太田述正コラム#4982(2011.9.9)
<戦間期日英関係の軌跡(その16)>(2011.11.30公開)

 「1927年後半のティリー駐日大使は、田中<義一首相兼外相>の能力に疑念を抱きつつあった。彼は田中の資質は「深慮からほど遠く」、「どこに向かっているのかあまりよくわからずに走り出す」人物だという報告をしていた。・・・チェンバレン<英外相>は、1927年12月には、ティリーのこのような態度を批判し、イギリスは田中と友好関係を結ぶよう努力しなければならないと主張していた。しかし、1928年2月にはチェンバレン自身も日本に対して厳しい意見を記すようになっていた。「中国における日本の政策はきわめて利己的」というのである。」(142頁)

→田中外相が首相であって忙しく、またフランス語も英語もできないことから、ティリーは、田中と公的な場以外での交流がなかったと思われるところ、第三者を交えた公的な場でのやりとりだけで相手の資質を的確に把握するのは容易ではないことを自覚していないように見える点でティリーにも問題はありますが、このような「誤解」が生じたことに関しては、前にも記したように、田中側の方の責任の方がはるかに大きいと思います。
 というのは、日本人で英語がかなりできる人ならお分かりでしょうが、日本語で話す時より英語で話す時の方が論理的でかつ結論が明快になりがちです。日本語が体現している日本の文化は、その人間主義に由来するところの、陰翳、曖昧/婉曲/含蓄、間接表現/自己抑制/謙譲/遠慮/控えめ/節度/省略/ぼかし/察し、の文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E7%BF%B3%E7%A4%BC%E8%AE%83
http://wenku.baidu.com/view/98e58f60caaedd3383c4d360.html?from=related
http://anotherway.jp/tayori/kazetayori/vol95/index.htm
だからです。
しかし、相手が日本人であれば、それなりに真意が伝われけれど、相手が一般の外国人ならその保証はありません。
 これに加えて、通訳が介在するのですから、通訳がよほど気が利いていて真意に沿った意訳をすればともかく、(その時の話題に田中くらい通暁した通訳ででもない限り、)通常は直訳するでしょうから、ティリーにしてみれば、田中が何を言っているのかさっぱり分からない、というようなことが少なくなかった、と想像されるのです。
 このようなティリーが、田中の資質について抱いた「誤解」を公信の中で繰り返すことによって、それを読まされ続けたチェンバレンが、最終的にそれを信じてしまった可能性は否定できません。
 なお、「外務大臣には当初井上準之助か本多熊太郎が予定されていたが、合意には至らず最終的に田中自らが兼務し<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3
ということのようですが、大蔵官僚上がりの井上(1869〜1932年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%96%E4%B9%8B%E5%8A%A9
はともかく、外務官僚上がりで外務省書記からのたたき上げの本多(1874〜1948年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E7%86%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
が受けなかったことが惜しまれてなりません。
(太田)

 「蒋介石の反共クーデター以降、イギリス外務省は南京事件に関し、事実がどうであろうとそれを共産党員が引き起こした事件と見なすこととした。・・・そして、1928年3月までには、南京国民政府との間で南京事件解決の合意にほぼ達した。・・・
 しかし、・・・上海のイギリス人は依然として列強との協調を唱え、イギリスは強硬策を採るべきだと主張していた。3月6日および7日に、上海、天津、香港、広州のイギリス商業会議所の代表は上海で・・・合同会議を開<き、>・・・12月メモランダムで表明された政策には賛成するものの、・・・中国に中国全体を代表する政府や、支配領域の人民を正しく代表する地方政府が存在するまで、イギリス政府は既存の条約や合意の維持を目的とし、イギリス人保護のために適切な手段を採るべきだというのであった。しかし、このような意見<が>・・・イギリス本国の政策決定に影響を及ぼすことはなかった。・・・
 英中関係は・・・<様々な>面において・・・改善し始めていた。・・・好転は、貿易量・・・のみならず、外国人居留民と中国人との関係にも見られた。」(142〜143頁)

→田中は気づいていなかったでしょうが、日英間に打ち込まれた赤露のくさびが見事に利き始めていた、ということです。(太田)

 「イギリスとは対照的に、日本は事態が深刻になりつつあると考えた。1928年4月7日以降再開された北伐が山東半島に接近したからである。・・・
 田中首相は反共という観点から蒋介石に好印象を抱き<(注37)>、日本が軍隊を送らないで済むような方向に国民革命軍が迂回することを望んでいた。また、山東にそれほど利権を持たない関西財界は軍隊派遣に反対であった。しかし、日本人居留民が国民党の反日感情を決定的に強めることを恐れていた。新聞の社説も派兵に反対であった。しかし、日本人居留民を居留の場において保護することは政友会の公約であり<(注38)>、陸軍省も派兵に賛成であった。・・・4月20日、日本政府は日本人居留民保護のために山東に軍隊を派遣すると宣言した。同日、<ただちに日本の>天津<駐留>部隊が<先遣隊として>・・・列車で済南に<入った。いわゆる第二次山東出兵である。>・・・

 (注37)田中は、総選挙(下出)後、「治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、3・15事件によって日本共産党を壊滅に追い込ん」でいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3 前掲
 (注38)「昭和金融恐慌の発生によって窮地に陥った第1次若槻内閣は、緊急勅令によって事態切り抜けを図ったが、幣原外交に反感を抱く枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治の策動で否決されて倒れた。元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕はともに憲政の常道の観点から、<野党第一党の>立憲政友会総裁の田中義一を後継に推挙し、陸軍出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する貴族院にも田中待望論の動きが高まった。」という事情で1927年4月20日に田中義一内閣が生まれたが、田中は、1928年2月20日に日本で総選挙(初めての第1回普通選挙)に臨み、自分の率いる政友会が勝利し、少数与党状態は解消した。
 田中が公約を重視せざるをえなかった所以だ。
 なお、この総選挙では、「労働農民党(労農党)、日本労農党、社会民衆党、日本農民党のいわゆる無産政党、無産諸派が、<初めて>候補者を擁立し、選挙戦を戦っ<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC16%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99 (「田中内閣は、」以下) 前掲

 <同>日付けで、チャールズ・マクヴェイ(Charles MacVeagh)<(注39)>駐日アメリカ大使は、軍隊の派遣が自己防衛のための避けがたい方策であり、中国や中国人民に対する非友好的な意図や、南北両軍いずれの軍事行動への介入も意味するものではないと、日本の公表通りに報告していた。青島と済南駐在のアメリカ領事も、日本軍の派遣によって一年前と同様に安堵感がもたらされたと考えていた。・・・

 (注39)1860〜1931年。ハーバード大卒、コロンビア大ロースクール卒。USスチールの法務担当。1925〜28:駐日大使(クーリッジ大統領が指名)。その後ニューヨークの法律事務所勤務。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_MacVeagh

 <4月>30日・・・から翌5月1日にかけての夜、北軍は・・・済南から撤退し・・・一方、蒋介石<が直接率いる>2万の国民革命軍は5月1日の真夜中頃済南に入城した。<(注40)>・・・

 (注40)「5月1日<に>済南<が>北軍の手から南軍の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などで紛議が頻発して市内は緊迫の様相を呈するに至った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 典拠が付されていないが、大いにありそうなことだ。

 日本側は、国民革命軍が秩序正しいと観察した。蒋介石も日本人居留民の保護を保証したので、・・・日本<軍の>先遣隊が済南<城外>の外国人居住区のうち2カ所に張り巡らした鉄条網の撤去と、前哨地点からのほとんどの歩哨の撤退が命じられた。・・・
 しかし、5月3日・・・<の>10時頃に約30名の国民革命軍兵士が日本人商店の一つを略奪し始め、制止を命じた日本人に発砲し<、>戦闘が始ま<った。いわゆる済南事件(コラム#214、215、4378、4534、4675、4679)である。(注40)>・・・西田畔一済南総領事代理・・・も駐在武官も、すべては偶然ではなく蒋介石を失脚させるために国民革命軍内であらかじめ手はずが整えられていたとの印象を受けたということであった。

 (注40)「日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害された<(ここにも典拠が付されていない(太田))>が、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。・・・
 <なお、>日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6 上掲

 ・・・<ある>アメリカ人ジャーナリスト・・・<は、>戦闘を開始するつもりだったなら鉄条網や砂袋を撤去するはずはな<いし、>鉄条網や砂袋の防護なしに、3500の兵力で2万の相手に対し戦闘を開始するとは考えられな<いと、書いているし、>・・・たまたま済南イギリス総領事館に滞在していたイギリス上海防衛軍の・・・<ある>空軍大尉もアメリカの済南副領事も、事件の原因として中国軍の規律の緩さをあげていた。・・・
 日中の暫定的停戦は5月5日に成立した。蒋介石は治安維持のために約5000名の兵士を残して済南<城内>を去った。彼にとっては北伐の継続と自らの権力確立の方が重要であり、日本とのこれ以上の衝突は避けたかった。・・・
 敵対行為再開の非は日本側にあった。5月7日、・・・熊本<から派遣されていた>第六師団長福田彦助<(注41)>陸軍中将・・・は独断で過大な要求を、しかも12時間の回答期限付きで国民革命軍に突きつけた。その要求とは、責任ある高級武官の処罰、抗争軍隊の武装解除、済南の南北にある二つの軍事基地からの退去、済南および膠済鉄道沿線の両側20里の範囲内からの退去、および排日的宣伝の中止であった。・・・西田総領事代理はこの要求が外交の領域に属し、交渉は外交官が行うべきだと抗議した。しかし、福田は緊急の軍事的必要事であるとして最後通牒を発した。・・・

 (注41)1875〜1959年。幼年学校・陸士・陸大。ロシア(帝国)駐在武官補佐官、第一次世界大戦で観戦武官としてロシア軍に従軍、シベリア出兵時にシベリアで諜報活動に従事。1929年8月に予備役編入。子息は山岳俳人の福田蓼汀。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BD%A6%E5%8A%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E8%93%BC%E6%B1%80

 中国側からの満足な回答は、期限として設定された5月8日午前4時までに得られず、日本軍は同日午前7時に大規模な軍事行動を開始した。・・・11日、日本軍は済南<城内>を占領した。中国側の死者は約3500に達した。また9日、田中内閣は第三師団を名古屋から山東に派遣することを宣言した。<いわゆる第三次山東出兵である。>日本派遣軍の規模はついにイギリスの上海防衛軍を上回り、日本の済南占領はこの後約1年続くことになった。」(143〜147頁)

→後藤は、日本軍による「蔡特派交渉員」殺害の話や、「5月11日<の>日本軍<の>済南<城内>・・・占領<時に、>中国側によれば、・・・中国軍民に数千人の死者が出たとされる」話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
に全く触れないという「見識」を示す一方で、福田師団長を非難していますが、論理的一貫性のないこと夥しいものがあります。
 福田は、その経歴からして、帝国陸軍内の赤露通の最右翼の一人であるはずであり、南軍(蒋介石軍)の済南入城直後から城内外で「紛議が頻発」し、その実質翌日に南軍「兵士」による「日本人商店<の>略奪」が始まったのは、南軍内に潜む赤露系分子による、蒋介石と日本の離間を狙った謀略である、と見抜いていたのではないでしょうか。
 蒋介石自身も、同じ認識を抱いていなかったとすれば、その方が不思議です。
 少なくとも、蒋介石は、断固たる粛軍を行うとともに、再び日本軍、ひいては日本との間に衝突が起こらないよう、万全の措置を講じなければ、仮に北伐が形の上で成功したとしても、内外に敵を抱えた状態で権力を維持し続けることは困難であると考えなければならなかったというのに、済南に5000人もの兵士を残して、北伐に再び出発してしまったのですから、無茶苦茶です。
 せめて、福田の最後通牒に対し、蒋介石は、自分自身の将来のためにも、自ら真摯に対応しなければならなかったのです。
 それすら怠った蒋介石は、ここでも、済南をめぐって、一貫してスターリンの手先として行動した、という誹りを受けても致し方ありますまい。
 田中の蒋介石評価は甘過ぎた、と痛切に思います。(太田) 

(続く)