太田述正コラム#4924(2011.8.11)
<イギリスと騎士道(その8)>(2011.11.1公開)

さて、サラディンについてです。
 彼の名前の正しい読みは、サラーフッディーン(=サラーフ・アッ=ディーン。1138?〜93年)。
 彼は、サダム・フセインと同じく現在のイラクのティクリット生まれの、ただしクルド人であり、シリアとエジプトのスルタンとなり、アイユーブ朝を創設した人物です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
 
 「・・・[サラディンによる1187年のアクレ(Acre)と、とりわけ]エルサレム(Jerusalem)の陥落に対して、第三次十字軍<(1189〜92年)>が・・・決行された。
 [一番最初に出発したのは、神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世(Frederick I)だったが、1190年に渡河の際に落馬して溺死し、その後継たるオーストリア王レオポルド5世(Leopold V)も、そして、フランス王フィリップ2世(Philip II)も、1191年には本国に引き揚げてしまったため、イギリス王リチャード1世(リチャード獅子心王)とイギリス兵が第三次十字軍の主力となった。ちなみに、ビザンツ帝国は、サラディンの側に加担していた。]
 ・・・リチャード1世・・・は、アクレの包囲攻撃を行い、これを落とし、女子供を含む3,000人のイスラム教徒たる捕虜を処刑した。
 サラディンは、報復として、<2週間弱の間、>捕虜にしたすべてのフランク人<(十字軍兵士)>を殺害した。・・・
 サラディン軍とリチャード軍は1191年9月・・・アルスフ(Arsuf)で戦い、サラディン軍は敗北したが、リチャード獅子心王によるあらゆる軍事的試みや戦闘にもかかわらず、エルサレムを奪還することはできなかった。
 それでも、サラディンのリチャードは、軍事的敵対関係であると同時に騎士的な相互敬意の関係を築いた。<(注18)>

 (注18)日本語ウィキペディアは、
 「エルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。・・・捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟・・・が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訪ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。
 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3 前掲
としており、いかにも具体的かつもっともらしいが、この部分を含め、一切典拠が付けられていないどころか、参考文献すらあげられていない。
 
 アルスフで、リチャードが馬を失ったところ、サラディンは2頭の馬を贈った。
 リチャードは、シチリア王国の王妃[で当時未亡人]たる彼の妹のイギリスのジョーン(Joan of England, Queen of Sicily)<(注19)>とサラディンの弟を結婚させ、エルサレムをこの二人への結婚の引き出物にする提案を行っている。・・・

 (注19)シチリア島を含む南イタリアは、11世紀に、ノルマン公国のノルマン人達によってイギリスの征服前後に、しかし、イギリスの征服よりも時間をかけて征服された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Norman_conquest_of_southern_Italy
 1130年にロジャー2世(Roger II)によってノルマン諸領が一つにまとめられたシチリア王国が創建され、その孫で三代目のウィリアム2世(Wiliam II。〜1189年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Sicily
と1177年に結婚したのが、アンジュー生まれでイギリス及びフランス内のイギリス領で育ったところの、この、イギリスのジョーン(1165〜99年)だ。夫死去後、次のシチリア国王のタンクレド(Tnacred)によって幽閉されていたジョーンを、十字軍に赴く途中の兄のリチャードが救出した話は有名。なお、彼女とサラディンの弟との結婚は、両者とも異教徒との結婚を拒否したために実現しなかったもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joan_of_England,_Queen_of_Sicily
 シチリア王家とイギリス王家は、どちらもノルマン公国ゆかりであり、もともと同族意識があったのではなかろうか。

 1099年、<第一次十字軍の時>にエルサレムを陥落させると十字軍は殺戮をしたというのに、サラディンは恩赦を与え、一般のカトリック教徒だけでなく打ち破ったキリスト教徒たる兵士達に対しても、彼らが・・・身代金を払いさえすれば、<エルサレムへの>自由通行権を与えた。
 (ギリシャ正教徒は一層優遇された。というのは、彼らは西欧の十字軍にしばしば反対したからだ。)・・・
 1191年4月、あるフランク人の女性の3か月の赤ん坊が彼女の宿営地から盗まれ市場で売られてしまった。
 フランク人達は、彼女に自らこのことをサラディンに訴えるように促した。
 ・・・サラディンは、自分の金でこの子供を買い戻した。
 彼は、この子をこの母親に与え、彼女は受け取った。
 そして、涙を垂らしながら、この子を胸にかき抱いた。
 <イスラム教徒の>人々・・・はこの光景を見て声を出して泣いた。
 彼女は、しばらくの間乳を与えていたが、サラディンは、彼女のために馬をもてと命じ、彼女を宿営地まで送り届けさせた。・・・
 信仰の違いにもかかわらず、イスラム教徒のサラディンはキリスト教の君主達、とりわけリチャードに尊敬された。
 リチャードは、ある時、サラディンは偉大な君主(prince)であると称賛し、疑いもなく、彼はイスラム世界における最も偉大で強力な指導者である、と述べている。
 サラディンはサラディンで、リチャード以上に尊敬に値するキリスト教の君主(lord)はいない、と陳述している。・・・
 ・・・この二人は、1192年にラムラ条約(Treaty of Ramla)を締結し、エルサレムはイスラムのもとにとどまるけれど、キリスト教の巡礼達に開放されることとなった。・・・
 この条約締結後、サラディンとリチャードは、敬意の証として、夥しい贈り物を交換した。・・・
 しかし、<リチャードとサラディン>は、対面することはついになく、相互の通信は、<最後まで>書簡または使者によってなされた。・・・
 中世が過ぎると、サラディンのことは忘れられて行ったが、サー・ウォルター・スコット(Walter Scott)<(コラム#4177、4197、4414、4885)>は、彼の小説、『タリスマン(The Talisman)』(1825年)でサラディンのことを好意的に取り上げた。
 <英語圏における>現在のサラディン観<であるところの>・・・近代的な・・・自由主義的な欧州の紳士<たるサラディン>・・・は、主としてこの小説に由来する。」

 (以上、特に断っていない限り、下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Saladin
 (ただし、[]内は下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Crusade

 以上から推察できるのは、サラディンが敬意を表されることになったのは、サラディン自身の人柄もさることながら、彼と戦ったのがイギリス人たるリチャード獅子心王であったからこそである、ということです。
 イギリスには、その自然宗教の伝統から、開かれた、かつ世俗的な宗教観があり、だからこそ、イスラム教徒のサラディンを、全く偏見なく評価することができたのでしょう。
 また、イギリス人には、人種差別意識が希薄です。
 サラディンが捕虜を原則として殺害しなかったこと、女性を大切にしたこと等にリチャード以下のイギリス人達はいたく感動したに違いありません。
 ウォルター・スコットはスコットランド人ですが、19世紀に、英語世界に、改めてこのサラディン像を売り込み、それを確固としたものにしたわけです。
 ここまでくれば、韜晦大好き人間のイギリス人が、騎兵に関する英語ウィキペディアの中の記述で、「欧州」の「代表的騎士」の筆頭にサラディンをもってきたのは、決して冗談などではないことがお分かりいただけることと思います。
 世代的には、サラディンよりも古手ですが、「欧州」の「代表的騎士」の2番手にブイヨンのゴドフリーというフランク人、すなわち、地理的意味での欧州のどこの「国」にも属さない人物、をもってきた理由についても、改めて思いを致していただきたいものです。

(続く)