太田述正コラム#4944(2011.8.21)
<赤露による支那侵略(その3)>(2011.11.11公開)

 「1924年10月から1925年末まで、中国では二つの大事件が発生した。(「北京政変」<(注10)>と「五・三0運動」<(コラム#4534、4608)>)。そのため、ソ連・コミンテルンの対中国政策も急変したが、その中心は軍事力によって「北京政府を瓦解させ」、国民党員・[馮玉祥<コラム4502、4510、4608)>]国民軍代表の参加した親ソ的中央政府を北京に樹立しようと願ったことである。・・・

 (注10)「第二次奉直戦争<(コラム#4502、4608)>の最中に1924年10月23日に直隷派軍閥の馮玉祥によって中華民国の首都北京で起こされたクーデター・・・。・・・1924年9月、第二次奉直戦争が起き、馮玉祥は「討逆軍」第三軍総司令に任命され<たが、>・・・部隊を率いて北京に帰還し、総統府を包囲し、直隷派によって掌握されている北京政府に停戦と呉佩孚の職務の解除を命令するよう迫り、総統の曹錕を監禁し、「国民軍」の成立を宣言した。政変後、馮玉祥は帝号を廃し旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を紫禁城から追い出した。また、孫文の北上を求め、奉天派と協議し段祺瑞を北京に迎え入れ中華民国執政にした。孫文は北京に入った後1925年3月12日に病没した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%A4%89
 
 1924年10月23日、馮玉祥の「北京政変」の成功後、孫文は新たな情勢に対応して北上を行なったが、実はこれはボロジンとカラハン<(注11)>の意見に従った結果であった。・・・

 (注11)レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Lev Mikhailovich Karakhan。1889〜1937年)。アルメニア人。「カラハンは・・・1923年〜1926年に中国大使として派遣され・・・た。駐中大使期間中の1925年には、日本・・・との間で日ソ基本条約を締結した。・・・大粛清<により、>・・・1937年・・・処刑された。・・・<ちなみに、>カラハン宣言<とは、彼の>外務人民委員代理時代の1919年7月、ソヴィエト政権の対中基本政策として発表された宣言。ロシア革命直後のレーニンによる宣言の趣旨を継承し、ロシア帝国が清朝と結び、中華民国が継承した北京条約などの不平等条約の即時・無条件撤廃を表明した。これはモンゴル問題などでソヴィエト政権と対立する中国の北京政府を揺さぶり、反帝国主義運動を支持する中国民衆にソヴィエト政権や共産主義への支持・共鳴を広げた。その後、カラハン宣言は修正され、ソヴィエト政権にとっても重要な北満鉄道(旧東清鉄道)の利権は保持した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%B3

 孫文の逝去と「五・三0運動」を指標とする中国革命運動の高潮に対して、ソ連・コミンテルンの対中国工作の重点は<孫文の>国民党と<北京政府の>国民軍を結び付けることにあった。1925年3月19日、ロシア共産党中央政治局は特に「中国委員会」を設け、政治局委員、陸海軍人民委員のフルンゼ<(注12)>将軍を委員長とし、外務人民委員チチェリン、コミンテルン東方部主任のラスコリニコフ(代理ヴォイチンスキーと)らの要人をメンバーとした。・・・重要な人事と財務以外については、同委員会で一致決定した決議は・・・党政治局の再承認を要しないと・・・規定された。

 (注12)ミハイル・ヴァシーリエヴィチ・フルンゼ(Mikhail Vasilyevich Frunze。1885〜1925年)。白軍との内戦において活躍。1925年1月には陸海軍人民委員・革命軍事会議議長となったが、10月、手術中に死亡。ソ連時代に最高の軍事学校であったフルンゼ軍事大学の名称も彼を記念したもの。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%BC

 1925年4月17日、中国委員会は、・・・「中国の軍事工作全体を指導するために、北京にソ連全権代表カラハン同志を主席、軍事指導者ゲッケル同志と軍政工作指導者ヴォローニン同志をメンバーとする中核を設ける」ことを決定した。・・・
 特に注目すべきことは、ちょうど中国の五・三0運動の高潮期に、1925年6月25日開催の党中央政治局会議はスターリンの以下のような提案を可決したことである。
一、「ボイコット、局部的及びゼネラル・ストライキ、特に鉄道ゼネストの形を取った革命運動をできるだけ推進し、危機激化を恐れないこと」。
二、必要なときには「馮玉祥軍及び国民党軍によって現政府を倒し、国民党員の参加した新政府を樹立すること」。
三、ソ連側要人が「口頭でも新聞雑誌に発表する言論においても、決してコミンテルン・ソ連及び露共の現在の中国革命運動における役割を誇示しないこと。」・・・
 中国委員会の会議記録によれば、ソ連側の国民軍への軍事援助<と>・・・国民党への軍事援助<の>・・・両者は往々にして同時に検討、討議、決定されていた。・・・露共政治局の1925年10月22日の会議の決議には、「中国委員会の、中国への1554万1584ルーブル58コペイカ支出の提案を受諾し」「最短期間内に中国に武器を提供すること」、と・・・記されている。
 ・・・以上から二つの点については確認できるであろう。
一、当時ソ連側とコミンテルンの要人はこの問題の内情について議論するとき、何等隠すことなく「転覆計画」と称していた。
二、この計画の中核は、望むらくは北京に「馮玉祥軍、国民党員及びその他様々な穏健派の参加した連合政府」を樹立すること、すなわち親ソ的中央政権の成立であったことである!
 周知のように、国民軍の北方での敗北<(注13)>によりソ連の計画は実現しえなかった。1926年以降、ソ連・コミンテルンの対中国政策は広東の国民党支持を中心とする国民革命の道に転換していったのであった。」(165〜167頁)

 (注13)「1925年末に馮玉祥は反奉戦争に加わって、1926年4月9日に再びクーデターを起こし段祺瑞を追放したが、すぐに奉天派に攻撃され敗北し、4月15日に北京から西方郊外の昌平南口鎮に撤退し、1926年5月18日奉天派の張作霖と直隷派の吳佩孚が連合して南口に侵攻した。馮の率いる国民軍は南口を3か月にわたって守り抜き、8月15日に包頭五原方面に撤退した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%A4%89 前掲
 より詳しくは、以下を参照のこと。
 「段祺瑞<は、>・・・1924年、張作霖の支持を受けて北京における臨時政府の執政に就任。以後は反日運動を行なう学生らを弾圧するなど(三・一八虐殺事件)したが、これが原因で1926年、政府内から反発を受けて再び下野を余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B5%E7%A5%BA%E7%91%9E
 「<1924年10月の北京政変で>北京を追われた呉佩孚は反撃を謀り・・・張作霖<等>とも連合して、いわゆる「討赤聯軍」<(=共産主義者を討伐する連合軍!(太田))>を組織し、馮に対する包囲網を形成した。馮もこれに対抗して、張作霖の方針に不満を抱いていた奉天派有力幹部の郭松齢と連携している。<1925年>11月23日、郭は反張作霖の蜂起を行<っ>・・・た。しかし関東軍の支援を受けた張作霖の反撃に敗北し、郭は処刑された。この不利な状況を受けて馮玉祥は翌1926年・・・1月に下野し、・・・3月、馮は・・・ソビエト連邦へ軍事視察に赴いた。ソ連へ赴く途中のウランバートル(庫倫)において、馮は・・・ソ連顧問のミハイル・ボロディンと討議し、モスクワ到着<後>の5月10日に中国国民党加入を宣言している。その後、3か月間ソ連に滞在し、ソ連からの支援獲得も取り付けた。一方、馮玉祥離脱後の<国民>軍は、・・・4月から8月まで要衝の南口に拠り、北方各派連合軍相手に善戦した(南口大戦)。最終的に・・・敗北して綏遠方面に撤退したものの、この戦いは北伐を開始した国民革命軍への側面支援とな<った>。その後、五原に駐留していた<国民>軍の下に馮玉祥は復帰し、9月17日・・・全軍の国民党加入を宣言した。これがいわゆる「五原誓師」である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5

→赤露は、1924年の段階で、既に、赤露による支那の支配と、それと表裏一体の関係にあるところの、日本の支那からの放逐を目指す、東アジアに対する全面的間接侵略を開始していた、ということです。
 彼らが「中国革命運動における役割を誇示しない」こととしたとはいえ、赤露によるこの間接侵略を、英国も帝国陸軍も、ほぼ正確に把握していました。しかし、幣原は、これに対する反攻戦略を発動することを拒み続け(コラム#4510、4608等)、その結果、(帝国陸軍(関東軍)の一貫した「親日」張作霖梃入れ工作(注14)のおかげもあって)この時点で北京に親ソの支那統一政権を樹立することにこそ失敗したけれど、爾後、)赤露のほぼ意図通りに事態が進行することとなるとともに、日本と英国の関係も悪化することとなった(コラム#省略)わけです。(太田)

 (注14)「日露戦争が勃発<すると、>東三省<(満州)の>・・・馬賊の頭目<であった>・・・張はロシア側のスパイとして活動し・・・帝国陸軍に捕縛されたが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。その後は日本側のスパイとしてロシア<軍>・・・の多くの情報を伝えた。・・・東三省での権益拡大を目論む日本とも協力関係を取り付け<つつ、>・・・1919年には・・・東三省全域を勢力圏に置き、・・・彼の率いる勢力は本拠地とした都市の名を採って奉天派と呼ばれ<るようになった。>・・・その後・・・中国内地に勢力を伸ばし、<1920年の>安直戦争では直隷派に味方する形で介入した。両軍は安徽派の駆逐に成功するものの、日本を背後に持つ張作霖率いる奉天派と、英米を背景に持つ呉佩孚ら直隷派は・・・<1922年の第一次と24年の第二次の>奉直戦争<を>戦<う・・前者では敗北、後者では勝利する・・ことになる>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96
 ・安直戦争   :安徽派の段祺瑞(反孫文)v.直隷派の曹錕と呉佩孚、それに奉天派の張作霖
 ・第一次奉直戦争:奉天派の張作霖(これに孫文が連携)と安徽派の段祺瑞 v.直隷派の曹錕と呉佩孚
 ・第二次奉直戦争:奉天派の張作霖と安徽派の段祺瑞、それに直隷派の馮玉祥(馮は直隷派だったが途中で奉天派に寝返る。彼は孫文とも連携) v.直隷派の曹錕と呉佩孚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%9B%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E7%9B%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
 第一次奉直戦争の時の孫文の連携は遠交近攻策、第二次奉直戦争の時の孫文の連携は同志としてのもの、と解すべきだろう。

(続く)