太田述正コラム#4890(2011.7.25)
<映画評論26:トゥモロー・ワールド(その4)>(2011.10.15公開)

 (以上、特に断っていない限り、Bによる。)

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<Dによる補注>

 寓喩の他の例:

・キリスト教がらみ…ジョン・タヴナー(John Tavener。1944年〜。英国の作曲家)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Tavener
の、鎮魂曲(requiem)と精神を高揚させる合唱とが交互に繰り返される'Fragment of a Prayer'という曲の使用。
 主人公を助ける友人が大変な高齢者であり、メトセラ(Methuselah。ノアの洪水以前のユダヤの族長で 969 歳まで生きたといわれる長命者(創世記))
http://ejje.weblio.jp/content/Methuselah
を模していると考えられる。

・その他…荒廃したロンドンの建屋の中に、スペインから避難してきたピカソの『ゲルニカ』が掲げられている。
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 「<この映画では、>元政治活動家で政治活動に幻滅してしまった官僚である<主人公>・・・が、若いアフリカ人の<妊娠した>女性を安全な所に連れて行くのを助ける不承不承の英雄となる。・・・
 <この主人公を演じた俳優>は、「<主人公>は、まことに活発ではない、まことに内気な、そしてまるで人間の影のような人物であるように私には思えた」と説明する。・・・
 「ありきたりの(cliched)英雄的な登場人物という感じからなるたけ離れようと極めて周到に<監督>は考えたのだ」と。・・・
 この映画は未来についてのものだが、監督は、意図的に<この映画の制作当時の>2006年のイメージを扶植した。
 「私は、今日についての映画をつくりたいと思った」と監督は説明する。・・・
 「この映画の準備を始めた最初の頃、私は工芸部門を訪れ、2027年の映画をつくると言ったものだから、彼らは未来に係るものをかき集めた。
 私は、「違うんだ。そんなものは全くいらない」と言った。
 私は、イラク、パレスティナ、ボスニア、ソマリア、そして北アイルランドからの<紛争の>写真を手に入れて言った。
 「これがつくろうとしている映画だ」と。」」(E)

 「監督は、「この映画は、イデオロギーの失敗を示すものだ」と言った。・・・
 確かウィリアム・ブレイク(William Blake)<(注8)>は、最初はフランス革命の熱烈な支持者だったけれど、やがて、変化は人間の精神の革命を通じてしか起こりえないと思うに至った。

 (注8)1757〜1827年。イギリスの画家、詩人、銅版画職人。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF

 まさにそれが、タナー(Alain <Tanner>)が・・・映画『2000年に25歳になるヨナ(Jonah Who Will Be 25 in the Year 2000)』<(注9)>・・・で伝えようと思ったことなんだと私は思う」と。」(F)

 (注9)アラン・タナー(1929年〜)はスイスの映画監督。『2000年に25歳になるヨナ(Jonas qui aura 25 ans en l'an 2000)』は1976年のフランス語映画。1968年のフランス学生「革命」を描く。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alain_Tanner
http://en.wikipedia.org/wiki/Jonah_Who_Will_Be_25_in_the_Year_2000

3 終わりに

 「<インド亜大陸において、>ウパニシャッドの教学の中で・・・輪廻<(metempsychosis)>や業<(carma)>、さらには梵天<(Brahman)>や我<(Atman)>という概念<が>・・・形成された。ことに、ブラフマン(梵天)という概念は、・・・世界を形成する根本原理とされ、さらに絶対者として神格化された。<また>・・・、輪廻の主体としての我(アートマン)も想定することとなる。この我と梵が精神体験的に一体となることによって、心の平安が得られるという梵我一如という思想が形成され強調された。・・・
 釈迦<は、輪廻や業についてはともかくとして・・輪廻についてはコラム#1013参照(太田)・・、このような考え方に批判的であり、>・・・概念化された理解では真実の体験<(=世界理解及び救済(太田))>は得られない<と主張した。>・・・それが後に無分別智と呼ばれる<ようになる。>・・・さらに釈迦は、・・・すべてのものの存在は、孤立するものではなく、関係性の中で存在現象として現れているのである<と>説明した。・・・<これすなわち、>縁起<の考え方である。>・・・自ら<も>縁起によって存在している<、従って>・・・我というものはない、・・・<それ>だけではなく、回りのすべての存在現象も、同様に関係性の上に現象していると言うのである。・・・これを諸法無我と<も>いう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%93%B2%E5%AD%A6
 このように、ウパニシャッド的な(概念化された理解を綴ったところの)口伝ないし経典による世界理解/救済を否定するとともに、ウパニシャッドの考え方の中にもあったところの、神(あるいは神々)による世界理解/救済もまた否定した釈迦
http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism_and_Hinduism
は、人間は、生きることに伴う苦から、正しい行ない(八正道<(=人間主義的言動(太田))>)を実践するとともに、苦は執着<(非人間主義的言動(太田)>によって起きるという悟りを座禅<(コラム#4707)>等によって開き、涅槃(Nirvana)に入る<(=人間主義の何たるかを体得する(太田))>ことによって救済される、と説いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

 前にも述べたことがありますが、私は、釈迦は、基本的に狩猟採集時代の遺伝子のままであるところの人間が、農業時代に入って、適応障害を起こして非人間主義的に生きていることが、その苦しみの原因であることに気付き、人間は、本来の人間主義的な存在へと回帰すべきである、と説いた偉大なる人間主義者・・(人間以外の生物を含む)自然との関係性及び他の人間との関係性において自らが存在すると考える者・・であったと考えています。
 先ほど記したように、このような釈迦の考えは、ウパニシャッド的な考え方に刺激を受け、それを超克することによって形成されたことを考えれば、この映画が、キリスト教がらみの寓喩を多用しつつもキリスト教の復興といった発想を退け、ウパニシャッド的なものに注目し、非人間主義的な毎日を送っていた人物が、アフリカからやってきた狩猟採集時代の人間を象徴しているところの黒人の女性とその胎児と出会うことで、かつての自分に戻り、命をかけて人間主義を実践して、この妊婦を守り抜いていく過程を描いたことは、私にとって、大いに得心がいくものがある、と言わざるをえません。
 このようなことを、この映画の脚本の制作に携わったところの(監督を含む)人々が、どこまで明確に自覚していたかどうかは定かではありませんが・・。

 そんな、ムツカシイ映画は見たくもないって?
 いや、テーマが何であれ、名作であるかどうかは、この映画のように、(途中からであれ、)一旦見始めると最後まで見届けずにはおられない面白い作品であるかどうかにかかっています。
 最後まで見せることに成功すれば、見せられた人は、その関心やレベルに応じて、映画のテーマについて、様々な想念を思いめぐらせることになります。
 その中に、ひょっとして制作者の意図とは異なるテーマの映画として受け止める人が出てくるかもしれませんが・・。
 私が申し上げた、この映画理解も、あるいは、深読みのし過ぎなのかもしれませんね。
 いずれにせよ、様々な想念を触発する映画は名作なのです。
 キリスト教的なものを中心とする寓喩の多用は、欧米の観客の想念を掻き立ててくれるものの、キリスト教に余り馴染みのない日本人には分かりにくい部分もあるかもしれません。
 しかし、複数の(戦闘シーンを含む)アクションシーンは、それぞれ長時間のワンカット(つなぎ合わせてワンカットに見せているものもある)で撮られており、迫力は大変なものです。
 それだけでもこの映画は一見の価値がある、と申し上げておきましょう。

(完)