太田述正コラム#4920(2011.8.9)
<イギリスと騎士道(その6)>(2011.10.30公開)

3 イギリスで生まれた騎士道

 (1)序

 かつて私は、コラム#3137で、「私はイギリスに封建時代はなかったとかねてから指摘しています・・・。ですから、騎士もまたいなかったのです。じゃなんでKnight爵があるんだって?
 11世紀のノルマン人による征服によって、若干封建制的なものがイギリスに導入された名残ですよ。
 イギリス人の英雄は、アーサー王でも、いわんやランスロットでもなく、ノルマン領主と戦ったロビン・フッド(Robin Hood)・・・でさあ」と書いたわけですが、これは紅顔ものの完全な誤りであったということです。
 (Chaseさん、登録お願いしまーす。)
 そこで、この際、騎士道はイギリスにしかなかった、という、私にとっての新説を、若干なりとも整理された形で展開したいと思います。
 ソールの本から明らかではないか、と思われたかもしれませんが、私による彼の本の紹介は、あくまでも書評をもとにしたものであり、書評がたまたまイギリスがらみのことしか引用しなかったのではないか、とか、そもそもソールが書いたのは、イギリスの騎士道の話であって、イギリス以外の騎士道に触れていなかったとしても必ずしも不思議ではないのではないか、といった批判が予想されます。
 そこで、騎士に関係するいくつかの英語ウィキペディア(一部日本語とフランス語ウィキペディア)の記述に拠って、私にとっての上記新説を裏付けてみることにしました。 

a:http://fr.wikipedia.org/wiki/Chevalerie
b:http://en.wikipedia.org/wiki/Cavalry
c:http://en.wikipedia.org/wiki/Knight
(8月6日アクセス)
 
 (2)代表的騎士

 騎士道に関するフランス語ウィキペディアがあげている代表的騎士は、12世紀のギョーム・ル・マレシャル(Guillaume le Marechal)、13世紀のウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタイン(Ulrich von Liechtenstein)、14世紀のベルトラン・デュ・グクラン(Bertrand du Guesclin)とジェフロイ・ド・シャルニ(Geoffroy de Charny)の4人です。
 そして、騎士像の形成に大きな役割を果たしたのが、(イギリス由来の)アーサー王の円卓の騎士の物語であるとしています。(a)
 この4人の代表的騎士中、最も初期の代表的騎士は、フランス人ならぬイギリス人ですし、残り二人のフランス人中、一人はイギリスと歴史的に関わりの深い地方の出身であり、イギリス軍の捕虜に2回なっており、もう一人はスコットランドを2回訪問し、やはりイギリスの捕虜にもなっていて、どちらもイギリス人騎士像を熟知していると思われる人物です。
 また、一人あげられているドイツ人は、喜劇的人物です。

 もう少し詳しく見て行きましょう。

 最初に出てきたギョーム・ル・マレシャルは、英語表記では、初代ペンブローク伯爵のサー・ウィリアム・マーシャル(Sir William Marshal, 1st Earl of Pembroke。1147〜1219年)ですが、彼は、アングロ・ノルマン人(ノルマン系イギリス人)たる軍人兼政治家です。
 ヘンリー2世、リチャード獅子心王、ジョン王、そしてヘンリー3世の4人のイギリス国王に仕え、最後のヘンリー3世の時に摂政(regent)に上り詰めます。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Marshal,_1st_Earl_of_Pembroke
 つまり、マーシャルは、初期のイギリス人騎士の代表格的人物であり、それがゆえに騎士の理念型となったと言ってよいでしょう。

 次にウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタイン(1200〜78年)です。
 彼は、現在のオーストリアのムラウ(Murau)生まれの貴族・騎士・政治家・ミンネジンガー(minnesanger)<(注10)>です。

 (注10)「12〜14世紀ドイツの宮廷歌人。徳の高い貴婦人を自分の主君とあがめ、その人のために精進修業するという愛(ミンネ)の抒情詩をうたう。起源はトルバドゥールといわれ<る。>」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC

 彼は、自伝的詩集の中で、一つは旅に出て、ヴェネティアからヴィーンへの道中、美神ヴィーナスの出で立ちをして、馬上槍試合(joust)や馬上トーナメント(tourney)に、自分がプラトニックな敬慕を寄せる貴婦人を賭けて参加し、相手の槍を307本折り、全てに勝利した時のことを記し、もう一つは、自分はアーサー王に扮し、自分の子分達を円卓の騎士達に擬した時のことを記しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulrich_von_Liechtenstein
 2人目は、イギリスで生まれた騎士像の一部分にかぶれた、一風狂人たる外国人以上でも以下でもない、と言わざるをえません。

 では、二人のフランス人騎士はどうでしょうか。

 ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320?〜1380年)は、ブルターニュ(Bretagne=Brittany)(注11)の鷲等として知られ、ブルターニュの騎士で百年戦争の際に軍事指揮官を務めます。
 そして、1370年から死ぬまで、フランス王軍司令官(connetable de France)(注12)を務めるのです。

 (注11)小ブリテン(Less, Lesser or Little Britain)とも呼ばれ、最初は独立国、後に独立した公国、そして1532にフランスの一部たる名目だけの公国となる。フランス革命の時に公国廃止。もともとケルト人が住んでいたが、ローマ時代にブリトン人(大ブリテン島の住民)が移住してきた上、5世紀のアングロサクソンの大ブリテン島侵攻時に再度ブリトン人の移住があった。6世紀以降、ウェールズからの宣教師達によって本格的にキリスト教化した。その後、840年に小王国群が統合されてブルターニュに単一王国が生まれ、やがて独立ブルターニュ公国(Duchy)が成立した。今でもケルト系の言語が生き残っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brittany
 (注12)彼がフランス王軍司令官に任命された時の絵が掲げられている。↓
http://fr.wikipedia.org/wiki/Conn%C3%A9table

 ゲクランがフランスに忠誠を尽くした(注13)ことに対し、20世紀のブルターニュ人のナショナリスト達は、彼をブルターニュの「裏切り者」と考えているといいます。

 (注13)「<1337年に英仏百年戦争が始まっていたが、ベルトラン・デュ・ゲクランは、ブルターニュ公国継承戦争で、イギリス王が推した側ではなく、フランス王が推した側について戦った。>1366年、<フランス国王>シャルル5世(Charles V≪。1338〜80年≫)はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世<(Pedro the Cruel)>の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラ<(Henry of Trastamara)>を国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これは・・・<フランス>国内で盗賊化している傭兵隊<を戦いに同道させることで、スペイン>・・・に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。
 ・・・王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌ<で百年戦争を戦っていたイングランドの国王エドワード3世の長男で皇太子、いわゆる>黒太子エドワード<(Edward, the Black Prince。1330〜76年)>の元に亡命し、復位を求めた。<同>年9月・・・、黒太子エドワードとペドロ1世の間で・・・条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。
 1367年、<スペインでのフランス軍との>戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たした・・・。・・・
 <以前にも同じことが一度あったが、再びシャルル5世が払った身代金によってイギリス軍の捕虜の身から解放されたデュ・ゲクランは、捲土重来を期し、今度は、>1370年3月・・・<スペインで>カスティーリャ王ペドロ1世を下し・・・パリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。シャルル5世は・・・1370年12月・・・ブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、<カスティーリャ海軍とともに>・・・7月・・・海戦でイングランド海軍を破った・・・。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世[(Jean IV。1339〜99年)・・イングランドにおいてはジョン5世(John V)・・]と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、デュ・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。
 1375年7月・・・、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世は<平和条約交渉に入ったが、>1376年には黒太子エドワードが、1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。
 ・・・1378年12月・・・、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあ[い、彼らはイギリスに亡命していたジャン4世を呼び戻して戦った)]。<また、今回は、デュ・ゲクランもブルターニュ平定作戦には真面目に取り組まなかった。>また、国内では・・・重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月・・・に死去した。1381年4月・・・<ジャン4世との間で>条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の・・・併合・・・はさけられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
(ただし、<>内は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bertrand_du_Guesclin 前掲
(また、[]内は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_V,_Duke_of_Brittany
(更にまた、≪≫は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_V_of_France

 第二次世界大戦中、親ナチのブルターニュ国家社会労働運動はレンヌ(Rennes)にあった彼の塑像を破壊しています。
 (以上、特に断っていない限り、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Bertrand_du_Guesclin

 結局、3人目のデュ・ゲクランは、イギリスと歴史的に密接な関係のあった地方に生まれ、英仏百年戦争の初期にイギリス軍と継続的に戦ったこと、かつまた、その捕虜に2度もなったことを通じ、イギリス騎士道の何たるかを体得するに至ったと考えられるわけです。
 しかも、そのデュ・ゲクランは、フランス王の諸侯中の筆頭に上り詰めた、という点で、イギリス騎士の理念型と既にみなされていたと思われる、ウィリアム・マーシャルが、イギリス王の諸侯中の筆頭に上り詰めたことになぞらえ、フランス騎士の理念型としてフランス内で祭り上げられるに至った、とも考えられるのです。
 要するに、デュ・ゲクランは、ウィリアム・マーシャルの、フランスにおける二番煎じ以外の何物でもない、というのが私の見立てです。

(続く)