太田述正コラム#4880(2011.7.20)
<人間主義・唯一神・人権(その1)>(2011.10.10公開)

1 始めに

 私が、アブラハム系唯一神宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)をうさんくさい存在と見ていることは良くご存じだと思いますが、人権についても同じ思いなのです。
 (私は、これまで自由主義や法の支配に言及することはあっても、人権にはほとんど言及したことがないはずです。)
 それは、人権観念は、イギリスの法の支配・・コモンローにおける手続き的正義と渾然一体となった実体的正義の担保・・の観念を、コモンローを唯一神に置き換えることによって「普遍化」したものであるところ、そうである以上、人権観念を英米法系以外の法系の国や地域でかつ唯一神宗教が優位にある所には移植できない、ということにならざるをえないからです。
 また、そもそも、法の支配にも唯一神にも人間中心主義的バイアスがあって、自然や人間以外の生物がないがしろにされがちです。
 では、一体、どうすればよいのでしょうか?

 そのヒントを私に与えてくれたのは、世界人権宣言の第一条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
です。
 この前半は、冒頭に「イギリスでは」を挿入すれば意味が通りますし、歴史的にはそれが正解ですが、それではpolitical correctnessに反するばかりか、このような文書で謳う意味がなくなってしまうのでダメでしょう。
 結局、意味を通らせようとすれば、末尾に「ように神は人間をつくられた」を挿入するくらいしかないのであって、それが、実際のところ、暗黙の前提となっている、と考えられるのです。
 これが、私の独断でも何でもないことは、1776年の米独立宣言の冒頭近くの、次のくだりから明らかです。

 We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights・・・
 (太田仮訳:すべての男達が、彼らの創造主によって、平等に創られ、一定の不可譲の諸権利を贈られている、という真実は自明のことであると考える・・・。)(注1)
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Declaration_of_Independence#Text

 (注1)この文書は、創造主(唯一神)という言葉を用いていること、peopleではなく(womenを除く)menを対象にしていること、の2点で、アナクロニズムの極地だ。
 (当然のことながら、創造主(唯一神)が男性であるだけでなく、ユダヤ教の預言者達、キリスト教のイエス、そしてイスラム教の預言者ムハンマドがすべて男性だ。)
 オーストリアで、先般、「、「偉大な息子たちの故郷」との一節がある同国国歌の歌詞に「娘たち」を加える改正」を行うことになった
http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011071401000049.html
ことを想起されたい。

 しかし、やや過激に申し上げれば、神(唯一神)の存在など人類の過半が信じていない以上、前半はウソである、ということにならざるをえません。
 他方、この後半は、紛れもなく人間主義という、遺伝子的根拠のある本来的な人間の在り方の確認であり、非の打ちどころがありません。
 これを踏まえ、人類は、前半、すなわち人権観念ないしは唯一神観念を弄ぶのは止め、人間主義の確認と推奨一本に切り替えるべきだ、と私は考えるに至ったのです。

 この私の考えを裏付けるコラムが2本出ていたので、ご紹介しましょう。

2 コラム2本の紹介

 まず、最初のコラムです。

 「・・・ヒラリー・パットナム(Hilary Putnam)<(注2)>は、『生活の指針としてのユダヤ哲学(Jewish Philosophy as a Guide to Life)』の中で、見事に次のように述べている。

 (注2)1926年〜。父親は長らく共産党シンパ、母親はユダヤ人。米国の哲学者・数学者・コンピューター科学者にして米国で日本で言うところの進歩的文化人としての役割を果たし続ける。1965年から2000年までハーバード大学で教鞭をとる。奥さんも母親はユダヤ人で学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hilary_Putnam
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0

 「人間は誰でも、他人の貧困(neediness)、苦しみ(suffering)、脆弱性(vulnerability)を何とかせよと命ぜられている(commanded)ことを自覚する(experience)必要がある」と。
 しかし、パットナムの「命ぜられている」という用語に注目して欲しい。
 一体我々は誰によって命ぜられているのだろうか。
 この問いは、道徳的権威の源は誰なのか、あるいは何なのか、神か人間、宗教家倫理か、ということに帰着する。
 私は、それが大いなる差異をもたらすということを言いたい。・・・
 ジャック・ドネリー(Jack Donnelly)<(注3)>が『普遍的人権の理論と実際(Universal Human Rights in Theory and Practice)」の中で、「「伝統的(traditional)」社会は、一般に義務の精緻な体系、すなわち、人権<なる観念>とは全く無関係(independent of)であるところの、人間の尊厳、繁栄、あるいは福祉(well-being)の実現を図るための、正義、政治的正統性、そして人間的繁栄(human flourishing)、の体系を持っている」と述べている。
 これらの制度と慣習は、人権の異なった形態というより、代替物なのだ」と。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/07/17/the-sacred-and-the-humane/?ref=opinion
(7月20日アクセス。以下同じ)

 (注3)米国の政治学者で、専門は、国際関係論、人権論。現在は、デンバー大学教授。(米国の学者に関し、日本語のウィキペディアがあって英語のがない珍しい事例だ。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%BC

 ドネリーの言う、「伝統的(traditional)」社会が何を指しているのか、このコラムだけでは判然としませんが、それが(人間主義社会であるところの)狩猟採集社会であるとすれば、実によく腑に落ちます。
 すなわち、人間主義社会においては、人権概念は必要がないのです。

(続く)