太田述正コラム#5008(2011.9.22)
<戦間期日本人の対独意識(その11)>(2011.12.13公開)

 「<『東日』は、1940年>6月19日の社説では・・・次のように<記し>ている。英仏人は日本を中立国と見なしているようだが、日本政府は不介入主義であっても中立ではない。仮に中立策をとっていたとしても、国民の思想感情がそれに束縛されるわけでもないのはアメリカと同様である。そもそも英仏は蒋介石を援助し、日中戦争に関して中立策をとっていないではないか。・・・日本の青年たちが英仏の援蒋行為によってどれだけ命を落としていると思うのか、と。
 ここに『東日』は、自らが大戦報道において枢軸側に立っていることを明確に表明したのである。『新聞之新聞』の表現を借りれば、「大見得を切った」のであった。ちなみに同じ日の『東朝』の社説は、対仏講和条件が過重になりすぎないよう独伊に自制を求める内容であった。『東日』と『東朝』の濃淡の差は際立っている。・・・
 ヒトラーの対英和平提案演説を受けた7月21日の社説では、「ドイツは躊躇することなく、英国に向つて徹底的な痛撃を加ふべきである」とせき立てている。それは、「不当に膨張せる英帝国を解体してこそ、遍在せる資源の公平なる再分配が可能であり、閉鎖されてゐる領域の、全人類的な開放を期することが出来る」からだという。・・・つまり『東日』は英独間の妥協成立を恐れ、むしろドイツがイギリスを徹底的にたたき潰すことを求めているのである。それは、もしこの時点で和平が成立したら、アジアにおけるイギリスの利権はおそらくそのまま残り、日本にとっては何のメリットもないからであろう。『東日』としては、「持てる国」英国がドイツによって滅ぼされ、植民地資源が再分配されることが望ましいのであった。
 かくの如く、『東日』がドイツ勝利を自明のものとしているのに対し、『東朝』は、イギリス側は依然として負けていないとする見解を少数ではあるが掲載していた。たとえば、ベルギー降伏後の鈴木文史朗(文四郎)<(注31)>特派員による栗山茂<(注32)>・駐白大使へのインタビュー記事がそれである。栗山が「英仏は今でこそ振はないが結局必ず勝つ」と述べたことが、一部で物議を醸した。・・・

 (注31)1890〜1951年。東京外国語学校卒。1942年朝日新聞社常務。終戦直後に退社し、『リーダースダイジェスト』日本語版編集長を経て衆議院議員。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%96%87%E5%8F%B2%E6%9C%97
 (注32)1886〜1971年。一中、一高、東大卒。条約局長、駐スウェーデン大使、駐ベルギー大使を経て行政官枠で1947年に最高裁判所判事。長男は元駐米大使・元外務事務次官の栗山尚一。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E5%B1%B1%E8%8C%82

 また同紙は、パリ陥落直後には、「戦乱ヨーロッパはどうなる」と題し、本多熊太郎<(注33)(コラム#4982)>と芦田均<(注34)(コラム#3253、4754)>という、対照的な政治意識を持つふたりの元外交官の談話を掲載した。本多は勝敗はすでに決したと断じたのに対して、戦争はむしろこれからであると芦田は語った。英国人が特有の粘りを見せるかもしれないし、アメリカ参戦の可能性もあるから、予断は下せないとしたのである。・・・

 (注33)1874〜1948年。たたきあげの外務官僚。ドイツ大使を最後に退官していたが、1940年、松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の南京に中国大使として赴任。1944年に東條内閣の外交顧問に就任。戦後A級戦犯とされたが、病気により釈放。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E7%86%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
 (注34)1887〜1959年。一高、東大法卒。外務省に入るが、在ベルギー日本大使館参事官を最後に辞職し、衆議院議員。「厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、内閣総理大臣(第47代)などを歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87

 しかし『東朝』は、社説で親英論を掲げていたわけではない。『東日』に比べると慎重かつ中立的であったが、紙面全体としては、ドイツ勝利が近づきつつあるという印象を与える記事の方が多数だったといってよい。それは『読売』も同様であった。」(90〜92頁)

→いずれにせよ、『東日』の方が『東朝』に比べて、より当時の日本の世論に忠実であったことは確かです。
 岩村が引用する『東日』の紙面を通じて、当時の世論が、反赤露であるがゆえに、赤露に通じていると見られていた中国国民党政権と戦うことを当然視するとともに、この政権に肩入れしていた英国(やフランスや米国)に反感を抱き、英仏と戦い始めたナチスドイツに強いシンパシーを抱いた、ということがひしひしと伝わってきます。
 なお、芦田は、戦後、衆院憲法改正特別委員長の時に憲法第9条第2項の冒頭に「前項の目的を達成するため」という文言を入れる等のいわゆる芦田修正を行い、その結果、軍隊保有が可能であるとの解釈の余地が生じた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1#.E8.8A.A6.E7.94.B0.E4.BF.AE.E6.AD.A3.E3.81.A8.E6.96.87.E6.B0.91.E6.9D.A1.E9.A0.85
ことで有名ですが、フランス降伏時の1940年6月の段階での彼の英独戦の予測といい、その理由といい、見事ですね。
 機会あらば、改めて芦田論を展開したいものです。
 なお、岩村が『東日』の言っていることの一部だけを切り取って、「『東日』としては、「持てる国」英国がドイツによって滅ぼされ、植民地資源が再分配されることが望ましいのであった」としているのは、「閉鎖されてゐる領域の、全人類的な開放を期することが出来る」としている『東日』の曲解に近いと思います。
 『東日』が言いたいのは、英国の英帝国ブロック化政策を打破して、全人類が英帝国地域と自由に貿易ができ、同地域に自由に投資ができるようにすべきだ、ということであって、日本だけが裨益したい、というようなケチな発想はそこにはないからです。(太田)

(続く)