太田述正コラム#4986(2011.9.11)
<戦間期日英関係の軌跡(その18)>(2011.12.2公開)

 「イギリスが予想したように、・・・1926年、27年の五・三0事件記念日には排英が中心だったが、1928年には日英の立場は逆転した。また、反日会が組織され、・・・日本品の取引<を行う者は>救国基金への払い込み<を求められた。>・・・反日運動の中心には中国の実業家もいた。・・・<彼らは、>排日貨にとどまらず、民族産業を保護育成<しようとしたのだ。>・・・
 上海の矢田総領事は、学生や大衆の排日貨遂行を国民党が後援しているようだと報告した。<これは、英国人観察者達の見解でもあった。>・・・
 また・・・東南アジアの中国人も日本への抗議に加わり、日本の南洋貿易に打撃を与えた。」(155〜157頁)

→蒋介石は、権力を追求、維持するため、その宋美齢との結婚に象徴されているように、赤露と手を切って、支那の大資本と結託し、支那のファシスト国家化を推進していたと考えられるわけですが、これが、支那に利権を持つ列強を相互に離間させ、逐次列強を支那から駆逐するという赤露の戦略と矛盾するものでなかったからこそ、赤露は、蒋介石を手のひらの上で転がす政策を続け、国民党を、その隠れ共産党員や共産党シンパを通じて動かして、次の標的を日本に絞らせた、と見るべきでしょう。
 支那の大資本もまた、蒋介石ともども、この赤露の手のひらの上に乗せられるに至っていた、ということになります。(太田)

 「イギリスがボイコットの標的になっていた時期に上海のイギリス人が本国の対応に不満であったのと同じように、上海在留日本人も、本国が中国での排日貨の実状を理解せず、それを終結させるための十分な努力をしていないと考えた。・・・
 <しかし、>上海在留の経済関係者と<違って、>・・・<日本の>外交官は排日貨の被害を直接受けないせいか、楽観的な傾向があった。・・・
 <一方、>日本の財界は、深刻な排日貨を引き起こした田中外交に不満を感じ始めた。・・・
 9月には、東京の日華実業協会に対抗して新しく大阪に設立された日華経済協会が、同地出身の幣原に、幣原外交について講演をするよう依頼した。9月17日、<この講演>・・・で幣原は、田中外交を批判し、自らの不干渉政策が日本の権利の保護と両立しうると主張した。・・・<また、>幣原は10月19日に慶應義塾大学で・・・講演を行い、田中外交に対する厳しい批判を口にした。さらに、翌年2月2日と5日の貴族院本会議では直接田中に論戦を挑んだ。」(159〜160頁)

→日本の外務省が無能でかつやる気がないことには驚きませんが、日本の一部国民の中に短期的利益に目がくらんで軽挙妄動する者が出てきたことにはがっかりさせられます。
 しかし、何と言っても許し難いのは、厚顔無恥な幣原の醜悪な言動でしょう。
 前にも申し上げたように、(極東裁判の遡及インチキ法理たる平和に対する罪をまともに適用するならば、)幣原がA級戦犯の最右翼の一人であることに間違いないでしょう。(太田)

 「1928年7月後半から・・・中国は1925〜6年に日本に対してしたように、今度はイギリスに好意を示し始めた。中国はできるだけ早く英中間で南京事件を解決しようとし、済南事件後にイギリスが中断していた南京事件交渉は、7月17日に再開された。24日、孫文の一人息子である孫科と、国民党発足以来の党人である胡漢民<(コラム#4948)>が、ロンドンでチェンバレン外相との会見を求めた。孫科<(注45)>らによると、イギリスの唯一の目的は貿易で領土的野心はないが、日本はそうではなく、日本軍は山東を占領しており、国民政府としては日本の東北三省における領土的野心に大いなる不信感を持っているという。イギリスは、中国の意図が列強を対立させることにあると感じた。25日、アメリカ合衆国は中国に完全な関税自主権を与える新条約に調印し、この予想外の進展はランプソンを大いに驚かせた。・・・8月に入ると中国はイギリスとの関税条約交渉も急ぎ、ランプソンは、これも日本を孤立させるためだと考えた。さらに、米中間の南京事件交渉は8月3日に決着し、9月にはイギリスがこれに続いた。英中間の緊張は緩和していった。」(160〜161頁)

 (注45)Sun Fo。1891〜1973年。カリフォルニア大学バークレー校学士、コロンビア大学経済学修士。1931年から蒋介石政権の行政院長や立法院長を歴任。晩年に台湾で考試院長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%A7%91

→孫科と胡漢民は蒋介石の命で訪英したのでしょうが、これも客観的には赤露の手先としての動きですね。
 さて、南京事件の際に、日本が英国と協調しつつ、軍事力をも適時適切に用いて対処してさえおれば、南京事件の解決に列強がバラバラにあたることもまた、ありえなかったことでしょう。
 とまれ、最も最初にワシントン体制違反の抜け駆けを公式に行ったのは米国であったことを我々は忘れないようにしましょう。
 いずれにせよ、英外務省は、的確に国民党のやり口を見抜いていたわけです。
 しかし、遺憾ながら、ここでも、もはや、その背後に赤露がいる、ということに言及がなされなくなっています。(太田)

 「日本も孤立を避けるためにイギリスの協調を確保しようとし始めた。・・・
 病気療養中だった・・・チェンバレン<に代わって外相>代理を務めていた・・・ランカスタ公領相<の>・・・カッシェンダン男爵(1st Baron Cushendun)<(注46)>・・・は日本の目的が不人気を他の列強と分け合うことではないかと考えた。ランプソンも同じ結論<だった。>・・・

 (注46)Ronald John McNeill, 1st Baron Cushendun。1861〜1934年。ハロー、オックスフォード。弁護士を経て英保守党政治家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_McNeill,_1st_Baron_Cushendun

 イギリス外務省・・・にとって日本の対英接近は遅すぎた。第一に中国は東北部を除いてではあるが再統一されつつあり、一般情勢は平穏に戻りつつあった。その結果、イギリスはもはや日本の軍事力を必要としないように思われた。<第二に、>・・・中国がイギリスに好意を示し始めた一方、日本は民族主義運動の新たな標的になっていた。もしイギリスが日本と共同歩調をとれば、中国でやっと確保した好位置を失うかもしれなかった。・・・
 <第三に、>「日本の通商上の立場の強さ」があった。・・・中国人が日本の政策をいかに嫌おうとも、日本品に資本を投下した中国の業者も、日本品を買う習慣のついている中国人消費者も、自分の物質的利益を犠牲にする用意はないだろうというのだった。日本は中国市場においてイギリスの手強い競争相手だったから、この点からもイギリスにとって日本と結びつけられ・・・日英ともに中国のボイコットにさらされたならば、日本の・・・製品が<英国の>製品を圧倒して中国市場で生き残ることになりかねなかった。
 <第四に、>イギリス外務省・・・は1925年から1927年にかけての日本の非協力的な姿勢を忘れられずにいた。上海「防衛」、南京事件、漢口事件などの際に、日本が軍事力の行使に反対で、強硬な抗議以外に手だてはない、と答えたことを覚えていた。・・・マウンジー極東部長<(注47)>はこう記している。>

 (注47)Sir George A. Mounsey(171頁及び下掲)
http://www.gulabin.com/britishdiplomats/pdf/BRIT%20DIPS%201900-2011.pdf

 あいにく、ことに1925年と1926年において、主としてソ連の宣伝により、中国人はほとんど我々に対してのみ目覚めつつあった怒りの攻撃を最初に向けた。そして、中国での協調の約束がいかに空虚なものになってしまったか、日本や他の列強が我々を中国のボイコットや他の新たな攻撃手段に対抗して戦わせておいて、抗争に巻き込まれたり、不運を分かつことを避けようといかに決意を固めていたか、我々が気付いたのはあのころであった。
 …有害無形な絆を断切り、中国における我々の新政策<、すなわち12月メモランダム、>を宣言しようと我々が決意したのはこのような状況においてであった。・・・

 こうしてイギリス外務省は日本との提携が不可能であるとの結論に達した。・・・
 イギリスは12月メモランダムによって、中国問題に関してはワシントン会議の精神から離れる意図を持っていたということがうかがえる。・・・
 パリ<での>・・・不戦条約を調印を8月27日に終えた・・・元外相で枢密顧問官の内田康哉<(コラム#4466、4532、4604、4671)>は、・・・9月8日、カッシェンダンとジュネーブで会談した<(コラム#4532)>。カッシェンダンは、・・・過去何年かの混乱期に、イギリスは<(幣原外交を標榜していたところの)(太田)>日本の助力の欠如に一度ならず失望したと率直に告げた。・・・
 10月に入ってからも田中内閣は協調の夢に固執した。・・・佐分利貞男<(コラム#4968)>代理大使・・・は、田中の熱心な希望をイギリス外務省に繰り返し説いた。1929年に新任の松平恒雄<(コラム#4392、4687)>駐英大使がウェルズリー<(注48)>と会談した際にも日英協調という同じ話題が繰り返されたが、イギリス外務省・・・の態度は変わらなかった。」(161〜164頁)

 (注48)この時点では、ウェルズリーは外務次官になっていたと思われる。

→日英離間の決定的理由が、幣原外交にあったことは、ここからも明らかですね。
 覆水盆に返らず、ということです。(太田)

(完)