太田述正コラム#4980(2011.9.8)
<戦間期日英関係の軌跡(その15)>(2011.11.29公開)

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<脚注:蒋介石下野>

 --上海クーデター(プロローグ)--

 「1927年、・・・スターリンは・・・、ミハイル・ボロディンが<支那で>組織した織農工階層展開群衆運動、農民協会や土地委員会を、武装した権力組織に改組するよう<指示>した。・・・
 3月22日には、上海の労働者は、共産党の周恩来などの指導の下、2700人からなる工人糾察隊を組織し、警察や守備隊に対して攻撃を行い、上海に・・・上海特別市臨時政府・・・を成立させた・・・。・・・
 蒋介石など国民党右派は共産党員が国民党内部で日増しに膨張し、「党内党」になっており、<危機感を抱いていた>。・・・
 また、中国共産党の台頭に不安を抱く欧米や資本家の団体である上海総商会<・・その>中核<は宋三姉妹の宋家等の(太田)>浙江財閥<・・>は、3月26日に上海に入った蒋介石に対し、中国共産党<の>排除・・・を要求した。・・・
 4月6日、蒋介石は・・・右派団体「中華共進会」と「上海工界連合会」を組織し、上海総工会に対抗した。
 4月9日、蒋介石は・・・汪精衛率いる・・・武漢国民政府の容共政策を非難した。4月11日、蒋介石は各省に「一致して清党を実行せよ」と密令を出した。同日夜・・・上海総工会会長・・・を誘い出して生き埋めにした。
 4月12日夜明け、蒋介石の指揮を受けた「中華共進会」と「上海工界連合会」は上海の租界から出撃し、上海総工会糾察隊の駐屯<地各所>・・・を攻撃した。その後、蒋介石は・・・糾察隊<の>武装解除を強行し、300人余を殺傷した。
 翌4月13日、上海総工会は・・・蒋介石討伐を言明し・・・10万人余の労働者や学生が宝山路に行き、国民党第26軍第二師団・・・に請願したが、軍隊は群衆に掃射し、その場で100人余りが死に負傷者は数知れなかった。そして、蒋介石は上海特別市臨時政府、上海総工会及び共産党の組織一切全ての解散を命令し、共産党員及びその支持者を捜索し、1000人余を逮捕し、主要なメンバーは処刑された。15日には、300人余が殺され、500人余が逮捕され、5000人余が失踪した。・・・
 これより後に、地方で清党が開始された・・・広州・・・廈門、福州、寧波、南京、杭州、長沙等でも共産党員が殺害された。共産党員は「白色テロ」と称した。4月28日、北京では蒋介石とは戦争状態にあったはずの張作霖が李大,20人の共産党員を殺害した。
 この事件の後、武漢にて中国共産党と中国国民党左派は蒋介石討伐運動を発動し・・・、戦闘準備に入った。・・・
 4月18日、蒋介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府)と対立した(寧漢分裂)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC

 --蒋介石の下野(本編)--

 蒋介石は、武漢政府の幹部軍人達に対し、買収等を含む寝返り工作を密かに始めた。
 武漢政府当局は、その中心である湖南、湖北省を固めるのを怠り、また、後背地でかつ海への出入り口である広東省にいた李濟深(Li Jishen。1886〜1959年)(1947年に中国国民党革命委員会委員長、1949年に中共が成立した時の6人の国家副主席の1人となる。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Li_Jishen
を手なずけることにも失敗していた。
 武漢政府は、唐生智(Tang Shengzhi。1889〜1970年)(黄埔軍官学校卒。1937年の南京事件の時の南京防衛軍司令官)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tang_Shengzhi
率いる60,000人の軍勢を保有していたが、ボロディンは蒋介石に対抗するために、武漢政府に第二の北伐を行わせようとした。
 彼は、馮玉祥(Feng Yuxiang)や、独立独歩の山西省の軍閥、閻錫山(Yan Xishan。1883〜1960年)(陸士卒。台湾で朝鮮戦争が始まる数か月前に、朝鮮戦争の勃発とその帰趨を完璧に予言したことで有名。力作のウィキペディアだ。↓)
http://en.wikipedia.org/wiki/Yan_Xishan
と組むことを奨めた。
 そこで、武漢政府は、馮玉祥に巨額の賄賂を贈り、合同で北京を攻略し、その後南京を攻略する手はずを整えた。
 蒋介石は、機先を制し、自らの軍勢を北上させたが、孫傳芳(Sun Chuanfang)と山東省の軍閥、張宗昌(Zhang Zongchang)に行く手を遮られる。
 そこへ、山東省の日本人保護のために、田中義一内閣は第一次済南出兵を行うことになる。
 さて、武漢政府軍を率いた唐生智は北上し、馮玉祥は東行して北京の呉佩孚(Wu Peifu)を叩こうとした。
 呉配下の部隊の指揮官の多くは、武漢政府からカネが渡っていたために戦おうとせず、呉は大敗を喫した。
 唐は更に北上し、5月17日、満州軍閥の張作霖(Zhang Zuoli)と戦い、一旦は勝利したが、次いで大きな損害を受けてしまう。
 他方、蒋介石は、カネを渡していた夏斗寅(Xia Douyin。1884〜1951年)
http://www.generals.dk/general/Xia_Douyin/_/China.html
に、西から、残兵しか残っていなかった武漢を攻略させた。
 武漢の残兵の大部分は夏に内通していたが、武漢防衛軍司令官の共産党員、葉挺(Ye Ting。1896〜1946年)(国民党員としてソ連留学し、共産党員となる。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ye_Ting
は、周辺の共産党員が指揮官であった部隊を糾合して夏を撃退した。
 しかし、その2日後、武漢政府隷下の湖南省の省都、長沙(Changsha)の連隊が叛乱を起こし、共産党員と目される人々を多数逮捕し、処刑した。
 この頃、河南省北部で武漢の部隊は張作霖の部隊を潰走させたものの、14,000人もの死傷者を出して著しく弱体化したが、一緒に戦った馮玉祥の部隊は400人失っただけだった。
 一方、コミンテルンは、地主追放(agrarian revolution)を指示するとともに、中国共産党員は国民党左派との連携を維持しつつ武漢軍を赤軍(revolutionary army)に再編するよう指示した。
 しかし、国民党左派は地主追放にも赤軍への再編にも反対だった。
 そこで、コミンテルンの工作員のインド人、M・N・ロイ(Manabendra Nath Roy。1887〜1954年)(930年にインドに帰国後転向するが急進的左翼であり続ける。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Manabendra_Nath_Roy
は、どうしたらよいか、モスクワにお伺いをたてた。
 これに対してスターリンは、1927年6月1日、国民党の反動的指導者を処分して同党を乗っ取り、信頼できない軍幹部達を誅殺して、共産党員約2万人と革命的労働者約5万人で大赤軍をつくれ、そして地主を追放せよ、ただし小作人達が地主達に余りひどい仕打ちはしないようにせよ、と電報で指示してきた。
 これは、全く机上の空論の指示だった。
 ロイは、何とこの電報を汪精衛に見せてしまい、危機感を抱いた汪は、共産党員の武漢政府からの追放を決意する。
 汪らは馮玉祥のところにおもむき、河南省を馮に献呈することによって馮の支援の再取り付けを行うが、その2週間後、馮は蒋介石に会い、蒋から多額の賄賂をもらって転び、武漢政府に対し、ボロディン等の赤露外人達をソ連に帰らせ、共産党員を追放した上で、蒋の南京政府に合流せよ、という最後通牒を1927年6月21日に発した。
 コミンテルンは、7月13日、共産党員達に対し、武漢政府から退出せよ、ただし国民党員ではあり続けよ、と指示した。
 中国共産党のトップ(書記長)であった陳独秀(Chen Duxiu。1879〜1942年)(7年間日本に留学。辛亥革命及び五・四運動で活躍した後、1919年に共産主義と出会ってかぶれ、翌1920年、李大 Li Dazhao)らとともに中国共産党を創設。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Chen_Duxiu
は、この指示に呆れて辞任し、共産党員達は一斉に地下にくぐった。
 武漢政府は、7月16日、共産党員狩りを開始し、党員と目される者を手当たり次第に殺害した。
 孫文の未亡人の宋慶齢は、この動きを非難し、密かに上海経由でモスクワに亡命した。
 ロイやボロディン達も、逐次、支那を去って行った。
 この間、蒋介石の部隊は、孫傳芳と張宗昌の部隊相手に苦戦を続けており、結局、蒋介石は、南京に退却せざるをえなかった。
 8月、孫傳芳の部隊は南京と上海に迫った。
 部下の指揮官達の間で、蒋介石の統率能力に疑問の声があがり、また、共産党員を追放した武漢政府との合流を躊躇する姿勢にも不満が募った。
 そこで、1927年8月12日、蒋介石は下野した。
 その直後、孫傳芳の部隊は南京の東で揚子江を渡って南京と上海の交通路を遮断し、この動きと連携して、武漢政府の唐生智の部隊が南京攻略を目指した。
 これに対し、南京政府の部隊は、死に物狂いの抵抗を行い、6日間にわたる何千人もの死傷者を出した戦いにおいて起死回生の勝利をあげる。
 同部隊は、軍閥の孫傳芳と連携した、国民党の「裏切り者」たる唐の追跡を続けたところ、たまらず唐は日本に亡命する。
 その後、9月、武漢政府は南京政府に合流する。
 (以上、特に断っていない限り、下掲に拠る。)
http://bevinalexander.com/china/09-chiang-advances-reds-retreat.htm 前掲

 --その直後の中国共産党の動向(エピローグ)--

 「中国共産党は・・・、<1927年>8月7日、漢口で会議<を>開催<し>、・・・陳独秀ら<に代わって>・・・瞿秋白<(Qu Qiu bai。1899〜1935年)(1922年にモスクワで中国共産党入党。通訳として活躍。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%BF%E7%A7%8B%E7%99%BD
>らが指導者となり、中国国民党への武力闘争が決議された(八七会議)。会議に前後して、8月1日、朱徳<(Zhu De。1886〜1976年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BE%B3
>が率いる中国共産党と中国国民党左派は南昌で暴動を起こした(南昌起義)が失敗に終わった。また、毛沢東は1927年9月、湖南省と江西省の境界で少数の農民を率いて蜂起した(秋収起義)が失敗に終わり、その後井岡山を拠点に抵抗する端緒となった。」
 (以上、特に断っていない限り、下掲に拠る。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC 前掲
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