太田述正コラム#4992(2011.9.14)
<戦間期日本人の対独意識(その3)>(2011.12.5公開)

 「このように、新聞紙上にドイツ外交への好意的言論が表出してくる一方、ドイツ内政への批判が少しずつ抑制され、トーンダウンする傾向が見受けられる。たとえば1935年9月にドイツは、罪刑法定主義や不遡及原則を否定した反動的な刑法改正を行ったが、これを解説する『東朝』ベルリン特派員・・・の記事は、「従来の法律学の旧殻を打破した点にもドイツの突進的気魄を感じる」と好意的であり、批判的視点が欠落している。また、ユダヤ人の市民権を奪った、いわゆるニュルンベルク法については、報じられてはいるが論評が為されていない。『東日』と『読売』は全く報じておらず、各紙はユダヤ人迫害をもはやニュース性に乏しいと判断していることがわかる。
 また1936年6月には、ドイツと中国の間の軍需品と原料を公刊する密約(いわゆるハプロ条約。締結は4月)の存在が報じられた。『東朝』は社説でこの問題を論評しているが、「日支間に色々不利なる影響を与へずには置かないだらう」と述べる程度であり、ドイツを非難するまでには至っていない。日本政府はドイツに抗議する動きを見せたが、『東朝』の短評欄は「ドイツまでも『厳重抗議』の対象にしなければならなくなつた外務省/何処の国にも出し抜かれてばかり」と冷ややかであった。・・・
 批判がトーンダウンするに加えて、「日独友好」に関する美談記事が、このころから社会面に散見されるようになる。・・・
 かかる傾向に拍車をかけたのが、1936年8月のベルリンオリンピックであった。・・・」(14〜15頁)

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<脚注:中独合作>

 --中独合作(=中合作=Chinesisch-Deutsche Kooperation=Sino-German cooperation)--

 「広州の国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家驊が1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。中国が・・・相手にドイツを望んだのは、・・・イギリス<は>・・・中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていた<の>に対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたた<こと、>また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったこと<等が>挙げられる。
 また、・・・蒋介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。・・・
 1926年、・・・<招請に応じ、>約30人の将校とともに、マックス・バウアー【(Max Hermann Bauer。1869〜1929年。ヴェルサイユ条約に従い解散が決まったエアハルト海兵旅団が1920年3月13日に反乱を起こし(カップ一揆=Kapp-Putsch)、樹立された臨時政府でバウアーは首相府長官に就いたが、3月17日の同政府の崩壊後逃走。ソ連、スペイン、アルゼンチンで暗躍。1927〜29年:国民政府軍事顧問)】<が>、軍事顧問団を形成した。これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる<こととなる。>・・・
 ・・・軍事顧問団は、直ちに黄埔軍官学校の軍事教練に着手。バウアーは国民革命軍を縮小して少数精鋭部隊へと再編成を行った。翌1929年<、>・・・李宗仁≪(Li Tsung-jen。1890〜1969年。たたきあげの人物。1949年1月、蒋が国共内戦不利の責任をとって下野すると、李が代理として中華民国総統に就任し、共産党との和平交渉を開始したが、結局中華人民共和国が成立し、11月、李は香港へ逃亡し、さらに12月にはアメリカへ亡命。台湾へ渡った蒋は、1950年3月1日総統への復任を宣言。)≫らが蒋介石と対立した際には、軍事顧問団は、戦闘の指導を行った。・・・バウアー没後、ヘルマン・クリーベル{(Hermann Karl Theodor Kriebel。1876〜1941年。軍人・政治家・外交官。アドルフ・ヒトラーの古い同志で、1923年11月8〜9日のミュンヘン一揆(Munich Putsch=Hitler-Ludendorff-Putsch=Beer Hall Putsch)の首謀者の一人。1929〜30年:国民政府軍事顧問)}中佐が顧問団長を継ぎ、1年五ヶ月間務めた。・・・
 1931年、満州事変<、>・・・。<1932>年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、ゲオルク・ヴェッツェル[大]将[(Georg Wetzell。1869〜1947年。1926〜27年:独兵務局長。1930〜34年:国民政府軍事顧問)]が中国軍を指揮している。・・・
 1933年5月、・・・ハンス・フォン・ゼークト【・・カップ一揆の時、国防大臣の治安出動命令を兵務局長のゼークトは拒否している。・・】がヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。・・・
 <彼は、>小規模で、機動性に富み、装備が整った部隊を整える事を要求<するとともに、>・・・「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。・・・
 1934年1月、中国内のドイツ産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ<(Hapro)>)がベルリンで設立された。・・・ハプロ設立の目的は、ドイツが国家として中国への干渉を深めている事に対しての外国からの抗議をかわすためでもあった。・・・同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任した・・・
 1934年8月23日、ハプロと中国との間で・・・「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」・・・ハプロ・中国間物資交換条約・・・が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。一方で、ドイツは、軍需資源を中国から確保できるようになったため、国際原料市場に依存する必要がなくなった。
 ハプロとこの条約は、中国産業の推進だけではなく、軍制の再編成も促進した。この重要な条約を結んだ後、ゼークトは中国軍事顧問の地位をアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン『(Ernst Alexander Alfred Herrmann Freiherr von Falkenhausen。1878〜1966年。1931年退役。右翼系の退役軍人組織「鉄兜団」に加入、指導者の一人となる。1935〜38年:国民政府軍事顧問。第二次世界大戦勃発と同時に軍に復帰し、・・・1940年からはドイツ軍占領下にあるベルギーの軍政長官を務め、一時北フランス、オランダ、ルクセンブルクも兼轄。)』『中将』に譲り、1935年3月にドイツに帰国した。・・・
 1935年1月、ファルケンハウゼンは・・・対日戦略案を蒋介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることを・・・提案した。また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。しかし、蒋介石・・・は当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した。・・・
 <かつ、>消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。・・・<そして、>、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。・・・
 ドイツによる中国国民党軍の軍備再編<とかかる進言は、>・・・蒋介石が廬溝橋事件後に日本に対する徹底抗戦に踏み切る決断の要因のひとつとなった可能性がある。しかし・・・蒋介石は、幕僚とファルケンハウゼンの反対にも関わらず、<日支戦争勃発後の>1937年の・・・第二次上海事変・・・に<おいて、>全兵力の3分の1を投入し、貴重な戦力を失った。<にもかかわらず、この軍備再編のおかげで、>・・・日本軍は<国民党軍との戦闘で>予想以上の犠牲を払うこととな<り、>・・・国民政府が遷都した重慶をついに攻略することはできなかった。」

 (以上、A:によるが、部分的にBも参照した。ただし【】内はC、≪≫内はD、{}内はE、[]内はF、『』内はGによる。ちなみに、Aの大部分はBの逐語訳であり、その旨断っていないのはいかがかと思う。)
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C
B:http://en.wikipedia.org/wiki/Sino-German_cooperation_(1911%E2%80%931941)
C:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E4%B8%80%E6%8F%86
D:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%97%E4%BB%81
E:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E4%B8%80%E6%8F%86
F:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB
G:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3
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→国民政府のドイツ人軍事顧問の歴代トップ4名の経歴を見れば、彼らが、ことごとく自由民主主義や法の支配の観念とは無縁の人々であったことが分かります。
 また、当然ながら彼らすべてがドイツ帝国で将校であった上、うち2名はヴァイマール共和国下でドイツ軍のトップを務めた人物です。
 ファシズムのナチスドイツは、これらの人物に象徴されているような反自由民主主義的にして反法の支配的であったドイツ軍部と、ドイツの極右勢力との合作によって生誕した、と言っていいでしょう。
 独裁的な中国国民党がドイツに接近した理由で、最も大きかったのは、(上掲の脚注中には出てきませんでしたが、)両者の体質が似通っていたからだ、と私は考えています。
 もう一点忘れてはならないのは、片や中国国民党は、赤露(ソ連)のフロントとして出発し、蒋介石の手によってそれがファシズム政党へと「純化」しつつも容共色を払しょくしきれず、1937年には再び赤露と合作するに至り、片やドイツは、この間、ほぼ一貫して赤露と合作を続けた、という事実です。
 (第二次世界大戦勃発後、1939年から1940年にかけて、赤露がドイツに自国領内のムルマンスク近くの基地・・Basis Nord・・を提供して、そこから、ドイツに対英潜水艦戦を実施させた
http://en.wikipedia.org/wiki/Basis_Nord
という史実がそのことを端的に物語っています。)
 これを赤露の側から見れば、(赤露フロント政党時代とファシスト政党時代とを問わず、)中国国民党と(ヴァイマール共和国時代とナチス時代とを問わず、)ドイツとは、それぞれ、ユーラシア大陸の西と東において、自分の手のひらの上で転がしていたところの、一対の手先的存在であった、そして、ドイツには英仏攻撃、中国国民党には日本攻撃を行わせた、ということです。
 なお、ドイツには、独ソ開戦という形で赤露は煮え湯を飲まされることになりますが、最終的にこの赤露の戦略は、米国を巻き込むことで完全に成功を収め、先の大戦終了時までには、西では中東欧を、東では支那と朝鮮半島北部の「併合」に成功することになります。(太田)

(続く)