太田述正コラム#4960(2011.8.29)
<戦間期日英関係の軌跡(その5)>(2011.11.19公開)

 「国民党・・・の指導者孫文は1923年、広州に比較的安定した政府を作ることに成功した。その第一の目標は不平等条約の撤廃であった。・・・1924年1月には、孫文とソ連からの顧問ミハイル・ボロジン<(コラム#4940、4944、4946)>の敷いた路線に沿って・・・共産党員は国民党に受け入れられた。一方、イギリスをはじめとする諸国が証人・交渉する中国の中央政府は依然として北京政府であった。こちらも修約外交を掲げて不平等条約の撤廃をめざし、また、1924年5月には、ソ連と国交樹立協定を締結していた。」(55頁)

→赤露は、1924年から支那に全面攻勢をかけ始めており、中国国民党の赤露フロント化に成功していた、ということです。そして、上海等の外国資本の工場等に、鋭意、赤露細胞を送り込んで行ったと思われるのです。(太田)

 「1925年2月、内外綿は共産主義的傾向があると考えた数名の労働者を解雇した。これに抗議して他の労働者たちがストライキを起こし、争議は日本資本の他の6工場にも飛び火した。日本人監督は殴打され、工場の設備は破壊された。2月15日には、豊田紡績が襲撃され、日本人一人が胸部を撃たれた。また数名が殴られた上、蘇州河に投げ込まれ、そのうち一人は死亡した。
 <3月12日には孫文が北京で亡くなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87 >
 2月末までに事態は沈静化したが、5月になると、また内外綿で問題が起こった。労働者の解雇によって一つの工場でストライキが起こると、会社側は、その工場とそこから原糸の供給を受けていたもう一つの工場を閉鎖した。5月15日、日給の支払いを要求する中国人労働者と、2名のシーク教徒の共同租界警察官に支援された日本人の間に衝突が起こり、<1人の>労働者が死亡した。5月30日、中国人は<彼>のために追悼集会を開き、彼の死に対する補償を求めるとともに日貨排斥を提唱した。デモをする群衆が目抜き通りである南京路に繰り出し、租界警察署へと接近した。どちらが先に攻撃を仕掛け何人の犠牲者が出たのかについて史料は一致していない。しかし、イギリス人・・・警部・・・指揮下の租界警察は発砲し、少なくとも4人の死者と9人の負傷者を出した。
 ・・・五・三0事件<である。>・・・
 上海の中国人社会はこの流血の惨事に激怒し、5月31日の総商会の会合で翌6月1日からゼネストにはいることが決定された。6月4〜5日には、租界の発電所に雇われていた1300人もストに参加した。8日には海員組合も参加し、埠頭の労働者たちも外国製品の取り扱いを拒否したので、多数の会社が荷物の取り扱いを他の港に移さなければならなかった。10日までには外国人所有の107の工場で13万人の労働者がストをしていた。日本、イギリス資本のほとんどすべての紡績工場は操業停止に追い込まれた。」(55、57〜58頁)
→後藤は、内外綿が「数名の労働者」のいかなる言動を「共産主義的傾向」があると見なし、いかなるタテマエ上、ホンネ上の理由から解雇したのかを記していませんが、この工場の赤露の細胞が、上からの指示で、内外綿なら解雇で対応することが予想される言動をあえて行った、と見るのが自然だと思います。
 争議が他の日本資本の工場に飛び火したこと、暴力行為や破壊行為が行われたこと、とりわけ日本人監督に対し殺人の未必の故意的暴行傷害が行われたことも、ことごとく赤露の陰謀計画に則って行われたものである、と見るべきでしょう。
 ところが、それでも争議が沈静化してしまったので、3か月後に、内外綿で、この工場に残された赤露細胞が、またも当局から解雇されることを予期した言動を行う・・これについても、後藤は何ら具体的説明を行っていません・・と、今回も内外綿は解雇で応えてくれ、争議を再燃することに成功しただけでなく、内外綿がそれに加えて過剰とも言える対応を行ってくれたことで、もともとの狙いであったところの、共同租界当局の巻き込みに成功し、当局の手による支那人労働者1人の死亡という「成果」を勝ち取ります。
 当局が過剰対応をするであろうことも(後述する事情から)赤露は予想し期待していたと私は思います。
 待ち望んでいたこの機を逃さず、赤露は、ただちに街頭行動を組織し、今度は、当局の手による支那人労働者4人の殺害という決定的「大成果」をあげるのです。
 後藤は、支那人が1人殺害された事件については、いかなる状況で起こったかを記していない一方で、4人殺害された事件の方は、いかなる状況で起こったかについて史料が一致していないと記していますが、どちらも赤露の細胞自ら、或いは赤露の細胞の扇動に踊らされたその他の支那人、が先に手を出し、(後述する事情から、)当局側が発砲という形でこれに対応した、という可能性が大だと思います。
 後は騒ぎが雪だるま式にどんどん大きくなって行き、上海総商会内と海員組合内の赤露細胞がほんの少し煽り立てるだけで、上海の外国資本の工場のほとんど全てがマヒ状態に陥るわけです。(太田)

 「事件は<日本資本の>在華紡から始まったのだが、早くも6月3日にはイギリスを攻撃の主対象とする傾向が現れた。この日、上海総商会は、中国世論がこの闘争を第一に中英間のものと考えていると共同租界参事会に伝えた。翌4日、・・・上海総商会・・・<は>上海駐在日本総領事・・・に、中国側は内外綿の労使紛争を租界警察による発砲事件とは別に取り扱う用意があると伝えた。・・・12日には国民対英対日外交大会がイギリスはアヘン戦争以来の敵であると宣言した。
 五・三0事件の後、中国各地でデモ、ストライキ、外国との衝突が起こったが、中でも最大の死傷者を出したのが、6月23日、広州沙面の外国租界を約5万人の中国人がデモ行進した際の発砲事件である。何が起こったのか、どちらが先に発砲したのか正確なことはわからないままである。中国人が外国租界に対して行動を起こすという噂が広まっていたために沙面の外国人は警戒を強めていた。恐らく偶然の発砲がきっかけとなったのであろうが、結果として、少なくとも52人の中国人とフランスの民間人1人が死亡し、117人の中国人と外国租界の8人が負傷した。この沙面事件<(注13)>によって、国民<党>政府のあった広州を基地として非常に激しいストライキ、反英ボイコットが始まった。・・・16ヵ月近くの間、中国南部におけるイギリスの貿易は麻痺状態に陥った。沙面事件にはフランス人もイギリス人と同様に深くかかわっていた<(注14)>が、フランスを糾弾する声は強くなかった。この事件によってさらに強まったのは中国全土における反英運動だけであった。」(58〜59頁)

 (注13)「広東租界で英・仏の陸戦隊と10万人のデモ隊が衝突した」
http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_d_2.html
 後藤は、「中国人」が何と衝突したかを記していない。
 (注14)注13参照。なお、広州にはイギリス租界(1861〜1942年)とフランス租界(同左)があった。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokai.html
 このことにも後藤は触れていない。いきなり、「フランス人も・・・深くかかわっていた」と言われても、一般読者はとまどうばかりであろう。

→後藤は、この沙面事件がどういう状況で起こったのか分からない、と書いていますが、英仏の陸戦隊が一方の当事者であったことに触れていないのではどうしようもありません。
 なお、軍隊は、交戦した際には、その時の状況を記録し、上級部隊に報告するのが普通であり、英仏のどちらの陸戦隊の記録も失われてしまったとは考えにくい以上、両陸戦隊自身、どういう状況で交戦が起こったのか、理解できなかったということではないかと思われます。
 これは、思うに、赤露の広州細胞のイニシアティブによって、支那人側から唐突に挑発的発砲があり、これに英仏側が応戦した、ということだったのではないでしょうか。
 ここで重要なのは、赤露は日本を騒擾のきっかけとしては使ったけれど、日本(やフランス)と英国とを分断し、騒擾化した後は、その標的をもっぱら英国だけに絞ったという点であり、これは、「帝国主義」列強を分断することによって、各個撃破する、という赤露の戦略に則った巧妙な動きであった、と解すべきでしょう。
 なお、赤露の(1920年時点に策定した)支那侵略戦略は、日本を主標的にし、その手段として日米間の離間を図るというものでした(コラム#4938)が、1925年時点では、英国が日米に比べて支那において脆弱であるにもかかわらず、日米よりも大きな利権にしがみついていることに目をつけ、まず、英国に標的を定めた、ということだったのであろうと考えます。(太田)

(続く)