太田述正コラム#4930(2011.8.14)
<イギリスと騎士道(その11)>(2011.11.4公開)

 『宮廷人』は、同時代のイギリスでは、騎士道の精神が非騎士たる指導層にも広まっていたというのに、(イギリスを除く)欧州等においては、旧騎士以上の人々の上品な行儀といった形骸的な指針へと矮小化してしまっていることを示していますし、『ドン・キホーテ』は、騎士の時代を懐かしむアナクロな人物を笑いのめす喜劇であり、そもそも、騎士道に関する本とは言えないでしょう。
 結局、騎士に関する英語ウィキペディアは、騎士道に関する本は、イギリス人の生み出したものしかない、ということを示している、と私は思うのです。

 (6)結論

 もう結論は出ているようなものですが、改めて騎士道について考えてみましょう。
 まず、「騎士」がいなければ「騎士道」はありえないわけですが、騎士の起源は何か?
 西ローマ帝国が終焉を迎えた西欧及び中欧では、フランク族が幅を利かせたわけですが、その軍隊は、ローマ帝国の軍隊同様、歩兵が中心で、その中の上級者だけが騎乗していました。ただし、騎乗者も、馬から降りて戦いました。
 732年のトゥール・ポワティエ間の戦い(The Battle of Tours-Poitiers)で、ウマイヤ朝アラブ侵攻軍を破ったカール・マルテル(Karl Martel)の軍隊も歩兵が中心であり、騎乗の上級者も馬から降りて戦ったものです。(注28)

 (注28)「7世紀後半のフランク王国は、2国(西北のネウストリアと北東のアウストラシア)<等>に分かれており、それぞれの宮宰が争っていた。アウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン<(Pippin)>2世が勝利して、実権を掌握した。この内紛に乗じて、イベリア半島の西ゴート王国を征服したウマイヤ朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入を始めたのである。とりわけ720年からは大規模な侵入が始まり、・・・ボルドーを略奪し、破壊した後、軍を東に向け・・・ロワール川流域に進めたのである。この知らせを受けたフランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン2世の子)・・・は、事態の重大さを察知し、急遽軍勢を集めてパリから・・・急行し・・・トゥールに入ったところ、イスラム軍は到着していなかったため、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、ここに布陣して互いに相手方の様子を伺っていたが、1週間目の正午から前面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。イスラム騎兵は突撃を繰り返したが、フランク軍の盾の壁はこれを支え続けた。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。・・・<総司令官>を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。
 この思わぬ勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。しかし、・・・イスラム軍の騎兵隊の威力を嫌というほど見せつけられた・・・マルテルは、騎兵隊の大増員を行ってイスラム軍の脅威に備えようとした。鐙(あぶみ)を知らなかったフランク騎兵が、優れたイスラム騎兵の馬の鐙を採用したのもこの戦いの後であった。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。カール・マルテルの子のピピン3世・・・は751年、名ばかりのメロヴィング<(Merovingian)>家の王を廃して、自ら王位に就いた。これに始まるのがカロリング<(Carolingian)>朝である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 しかし、注28で紹介した事情から、8世紀にカロリング朝になると、皇帝率いる軍隊において、騎乗者の割合が次第に増えて行き、かつ、騎乗者は騎乗したまま戦うようになります。
 この時点で、ラテン語のcaballus由来の騎士(chevalier)という言葉が、騎乗用の馬を保有できる人々、すなわちフランク人(ゲルマン人)たる支配階級を意味する言葉として使われるようになったのです。
 
 このような、chevalierによってもっぱら構成される軍隊を引き連れて、フランク化したノルマン人(バイキング)たるウィリアムは、1066年にイギリスを征服したわけです。
 ところが、彼らがノルマン訛りのフランス語をイギリスに大量に持ち込んだにもかかわらず、chevalierという言葉、ないしはその英語化した言葉はイギリスに定着しませんでした。
 そして、1100頃に、古英語(Old English)の召使い(servant)を意味していたcnihtという言葉に由来する、knightが、イギリス王の部下たる戦士のうち、騎乗して戦う者を指す言葉として用いられるようになるのです。
 (この用法が、その後、ドイツ語圏(Ritter)、蘭・北欧圏(ridder)に普及します。)
 (以上、事実関係はb及びcに拠るが、それを私見でもって若干敷衍した。)
 
 さて、少し時計の針を戻して、930年に、現在のフランスのブルゴーニュ地方のクリュニー大修道院長のオド(Odo abbot of Cluny。878?〜942年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Odo_of_Cluny
が、彼が著した、オーリヤックの聖ジェラルド(St. Gerald of Aurillac)の伝記の中で、キリスト教の神聖さ(sanctity)と正統性を剣でもって確保するのが騎士の役割であるということを言い出します。(b)
 この考え方が、思うに、十字軍につながって行き、この十字軍が今度は、騎士道の成立に影響を及ぼした(c)、と考えられるのです。(注29)

 (注29)cは、騎士道の成立に、イスラム世界の、奴隷戦士たるマムルークの間で14世紀に確立したフルシーヤ(Furusiyya)
http://en.wikipedia.org/wiki/Furusiyya
が及ぼした影響についても示唆している。

 要するにこういうことです。
 イギリスに占領者としてやってきた騎士達が、アングロサクソン化することによって、アングロサクソン的価値観の擁護者となり、そのような騎士の在り方が、地理的意味での欧州において矮小化的継受がなされ、騎士(chevalier)の在り方、すなわち騎士道(chevalerie)と称されるようになった、と思われるのです。
 矮小化とは、アングロサクソン的価値観が、騎士道の3属性に即して言えば、君主、神、及び高貴な女性への忠誠へと矮小化されてしまったということです。
 このような騎士道なる概念は、イギリスに逆輸入されることになるのですが、その証拠に、英語では、騎士道を指す言葉はchevalerieを英語化したchivalryであり、knighthoodというknight由来の言葉もつくられはしたけれど、ほとんど用いられていません。

4 終わりに

 実質的な意味での騎士道とは、アングロサクソン的価値観そのものであり、イギリスにおいて、かつては騎士(knight)が、そして近代以降は紳士(gentleman)がその体現者たることを求められたのに対し、形式的な意味での騎士道とは、かかる実質的な意味での騎士道を、地理的意味での欧州のゲルマン系支配層が、騎士が追求すべきところの、君主・神・高貴な女性への忠誠、へと矮小化したものである、というわけです。
 (ただし、「(6)結論」の箇所は、更なる検証が必要であることをお断りしておきます。)

(完)