太田述正コラム#4940(2011.8.19)
<赤露による支那侵略(その2)>(2011.11.9公開)

 「ヨッフェの、孫文はそう遠くない将来、実質的に「全中国の統治者」となるだろう、「孫文及び国民党はわれわれの思想的影響下にある」、国民党は「確かに中国の大衆的政党となっている」といった判断<に基づき、>・・・1923年1月4日、<露共>党<中央>政治局会議は、「ヨッフェ同志の国民党を全力で支持する政策に同意するという外務人民委員部<(=ソ連外務省(太田))>提案を採択する」旨決定した。・・・<これを受け、>コミンテルンは中共党員に個人の資格で「革命的民族主義政党」である中国国民党に加入させることを決定した・・・。
 <また、>3月8日、露共中央政治局<は>・・・ヨッフェによる孫文への200万金ルーブル援助の提案を承認した・・・。」(158頁)

→孫文の私党たる中国国民党は、事実上、カネも武器(注6参照)も赤露丸抱えの共産党フロント政党として出発した、ということです。(太田)

 「改組後の中国国民党第一次全国大会で、孫文が三民主義に与えた新解釈(中国の研究者の言う「新三民主義」)・・・<は、>最新の露文文書によれば、・・・実際はコミンテルン執行委員会主席団が1923年11月28日に行なった「中国民族解放運動と国民党問題に関する決議」の観点と内容を相当吸収したものである。<これと>「中国国民党第一次全国代表大会宣言」における「国民党の主義」の部分・・・の関連部分とを対照すると、一部の点を除いてその主要な内容は基本的観点から具体的字句表現に至るまできわめて類似、または一致して<いる>・・・。・・・
 この過程で、もう一つ、重要な要因がある。すなわち、孫文の政治顧問であり国民党一全大会の重要文献の起草に参与したボロジン<(注6)>が、三民主義思想の解釈など国民党一全大会の基調確定にはたした役割である。最新の露文文書によれば、ボロジンは・・・「孫文なくして国民党の改組は考えられない」<との認識の下、>・・・「彼の左傾、彼の威信、彼の党建設の願望を利用すべきだ」と<するとともに、>・・・国民党内の中共党員をして同宣言に一致賛成の態度をとらせることに成功した。・・・

 (注6)Mikhail Markovich Borodin。1884〜1951年。現在のベラルス出身。ロシア革命以前に米国に居住したことあり。1923年から27年まで支那でコミンテルンのエージェント。ソ連の武器を広東の国民党政府に船で運ぶことに携わる。シベリアの収容所で死亡。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Borodin

 <こうして、>孫文らは明確に・・・「今や模範とすべきロシアの方法があり、全くすべてそのやり方を模倣できないとしても、その精神を模倣するべきである。」と何度も論じ<るに至り、>・・・西洋型政党モデルでも、まして伝統的会党<(注7)>モデルでもなく、ソビエト型の新しい政党モデルを指向し、国民党を「ロシアの革命党と同様の」・・・民主集中制の原則に従<う>・・・革命政党に組織しようと努めた。・・・

 (注7)「清末に生まれた反清秘密結社'哥老会''三合会'<(コラム#4908)>などの総称」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/11172/m0u/%E4%BC%9A/

 国民党と国家権力との関係についても、孫文は以前主張していた欧米型の「以党治国」を棄ててソビエト・ロシア型の「以党治国」に転じた。彼は、党・政関係に関してロシア型と欧米型が大きく相違するのは、前者が「党を国の上に置き」、「より強く権力を掌握していること」であると考えた。・・・
 このほか、孫文は、・・・「党の主義」のために奮闘し得る「党軍」の建設の必要性・重要性を確信するに至ったが、最新の資料によると、これは<ボロジン>・・・に啓発されたことに起因する。ボロジンは1923年12月10日付けの広東の情況に関する手記において・・・「私は彼にわが軍隊の情況を話し、我々の勝利の基本的要因である政治工作制度にその注意を向けた。この工作について私が詳しく説明すると、孫文は直ちに言った。『これは我々にはない。我々もそうしなければならない!』」・・・蒋介石ら「孫逸仙博士代表団」のロシアでの任務<(コラム#4934、4936)>の一つはソビエト赤軍の政治工作制度を視察することであった。その後、国民党の「党軍」幹部養成のためにソ連の援助により設立された黄埔軍官学校<(注8)>が、まず軍隊の組織体制上、確立したのはソビエト赤軍に倣って党代表制と体系的な政治工作制度を実施することであり、各級の政治工作要員はすべて国民党員が担当したのであった。

 (注8)[Whampoa Military Academy=中國國民党陸軍軍官學校=The Nationalist Party of China Army Officer Academy]。「中華民国大総統の孫文が1924年[5月1日]に広州・・・の長洲島にある黄埔・・・に設立した中華民国陸軍の士官養成学校・・・当時は第一次国共合作が行われていたため、中国国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校した。・・・蒋介石[Chiang Kai-shek]が校長、・・・[汪精衛(Wang Ching-wei=Wang Jingwei)→汪兆銘(Wang Zhaoming)が政治部教官を務め、]共産党員の中からも葉剣英<(Ye Jianying)>が教授部副主任、周恩来[Zhou Enlai]が政治部副主任に就任した。 毛沢東も、面接試験官であった。・・・林彪[Lin Biao]、彭徳懐<(Peng Dehuai)>もこの学校の出身者である。・・・最初の教員はソ連から来た者が多く、ヴァシーリー・ブリュヘル[Vasily Blyukher。1889〜1938年(拷問死または処刑)。後、ソ連極東軍司令官・元帥]など赤軍の指揮官もいた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%9F%94%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 (ただし、[]内は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Whampoa_Military_Academy
http://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blyukher
http://en.wikipedia.org/wiki/Wang_Ching-wei

 1924年2月16日、孫文はソ連外務人民委員チチェリン<(注9)>宛の書簡で、・・・「われわれは将来、新たな国家観念、新たな管理制度の確立の面で貴党がロシアで行なったことすべてを中国でも行ないたいと望んでいます」と・・・述べ<ている>。」(160〜164頁)

 (注9)ゲオルギー・ワシリエヴィッチ・チチェーリン(Georgii Vasil'evich Chicherin。1872〜1936年)。「ソビエト連邦の政治家、外交官。1918年から1930年まで外務人民委員(外務大臣)を務めた。・・・貴族の家に生まれる。・・・
 1917年ロシア革命(二月革命)の時にはイギリスにいて、反戦運動に取り組むが、イギリス当局に逮捕・拘束される。しかし、十月革命によってレーニンを首班とするソビエト政権が樹立。外務人民委員(外相)に就任したトロツキー<(Lev Trotsky)>は、英国政府に対し、チチェーリン釈放を要求し、1918年1月にイギリスの駐露大使と交換の形で釈放され、帰国する。
 帰国したチチェーリンは、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党し、直ちにブレスト・リトフスク講和会議に派遣される。ブレスト・リトフスクでは、レーニンの指令に従って、「条文を読まずに」早期に講和条約に調印した。5月トロツキーの後任として、外務人民委員となる。外相就任当初の最大の課題は、シベリア出兵問題であったが、極東共和国を緩衝国家として日ソの衝突を避ける方策を採った。・・・チチェーリンはドイツ外相ヴァルター・ラーテナウ<(Walther Rathenau)>との間に秘密交渉を展開し、<1922年に>ラパロ<(ラパッロ=Rapallo)>条約を電撃的に締結し、世界中を驚愕させた。・・・1930年7月に健康上の理由で、外相を解任され、後任の外相には外務次官のマクシム・リトヴィノフ<(Maxim Litvinov)>が就任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3

→基本的に新しい話は出てきていませんが、10年少し前の時点で新しくアクセス可能となった典拠に基づき、従来の通説が、より生々しい形で裏付けられていることは印象的です。
 孫文自身は、自分の私党たる中国国民党を、会党的発想を乗り越え、共産党的な党・・いや共産党そのものと言った方がより的確でしょう・・にするつもりだったのでしょうが、「終末論・太平天国・白蓮教」シリーズ(コラム#4898以下)で記したところの(会党の代表格たる)三合会にも受け継がれていたところの、支那における白蓮教等の伝統的な終末論/千年王国思想の呪縛からついに逃れられず、欧州発の最新の終末論/千年王国思想であった共産主義に、赤露の手先によって、いとも簡単に洗脳されてしまったわけです。(太田)

(続く)