太田述正コラム#4856(2011.7.8)
<支那における自由民主主義的伝統の発掘(その3)>(2011.9.28公開)

 さて、遡って、LIUが持ち出した孟子についてです。

 「紀元前4世紀の哲学者にして孔子の最も有名な弟子である孟子(Mencius)<(注5)>は、王国は、王が「刑罰や罰金を極力課さず、税や賦課を減らす…、人民にとって慈悲深い政府運営を行えば、外部からの攻撃からその王国を守ることができよう」と述べた。

 (注5)紀元前372年?〜紀元前289年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
(孟子に関する英語の電子百科は日本語ウィキペディアより簡単なものばかりだ。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Mencius
http://plato.stanford.edu/entries/mencius/ 
 これは、英米の識者だけでなく、華僑を含めた漢人の間でも孟子の評価が低いことを示唆している。)

 Hui<(どの国か特定できなかった。(太田)>の王に「天下統一するためにはいかなる徳が求められるか」と尋ねられた時、孟子は、「人民を守ることだ」と答えた。」

 これでは簡単すぎるので、もう少し詳しく見ていきましょう。

 まず、孟子の王道論(民本論)についてです。

 「孟子によれば、覇者とは武力によって借り物の仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。<すなわち、孟子は、>堯・舜や三王の「先王の道」(王道)を行うべきだと主張した・・・。」(ウィキペディア前掲)
 「梁の恵王<に対し、>・・・孟子は慎んでお答えした。『・・・もし、王が人民に仁徳に満ちた善政を施し、刑罰の量刑を軽くして、租税を安くし、農民に土地を深く耕させ朝早くから草刈をさせたとしましょう。更には、壮年の国民には、暇があれば各種の徳(孝行・従順・忠義・誠実)を修めさせ、家庭では父兄によく仕え、家の外では年長者に敬意を払って仕えるようにしたとしましょう。そうすれば、(脆弱な武器である)杖を手に持つだけで、秦や楚の堅固な甲冑を攻撃し、鋭利な武器を持った精悍な兵士を打ち倒せます。・・・王よ、どうか仁者に敵なしの教訓を疑わないようにしてください。』
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/moushi001.html

 ここから分かるのは、孟子の王道論は、国王に向かって説かれたところの、国を富強にするための手段でしかなかった、ということです。
 手段である以上は、他の手段と比較されることとなり、結局は、孟子の王道論を採用するどころか、それとは対蹠的な法家思想を採用したところの秦が、支那の春秋戦国の世を統一し、その始皇帝が焚書坑儒を断行することになるのです。(注6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

 (注6)福澤諭吉は、『文明論之概略』の中で、「孟子に至っては・・・<管仲らに政治的力量が及ばないこと>・・・が孔子よりもひどい。戦国時代当時、封建貴族諸侯どもはようやく合一の勢いを見せ、・・・弱肉強食の時節となって、・・・合従連衡の戦争にせわしなかった世だったので、貴族といえども自分の身すら安心できなかった。なんで人民のことを思ういとまがあるだろう。・・・ただただ全国の力を攻防の事に用いて、君主一個の安全を謀るしかなかった。たとえあるいは名主仁君がいたとしても、孟子の言葉を聞いて仁政を施せば政治と共に自分の身も危うくする恐れがある。・・・わたくし、あえて管仲・・・らに味方して孔子孟子を排斥するわけではないが、ただただこの二大家が時勢を知らず、その学問を当時の政治に施そうとして、かえって世間の嘲笑を受け、後世に益することがなかったのを悲しむ。」(現代語訳)と痛烈に孟子を批判している。
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius02-13.html

 次に、孟子の革命論(禅譲/放伐論)についてです。
 以下の日本語ウィキペディアには、いずれも典拠が付いていないことを割り引いて読んでください。

 「孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の革命説の原型をなしている。・・・孟子の天命説は武力による君主の放伐さえも容認するものであった。しかしながら、孟子は革命の首唱者であっても革命家ではなかった。その天命説も放伐を煽動するのではなく、むしろ規制するためのものであったといえるだろう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90#.E7.8E.8B.E8.A6.87 前掲
 「天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。・・・
 後漢(劉氏)から・・・禅譲を受けた・・・魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方であ<る>・・・。中国においても例は少ないながらも別姓の養子に皇帝の位を継承した五代の後周のような例もあり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD

 ここから分かるのは、孟子の革命論は、本来の意味での革命論なのではなく、特定の国において交代した新王朝を正当化するための、後ろ向きの論理・・易姓革命論・・でしかない、ということです。(注7)

 (注7)日本では易姓革命が、有史以来一度もなかったわけだが、権威(天皇)と権力が切り離されることによって、最高権力者が摂関や将軍(執権)家の交代の形で変わる本来の意味での革命が何度も起こった。権威と権力の切り離しこそ、日本における自由民主主義の淵源の一つであると言える。

 孟子は、このように、全く支配者にとって「危険」な思想家ではなかったからこそ、「北宋時代、神宗の・・・1071年・・・、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。・・・1083年・・・、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の・・・1330年・・・、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされた」のです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90 前掲

 従って、孟子もまた、支那における自由民主主義の祖の一人、と評するに足る人物であるとは到底言えないのです。

(続く)