太田述正コラム#4938(2011.8.18)
<赤露による支那侵略(その1)>(2011.11.8公開)

1 始めに

 XXXXさん提供の資料に基づくシリーズの実質的に続きのシリーズをお送りします。
 今回の資料は、既に(コラム#4934の注で)登場したところの、中央大学人文科学研究所編『研究叢書21 民国前期中国と東アジアの変動』(中央大学出版部 1999年 の第4章「1920年代前半期ソ連・コミンテルンの対中国政策」、に加えて、同じ本の第5章の「中国人のソ連留学とその遺産--モスクワ孫文大学(1925〜30年)を中心に--」の二つです。
 このシリーズに、なんとも毒々しいタイトルをつけたものだと思われたかもしれませんが、「支那」については、何度も説明しているので改めての説明は省くとして、第4章のタイトル中の「ソ連・コミンテルン」を「赤露」と言い換えただけのことです。
 戦前の日本人の造語能力に敬意を表したいですね。

2 「1920年代前半期ソ連・コミンテルンの対中国政策」より

 この論文は、土田哲夫(東大教養学科1982年卒、東大で博士課程単位取得退学、学芸大を経て、現在中央大経済学部教授)
http://ir.c.chuo-u.ac.jp/researcher/profile/00016209.html
執筆です。
 これは10年以上も前に上梓されたものですが、やはり、最初の方に、「近年・・・モスクワで・・・膨大な機密文書<が>公開<されている。>・・・本稿では最新のロシア語文書に依拠し<た>・・・。」とあるので、読む意欲がそそられました。
 (なお、論文末尾に「王 永祥訳」とありますが、まさか、外国語で書かれた論文ではないのでしょうから、典拠たるロシア語や漢語文献の読解で土田を助けたということでしょうが、それがロシア語だったのか漢語だったのか、ロシア語だったとして、それがロシア語→日本語だったのかロシア語→漢語だったのか、がちょっと気になりました。)
 
 「コミンテルンは1920年3月、成立一周年の時から東方に目を向けるようになった。・・・<その>中国への政策は、・・・第一は、共産主義組織の建設であり、第二は・・・民族解放運動の支援である。・・・
 20年9月1日露共極東局<(the Soviet Union's Far Eastern Bureau)>ウラジオストク処責任者のヴィレンンスキー・シビリャーコフ<(注1)>の・・・報告は、・・・すべての可能な手段をもって日米中三国の利益の衝突を激化する。中国・モンゴル・朝鮮の広大な人民大衆が外国資本家の圧迫から脱却するべく意識的行動を引き起こす。中国・朝鮮の革命家と確固たる連繋を樹立すべく努め、宣伝・扇動工作を強化する。中国人・朝鮮人がゲリラ部隊を組織するよう積極的に支援する。

 (注1)Vladimir D. Vilensky-Sibiriakov。1888〜1942年。1936年に党から追放され、シベリアの収容所で死んだとされるが、その数年前に粛清で処刑されていた可能性もある。
http://books.google.co.jp/books?id=Pun07YW3t7sC&pg=PA222&lpg=PA222&dq=Vilensky+Sibiriakov&source=bl&ots=MzhoHcRz2q&sig=_OSTr6E8Dlp0PCnngqLb87_dS8I&hl=ja&ei=VQhNTtiSMInPmAWw1NHcBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CCoQ6AEwAw#v=onepage&q=Vilensky%20Sibiriakov&f=false

 露共極東局と同年5月に中国・上海で成立したコミンテルン東アジア書記局<(Comintern's East Asia Secretariat)>(ヴィレンスキーが臨時執行局主席)は、・・・できるだけ広大な勤労人民を吸収して共産党組織に参加させる。主要なスローガンは、「みんな日本帝国主義と闘おう!」であった。」(152〜153頁)

→要するに、赤露は、支那で、中国共産党をつくる、そのフロント組織(国民党)もつくる、ナショナリズムを煽り立て、その主たる標的を日本に定める、その日本と米国を衝突させることで最終的に支那を支配下に置く、という支那侵略計画を、1920年に立てたというわけですが、我々は、彼らが、そのすべてに成功し、29年後の1949年に支那が全面的に赤露の支配下に入ったことを知っています。
 日米側・・自由民主主義側とあえて言いたい・・がこのような惨敗を喫したのが、もっぱら愚かな米国のせいであったことも我々は知っています。
 それにしても、1920年の段階で、既に大英帝国の瓦解を見越していたのか、英国に全く言及していないとは、赤露の国際情勢分析能力には敬服せざるをえません。(太田)

 「1920年7、8月に行なわれたコミンテルン第2回大会は、ソビエト・ロシアと全ての民族解放運動、全ての植民地解放運動との「最も密接な同盟」形成の戦略を提起した。中国でもこの戦略実施のため、・・・コミンテルンの中国派遣代表マーリン<(=マーリング(コラム#4936))(注2)>、ヴォイチンスキー<(注3)>や、ソビエト政府の中国派遣外交官のヨッフェ<(コラム#228、4498、4934、4936)(注4)>等は、いずれもこの使命を担い、それぞれ「進歩的将軍」呉佩孚<(ごはいふ)(コラム#4500、4502、4608)(注5)>や孫文・・・などと接触しており、一時期は孫文よりも呉佩孚を重視していた。これはもちろん呉への過大評価によるが、同時に呉が「日本の代理人張作霖集団」に反対したため、民族利益を擁護するものと見なされたためであり、さらに孫文の「大言壮語」への懸念も一原因であった。・・・

 (注2)Hendricus Josephus Franciscus Marie Sneevliet。通称:Henk Sneevliet、偽名:Maring。1883〜1942年。オランダの共産主義者。蘭領東インド(インドネシア)で反体制活動。コミンテルン第2回大会でレーニンに見初められ、支那におけるコミンテルン代表となり、1921年の中国共産党の創設に関与。先の大戦中にドイツのオランダ占領軍に処刑される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henk_Sneevliet
 (注3)グリゴリー・ナウモヴィチ・ヴォイチンスキー(Grigori Naumovich Voitinsky。1893〜1956年)。露共極東局次長の時に支那に中国共産党創設のために派遣された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Grigori_Voitinsky
 (注4)アドリフ・ヨッフェ(Adolph Abramovich Joffe。1883〜1927年)。現在のウクライナにトルコ系言語を使うユダヤ人として生まれる。共産主義革命家・ボルシェヴィキ政治家・ソ連外交官。一貫してトロツキー派。最後は自殺。
http://en.wikipedia.org/wiki/Adolph_Joffe
http://en.wikipedia.org/wiki/Crimean_Karaites
 (注5)Wu Peifu。1874〜1939年。ここでは、彼のエピソードを紹介しておく。1923年に鉄道スト弾圧に軍隊を投入し労働者を35名殺害した。執務室にはジョージ・ワシントンの肖像画をかけていた。1939年に日本が彼を北支那の親日政府の首班にかつごうとした時、日本兵が一兵残らず支那から撤退した暁に首班になると断った。支那への侮辱であるとして外国租界には決して足を踏み入れようとはせず、租界内の歯医者にかかることすら拒んでそのために死亡した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wu_Peifu

 ソビエトは・・・結局のところ呉佩孚を棄てて孫文を選んだ<が、それは、>・・・呉がソビエト軍による中国外蒙地域の軍事占領を認めようとしなかった<から>である。・・・
 <当時、>ソビエトが最も関心を抱いていたのは、日本軍がロシア[領極東]の占領地域から撤退して圧迫を弱めることであり、かつ外モンゴルと満州に撤退したロシア白衛軍の脅威を取り除くことであった・・・。」(154〜156頁)

→逆に言えば、赤露抑止を至上命題としていたところの、帝国陸軍、就中関東軍が外モンゴルと満州を日本の勢力下に置こうとしたのは当然であった、ということになります。(太田)

(続く)