わが国の国交上悪影響があるとして、大使館の申し入れがなくても、日本側が検閲段階で処分するようになったのである。」(185〜186頁)

→岩村は、日独防共協定締結時点で日本国内事情に変化が生じたと言っていますが、それは、彼自身の別の箇所の記述(前出及び直後出)に反します。
 実際には、変化は、日中戦争(日華事変)勃発・・1937年7月7日の盧溝橋事件、ないしは8月13日の第二次上海事変勃発・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89
以降に生じたのであり、それは、有事における自由民主主義(的)国家の当然の変化以上の何物でもなかったのです。(太田)

 「<次は、>日独同志会関係者の親独論<についてです。>
 同会は1936年12月1日、松本徳明<(注54)>(同会理事長、ボン大学名誉教授)、黒田礼二(前出)(同会理事、元朝日新聞ベルリン特派員)・・・らによって結成された。・・・
 同会は、他の国家主義団体に比べると必ずしも大きくはないが、それでも・・・1942年末において約3500人の会員を得るに至っている。・・・

 (注54)1898〜1981年。
http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?jid=10951451
「1932年に・・・ドイツ留学中の松本徳明(仏教学者、後京都大学教授)が・・・ボン大学東洋文化研究所日本学科・・・の日本学講師となった。」
http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/13499/2/1_%E6%9C%AC%E6%96%87-47.pdf
 「松本徳明から近衛首相にこのように告げられました。「尾崎秀実はコミンテルン工作員で注意人物である」と。尾崎は世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍している・・・。」
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/28248507.html
 ドイツ大使館筋から得られた情報であろうか。

 1939年頃になると、国家主義団体のほとんどが日独伊軍事同盟締結論を唱えていた。その中で日独同志会を位置付けるとすれば、一、1936年という早い時期から親独論を展開していた、二、独ソ不可侵条約成立後も親独主義を貫いたという点に特徴がある。・・・
 ヒトラー政権が成立した1933年、松本はボン大学教授としてドイツに渡り、黒田は二度目の朝日新聞ベルリン特派員として、ドイツに渡<り、>・・・黒田は1935年、松本は1936年にそれぞれ帰国した。・・・
 帰国後朝日新聞社を退社した黒田は、1936年4月、新潮社から『独裁王ヒットラア』と題したヒトラー伝を上梓した。全体にわたってヒトラーの半生を肯定的に描き出している。・・・
 さて、1936年11月・・・日独防共協定が締結された<が>・・・この協定は、日本国民にかならずしも歓迎されず、不評であった。・・・1937年2月17日の衆議院本会議で尾崎行雄が協定を「無意味」と断じた際には、喝采の声があがった。
 当時みられた防共協定批判をまとめると、大体以下のとおりである。第一に、日本から遠く離れたドイツと、「防共」のためだけに協定を結ぶことの不自然さが批判された。(当時は、ソヴィエト連邦を対象とする付属秘密協定があったことは知らされていなかった。この協定は対コミンテルン以外の意図はもたないと日本政府は強調した)。たとえば横田喜三郎<(注55)>(東大教授)は、共産インターナショナルの活動はここ数年下火であり、日本共産党もほぼ壊滅状態である今日、何故わざわざ外国と協定まで結んで防共に乗り出さなければいけないのか、と疑問を呈した。・・・

 (注55)1896〜1993年。八高、東大法卒。国際法学者、第3代最高裁判所長官。「かつてはマルクス主義の読書会に参加するなどリベラルな法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。極東国際軍事裁判・・・の法的な不備を認めながらも、裁判自体については肯定的評価を与え、「国際法の革命」と論文で述べた。1949年・・・の著書『天皇制』においては、「天皇制は封建的な遺制で、民主化が始まった日本とは相容れない。いずれ廃止すべきである」という趣旨の主張をした。しかし、晩年は保守的な思考を強め、最後は天皇から勲章を受けた。その過程では、東京中の古本屋を回って著書『天皇制』を買い集め、世に流布しないようにした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E5%96%9C%E4%B8%89%E9%83%8E
 人間の屑とはこういう人物のことを言うのだろう。

 第二に、協定の外交交渉が外国メディアに漏れていたにもかかわらず、日本国民には全く知らされなかったことが批判された。評論家の大森義太郎<(注56)>は「言論圧迫として最も悪質なもの」と評している。

 (注56)1898〜1940年。一高、東大経卒。マルクス経済学者。1928年に東大を辞職し、以後は講壇ジャーナリスト。1938年の人民戦線事件で検挙。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E7%BE%A9%E5%A4%AA%E9%83%8E

 第三に、日本国内にファシズムの影響を強める可能性がある点が批判された。読売新聞外報部長の鈴木東民は、防共協定によってナチズムが流入し、立憲政治の否定や言論暴圧の嵐が日本を襲うのではないか、と懸念を表明した。
 第四に、この協定は欧州における民主主義陣営とファシズム陣営の対立に日本を巻き込み、戦争の危機を招来するのではないかと危惧された。清沢洌<(注57)>は、欧州で国民戦線と人民戦線の対立が激化している時に、かつて欧州の問題から手を引いたはずの日本が進んでその一員になるのは果たして利益になるのか、と疑問を呈している。

 (注57)1890〜1945年。米ワシントン大留学。中外商業新報(現日本経済新聞)、朝日新聞の記者を経て評論家。一貫して日米友好を訴え続けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%B4%8C

 第五に、結果的にこの協定は諸外国から批判を受け、日本の国際的立場をより悪化させた点が批判された。馬場恒吾<(注58)>は、「われわれは独伊といふ友人を得る為めに、英米といふ中立的立場にある友人を失つた観がある」と評している。・・・

 (注58)1875〜1956年。東京専門学校(現早大)政治科卒。ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経て、読売新聞社の主筆・社長などを歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%81%92%E5%90%BE

 日独同志会のメンメンの日独防共協定賛同論、及び協定批判への反論は、雑誌論文や同会発行のパンフレットにおいて、具体的には以下の通り展開された。
 黒田は、日本と中国の融和を実現させるためには、それを妨げるソヴィエト連邦を根底から撃滅するより他はないと主張する。しかしソ連は極東に強力な軍事力を保持しているから、日本単独で対抗するよりも、ソ連を敵とする実力のある国家と堅い同盟を結ぶのが一番賢明な策である。それに該当する国家は今のところドイツをおいて他はない。イギリスは日英同盟当時と違って今日ではソ連に宥和的であるから、日英提携してソ連に当たるという策はありえない。中国は欧米依存主義の傾向が強く、日本と単独で提携する可能性は低い。・・・と論じた。
 日本がナチスの影響を受けてファッショ化することを恐れる議論については、そのような懸念を持つのは自国の文化に自信を持っていない証拠である、と黒田は一蹴した。また秘密外交に対する批判については、外交上の秘密が保たれるのは当然のことであると反論した。
 ・・・<また、>松本は、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連・中国の日独防共協定に対する態度を批判的に検討したうえで、諸外国の防共協定批判の多くは「故意の誤解か病的曲解か或いは利己主義的批判より来れるもの」であると結論付けた。そして、日本国民はこれらに惑わされてはいけないと主張したのである。
 このような日独防共協定に賛同する議論は、当時の言論界においては少数派であった。・・・」(195〜201頁)

→ヒットラーないしナチスドイツに対して甘すぎた点を除けば、日独同志会の主張は対赤露抑止を基本とした、全うなものであったと言えるでしょう。
 他方、日独防共協定批判者中、比較的まともであったと思われるのは清沢くらいなものですが、この清沢とて、米国事大主義者の疑いは免れないのであって、果たして彼が対赤露抑止の考えを日本の世論の大勢と共有していたかどうか定かではありませんし、仮に共有していたとしても、彼が対赤露抑止の代替案について腹案を持っていたとは聞いたことがありません。(太田)

(続く)