太田述正コラム#4906(2011.8.2)
<終末論・太平天国・白蓮教(その5)>(2011.10.23公開)

 (4)白蓮教

   ア 序

 「白蓮教(びゃくれんきょう<=White Lotus>)は、中国に・・・宋代から清代まで存在した宗教。本来は・・・浄土教結社(白蓮宗)であったが、・・・当初から国家からも既成教団からも異端視されていた。それは、半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたからだとされる。・・・
 元代に、呪術的な信仰と共に、弥勒信仰が混入して変質し、革命思想が強くなり、何度も禁教令を受けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
(7月29日アクセス。以下同じ)

 上に出てくる「呪術的な信仰」とは、以下のようなものです。

 「千年王国において、彼女の子供達全員を集めて一つの家族にするところの、「まだ生まれていない、あるいは永遠の、敬うべき母(無生老母)」信仰。
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus
 「無生老母(むしょうろうぼ)は明・清代以降、様々な民間宗教、宗教結社で崇められてきた女神」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%94%9F%E8%80%81%E6%AF%8D

   イ 紅巾の乱(Red Turban Rebellion)・・第一次白蓮教の乱

 「紅巾の乱(・・・1351年 - 1366年)は、中国元末期の1351年<(1352年?)>・・・に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1
 「白蓮教の指導者の韓山童(Han Shantong)・・・の反満スローガンは、「この帝国はひどい混沌の下にある。弥勒仏が人の姿をとって(incarnated)、マニ教の光の王としてこの世に現れた」というものだった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Maitreya 前掲

 「明の太祖朱元璋<(Zhu Yuanzhang)>も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を弾圧した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99 前掲

 もう少し、詳しく、その経緯を説明すると以下のとおりです。

 「仏教僧で元少年乞食であった朱元璋が反乱に加わった。
 彼の傑出した知力は彼を反乱軍の頭目へと押し上げた。
 彼は、兵士達に、白蓮教の信仰を守って掠奪をしないよう命じた。
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus
 「<また、>自分の出自を・・・活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
 1355年には反乱は支那の多くの地域へ波及した。
 1356年に朱元璋は、重要な都市であった<現在の>南京を占領し、・・・自分の首都とした。」
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus 前掲
 「1366年<には、>・・・朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 前掲
 「<すなわち、現在の南京で>、彼は異端の信仰を放棄し、新しい王朝による支配を樹立する第一歩として、彼のために声明を発し、彼の名において天命宣下(Mandate of Heaven)の儀式を執り行うこととなる儒教の学者達の助力を勝ち得た。・・・
 1387年には、30年以上にわたる戦争の後、朱元璋は全支那を解放した。
 天命宣下と皇帝としての位を得、彼は・・・新しい王朝たる明を樹立した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus 前掲

→外来の仏教に起源を持つ弥勒下生信仰の白蓮教を利用して自分の権力的野望を実現した朱元璋は、外来の共産主義(スターリン主義)を利用して自分の権力的野望を実現した毛沢東の原型と言えるのではないでしょうか。
 反外国スローガンといい、自分の軍に掠奪をさせず、貧民の見方を標榜した点といい、朱と毛は生き写しですね。(太田)

   ウ 白蓮教の乱(White Lotus Rebellion)・・第二次白蓮教の乱

 「<18世紀末>の<清>の人口は100年前が2億ほどだったのに対して4億を突破していた(全体的にみれば比較的平和な状勢が続いたこと、そして何より、この頃に新大陸原産の作物であるトウモロコシやサツマイモ、落花生などが導入され、農業生産が伸びたためである)。しかしその一方で農業耕地はわずか一割ほどしか増加しておらず、必然的に一人当たりの生産量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。そうした民衆は匪賊となり、白蓮教を紐帯とすることで政府に対する反乱となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D

 「1796年(嘉慶元年)に湖北省で・・・白蓮教団<が>・・・反乱を起こした。これを契機として陝西省・四川省でも反乱が起こり、更に河南省・甘粛省にも飛び火した。
 白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万といわれる。・・・1802年頃にはほぼ鎮圧された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AE%E4%B9%B1
 「白蓮教の乱(・・・1796〜1804年)は、・・・明らかに、反税闘争として始まった。
 白蓮教団(White Lotus Society)は、弥勒下生(advent of Maitreya)を予報し、支那土着の明王朝の復活を擁護し、従う者達に個人的救済を約束した。
 清政府は、和珅(Heshen)<(1750〜99年)(注9)>の統制下にあったが、叛徒達の組織がバラバラであったというのに、当初、鎮圧するのには不十分な規模の政府軍しか送らなかった。

 (注9)乾隆帝(1711〜99年。皇帝:1735〜96年。実権:1735〜99年)は、「中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。・・・1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で引退し太上皇となり、実権を手放さず、清寧宮で院政を敷いた。乾隆帝は和珅という奸臣を、引き続いて重用していた。和珅は嘉慶帝と他の臣たち全てに憎まれていたのだが、乾隆帝が生きている間はどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%B8%9D

 1799年に実権を握った嘉慶帝(Jiaqing Emperor)(<1760〜1820年。>皇帝:1796〜1820年)は、和珅一派を粛清<(注10)>し、よりやる気のある満州族の司令官達に<政府軍の>規律と士気を回復させようとした。

 (注10)「和珅の息子に、乾隆帝の娘、つまり嘉慶帝の妹が降嫁していた為、<和珅は>族滅は免れた。和珅は絶望し自殺。その財産は没収された。財産は黄金150万両を含む、国家予算15年分に上った。当時の世界情勢から見て、和珅は世界一の富豪であったと考えられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E3%82%B7%E3%83%B3

 体系的な平定計画が実行され、防御柵で囲まれた数百の村に再定住させられ民兵へと組織された。
 最終段階においては、清は、反乱ゲリラ一味の絶滅と脱走者への恩赦計画を組み合わせた鎮圧政策を追求した。
 この反乱は、清政府によって、最終的に1804年に鎮圧されたが、それは清王朝史の転換点となった。
 かくして、19世紀において、清の支配は弱体化し、繁栄は後退したのだ。
 この反乱で、約1,600万人が亡くなった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus_Rebellion
 「清は何とか乱を乗り切った。しかし・・・満州族の軍隊が今では全く役に立たないことを暴露したことは、多数派の漢族に対する満州族支配に大きな不安を抱かせた。また反乱を鎮圧した郷勇が発展して、のちに曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、満州族の地位を危ういものとした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D 前掲
 嘉慶帝の息子で次に皇帝となった道光帝(Daoguang Emperor。1782〜1850年。皇帝:1820〜50年)は、「その詔で、「民を<白蓮教の>反乱へと追い立てたのは、地方官吏による恐喝であった」ことを認めている。」
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Lotus 前掲

→第一次の時と違って、第二次の白蓮教の乱は失敗に終わったわけですが、この二つの乱の様相は極めて近似していますね。
 それにしても、支那で乱が起こると、犠牲者の数は、いつも天文学的なものになるようです。(太田)

   エ その他

 [天理教の乱](1813年)

 「天理教・・・は、19世紀の中国(清代)の宗教秘密結社である。白蓮教の分派の一つであり、八卦教ともいう。白蓮教徒の乱が鎮圧された後に、その残党により結成された。・・・1813年に・・・北京及び河南省で蜂起したが、3ヶ月で鎮圧された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
 「天理教徒の乱では・・・、反乱軍に紫禁城にまで踏み込まれ、(癸酉の変)矢を壁に射立てられた(この跡は現在でも残っている)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D 前掲

(続く)