太田述正コラム#4962(2011.8.30)
<戦間期日英関係の軌跡(その6)>(2011.11.20公開)

 「反日から反英への転換にはいくつかの理由が考えられる。第一に、当時イギリスは中国における外国支配の象徴的存在で、・・・中国における日本の侵略、支配の歴史は、この時点ではイギリスに比べればまだ限られたものであり、その地位は低く、イギリスほどには目に付く資産を持ってはいなかった。・・・
 また、・・・共産党員やソヴィエト・・・は、イギリスこそが資本主義世界の頂点と考え<ていた。>・・・ソヴィエトは<その>イギリスが日本と結託して自らと中国革命に対抗することを恐れていた・・・。したがって、彼らにとって最良の戦術は、主要攻撃対象としてイギリスを孤立させ、資本主義陣営を分断することであった。・・・
 <ちなみに、>ソヴィエトに対するイギリス人の不信は強く、1924年末に本国の総選挙で労働党が保守党に敗れ政権を失った一因は、コミンテルンとの関係を疑われたことであった。」(59〜60頁)

→話は逆であり、赤露の方が支那侵略を企んでいたのであり、そのために、日英を分断し、各個撃破をして両国を支那から放逐しようとその機をうかがっていたわけです。
 五・三0事件と沙面事件は、その赤露が、満を持して日英分断に乗り出した証左である、と考えるべきなのです。
 さて、赤露が、1920年代半ばの時点で、なお英国が後藤の記すように「資本主義世界の頂点」である、と考えていたわけがありません。当然、赤露は、米国こそそうであると考えていたはずです。
 より重要なのは、その英国の軍事力が、東アジアにおいては、日本に比べてはるかに劣位にあることも赤露には分かっていたはずであるという点です。
 また、赤露は、その前身のロシア帝国の時に、1954〜56年のクリミア戦争で英国と戦って以来、英国とは干戈を交えていないのに対し、日本とは、20世紀に入ってから、ロシア帝国としてロシア戦争、赤露としてシベリア出兵、の2度、いずれも東アジアで戦っており、赤露は日本の方を英国に比べて、(少なくとも東アジアにおいては、)より大きな軍事的脅威である、と考えていたと思われます。
 従って、東アジアにおいて、分断した上で最初に叩くべきは、この2国の間では軍事的に相対的に弱い英国の方でなければならなかったはずです。
 しかも、後藤も記しているように、当時、世界の列強の中で、(米国は赤露に大甘であったところ、)英国は最も赤露に警戒心を抱いていたのに対し、日本の警戒心は米国とは比較にならないほど強かったものの、英国ほどではありませんでした。
 従って、英国を挑発すれば、英国は(正しく)これが赤露の仕業であると勘繰って過敏に反応し、事態を深刻化させるだろう、そして、それを見た日本は英国と一蓮托生になるのを極力避けようとするだろう、よって日英分断に成功するだろう、と赤露はふんでいたと思われるのです。(太田)

 「啓蒙思想家として名高い梁啓超<(注15)(コラム#1561、4946)>や北京政府の外交総長を務めていた顧維釣<(注16)(コラム#4956)>などを含む有力な中国人が、租界警察・・・租界警察を実際に動かしていたのはイギリス人だった・・・の発砲に対してのみ戦うべき、と主張していた。・・・<また、>6月26日に北京の日本公使館を訪問した北京政府元財政次長の賀徳霖<(注17)>は、中国人労働者が「運悪く負傷した後死亡した」<日本資本の>在華紡での単なる労働争議とイギリス人警察官による「横暴な」発砲との相違を強調した。・・・

 (注15)Liang Chichao。1873〜1929年。清朝を批判したため、1898〜1911年、日本に亡命。帰国後北京政府の司法総長、財務総長。1918〜20年、欧州使節団団長。1921〜29年、大学で教鞭、研究。思想上の変遷はあるが、開明専制論者にして反マルクス主義者に落ち着く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85
 (注16)Wellington Koo。1888〜1985年。1905〜12年、コロンビア大学に留学し国際法・外交博士号取得。北京政府に入り、「1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月〜1922年5月駐英公使となり、この間、1920年国際連盟中国首席代表、1921年〜1922年ワシントン会議全権代表・・・。1922年〜1923年外交総長、1924年代総理(国務総理代行)兼外交総長。1924年7月ソ連代表レフ・カラハンと中ソ協定に調印、ソ連との国交樹立、大使の交換、帝政ロシア時代の不平等条約撤廃に合意した。・・・1928年国民革命軍による北京占領後、南京国民政府から逮捕命令が出されたため、フランス、カナダへ逃亡。1929年張学良の仲介によって東北に帰国し、1930年冬逮捕命令を取り消される。1931年張学良の勢力を代表して<蒋介石の>国民政府に参加し、外交部長に任ぜられた。1932年・・・リットン調査団に対し中国側代表として、日本の東北侵略の違法性を訴えた。・・・1936年〜1941年駐仏大使・・・1941年〜1946年駐英大使・・・、その間、・・・サンフランシスコ会議中国代表を務め、国際連合の創設に協力した。また1945年には国民党六全大会で中央執行委員に選出・・・。1946年駐米大使・・・。1956年台湾総統府資政、その後1957年〜1967年国際司法裁判所判事・・・。1967年に引退してニューヨークに移住・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%B6%AD%E9%88%9E
 (注17)出生・死去不詳。東大法卒。北京政府に入り、1923年財政総長署理・財政次長、1925年、馮玉祥の財政顧問。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%BE%B3%E9%9C%96

 <この>元財政次長による日本公使館訪問も、列強の分断を目的としていたようである。彼は、中国人のイギリスに対する反感は増大しつつあり、識者は日本に好意を持っているのだから、日本がイギリスを支持して中国人の憎悪の対象となるのは得策でないと忠告した。さらに、ゼネストとボイコットを遂行するには十分な資金が必要であった。最適の攻撃対象を選ぶ必要があり、この時期には、それがイギリスだった。
 結果としてイギリスは大いに苦しむこととなった。イギリスの・・・商務官は「イギリス船舶からの、あるいはイギリス企業が取り扱う輸入貨物の動きはほとんど停止した」と報告した。中国の貿易に占めるイギリスのシェアは4割超から3割にまで低下した。・・・反英ボイコットと、日本や中国との競争の結果として、イギリス綿布の輸入は1924年の実績から半減したのである。」(61頁)

→梁啓超は、その経歴や思想傾向、更には1925年当時、自由な立場であったことから、「分断」発言は彼の善意に基づく本心であったと思われますが、賀徳霖の「分断」発言は、当時の馮玉祥(コラム#4502、4946)との密接な関係からすると、後藤自身が巧まずして示唆していると私には読めたのですが、赤露の意向を受けてのものであったと思われます。
 顧維釣は、後の張学良との密接な関係から、仮に張学良が本当に中国共産党の秘密党員であった(コラム#4950)とすれば、張の信任の厚かった顧維釣自身が赤露に甘いか容共的人物であった可能性があるわけであり、1925年当時の彼の「分断」発言は、赤露の(少なくとも間接的)意向を受けてのものであった可能性が否定できません。
 もとより、梁啓超のような善意の「分断」発言が出てくるであろうことも、赤露は計算済みであった、と考えることさえできるわけです。(太田)

(続く)