太田述正コラム#5009(2011.9.23)
<イギリスにおける近代議会の誕生(その1)>

 これは、9月23日に東京で行うはずであった講演会(オフ会)のために用意した講演草稿の前半部分です。改めて10月15日に順延された東京での講演会で、後半部分を含めて話をする予定です。(太田)
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1 始めに

 本日のお話は、サー・サイモン・デイヴィッド・ジェンキンス(Simon David Jenkins。1943年〜)の新著'A Short History of England’の書評類
A:http://www.prospectmagazine.co.uk/tag/simon-jenkins/
(この本を含む3冊の本の書評)
B:http://www.spectator.co.uk/books/7189473/the-bigger-picture.thtml
(この本を含む2冊の本の書評)
C:http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/01/history-dates-english
(ジェンキンス自身による紹介。以上、いずれも9月2日アクセス)
D:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/d651676c-dd30-11e0-b4f2-00144feabdc0.html#axzz1YAkA8FwL
(この本を含む3冊の本の書評。9月17日アクセス)
に大いにヒントを得ていることをあらかじめお断りしておきます。

 というのも、この本の「黄金の織り糸は、同意による政府という観念に関する慣習とコンモンローの進化に対する<著者>の関心」(B)であり、「この本のテーマがあるとすれば、それは、議会の発展(growth)」(D)であるからです。
 なお、「この本に書かれていることで新しいことは何もない」(D)というのが事実だとすれば、イギリス議会の歴史などというものは、イギリス人にとっては常識の部類にほかならない、ということになりそうです。
 ただし、「この本は、このテーマを十分展開していない(this is insufficiently developed)」(D)ようなので、相当補充しつつジェンキンスの言わんとするところを把握しなければならない、ということになりそうです。
 いわんや、その書評類においてをや。

 申し遅れましたが、ジェンキンスは、オックスフォード卒で新聞コラムニストで著述家であり、以前ザ・タイムス紙の編集長をやり、2008年11月から英国のナショナルトラスト(the National Trust。英国の自然環境・歴史的環境保護のための民間組織)
http://ejje.weblio.jp/content/National+Trust
の会長を務めています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Jenkins

 この本(の書評類)に出会うまで、私は、話のタイトルは決めたものの、どうまとめたらよいものか、頭を悩ましていました。
 その呻吟ぶりに、コラムにおける時々の記述(注1)から気づいておられた方もあるいはいらっしゃるかもしれません。

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 (注1)
 「ロンドン滞在中の1988年、大書店でイギリス議会制度の起源についての本を探していると店員に聞いたら、そんな本はないと言われて当惑したことがある。コラムでもまともに取り上げたことがない。そこで、勉強を兼ね、今度のオフ会の「講演」のテーマは「イギリスにおける近代議会の誕生」にしたい。」(コラム#4957)
 「マグナカルタは(法の支配と裏腹の関係にあるが、)自由主義の起源であって民主主義の起源とは言えまい。更に、議会制の起源をフランスの三部会的なものに求めるのもおかしいのであって、ゲルマン文化直系のイギリスの議会・・議会主権・・に求めるべきであり、これこそ近代民主主義の起源でもあると考えるべきだろう。」(コラム#4797)
 「今度のオフ会の「講演」のテーマは「イギリスにおける近代議会の誕生」にしたい。」と申し上げた上で、「このテーマ、ボクにとっちゃ単純にオモシロイ・・なんで世界中でこんだけ当たり前になっちゃった制度が、しかし、イギリスで形成されるまで世界のどこにもなかったのかを知りたい・・んだけど、原点を振り返ることで、現在の日本の政治・・イギリス由来の議院内閣制に立脚した政治・・についての理解が深まる、とでも言えば、皆さんの興味もちったあ湧くんじゃないかな」(コラム#4957)
 「(コラム#4800に関し)直接民主制は民主主義独裁(内部崩壊)ないし帝国主義(膨張的崩壊)へのベクトルを内包してるってことだな。
 じゃあ、崩壊を免れうる民主制とはいかなるものか。
 これは、次回のボクの「講演」のテーマ、どうして間接民主制がイギリスで生まれたのか、それはどんな間接民主制だったのか、につながる。」(コラム#4963)
 「次の「講演」テーマ、「イギリス議会制度の起源」。なんでそんな本ないってロンドンの書店の店員が答えたのかだんだん分かってきた。第一に起源なんてない、第二に、それは「イギリスの起源」とほとんど同値であり、設問が巨大かつ漠然としすぎている、からだったんだ!答えようとした日本人いないか?」(コラム#4971)
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 さて、最近のイギリスでは、世界史はおろか、英国の歴史についての叙述すら行われなくなり、イギリス単独の歴史を叙述する試みが増えてきています。
 具体的に言うと、英国と(英国以外の)世界との関係性は言うに及ばず、英国と(地理的意味での)欧州との関係性どころか、イギリスとウェールズ、スコットランド、アイルランドとの関係性すら捨象したイギリス史が叙述される事例が増えてきています。
 例えば、ジョン・ジュリウス・ノリッジ(John Julius・・・Norwich)(注1) は、その上梓したばかりのイギリス史の本の中で、自分は「イギリスがその隣人達の誰とも全く似ていない」ことに驚き続けている、と記し、イギリス史が世界の諸民族や諸国の歴史の中で際立ってユニークなものであることを示唆しています。

 (注1)John Julius Cooper, 2nd Viscount Norwich(1929年〜)。英国王ウィリアム4世と情婦の間にできた子供の子孫。外交官、歴史学者、旅行記作家、TVパーソナリティー。イートン、ストラスブール大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Julius_Norwich

 もっとも、一昔においても、当時の有名なイギリス史の本をものしたところの、ルドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)<(コラム#356、712、2456、4446、4568)>は、そのユニークさの故に、「イギリス人しか分からないイギリスをほかの連中が分かるわけがない」、と喝破したところであり、最近のイギリス史の叙述振りは、かつてのそれへの回帰である、と言うべきかもしれません。
 (以上、特に断っていない限り、Dによる。)

 そもそも、イギリス史は(イギリス以外の)世界史に多大な影響を与えたけれど、世界史はイギリス史にほとんど影響を与えていない、とイギリス人の多くは思っていたし、現在でもそう思っているのです。
 「<歴史の本のイギリス人>読者の大部分はイギリスは他とは異なっていると本当に信じている。ジョージ・オーウェル(George Orwell)<(コラム#508、739、1105、1254、2099、3243、3873、3929、4107、4471、4676、4866)>同様、我々<イギリス人>の大部分は、「ビールはより苦く(bitterer)、金属貨幣はより重く、草はより青い(greener)」等々と本能的に信じている。これらの事柄が事実その通りであるかどうかは問題ではない。我々がこれらを信じているという事実が、我々につかみどころのないものであるところの、<イギリス的>国民性(national character)なるものを我々に与えているのだ」(A)というのですからね。
 ですから、イギリス(英国)史の叙述振りが、長い間、(韜晦目的なのか、ポリティカル・コレクトネスの観点からなのかはともかくとして、)このようなイギリス人読者達の常識に反したものになってしまっていた方が異常だった、ということになりそうです。
 それにしても、イギリスでどうして最近、このような変化が現れたのでしょうか。
 私は、イギリスにおける歴史叙述のこのような変化を、(私がかねてより主張しているところの、)戦後イギリスの劣化の一環ととらえるべきではなく、「スコットランドとウェールズの<イギリスからの>分離傾向の漸進的進展や、全球化への<イギリス人の>静かな反応」(A)である、ととらえるべきだと思っています。

 さて、イギリスにおける近代議会の誕生を考えるに当たっては、イギリスとは何ぞや、ということをまず押さえておく必要があります。

2 イギリスという領域の成立

 しかし、そのイギリスという領域は、そもそも、いつ、どのように決まったのでしょうか。

 なでしこ・ジャパンの活躍で現在日本が盛り上がっていますが、このサッカーがイギリスで生まれ、英国内にサッカー協会が、イギリス、スコットランド、ウェールズにそれぞれあって(注2)、ワールドカップにそれぞれが出場権を有する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
ということをご存じの方は多いでしょう。

 (注2)「ザ・フットボール・アソシエーション(The Football Association)は、イングランドのサッカーを統括する競技運営団体。略称はThe FAである。 1863年に創立された世界最古のサッカー協会で、このため英語の正式名称には定冠詞で称され、国名がついていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%8D%94%E4%BC%9A

 そのイギリスと、スコットランド及びアイルランドの間には、このところ、遠心力が働いているように見えます。
 「1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も<史上初めて>開設され、地方分権的自治が始まった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
という有様ですし、先般の英国における大暴動の際、それが最高潮に達した頃、BBCがそれを「英国」の大暴動ではなく、「イギリス」の大暴動と呼ぶことに意思統一した
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/08/short-history-england-simon-jenkins-review
のは、それがイギリス以外には全く波及しなかったからだったのです
http://londontimes.blog.co.uk/2011/08/11/bbc-blame-the-english-11652417/
が、このことも示唆的です。

 つまり、イギリスとスコットランドとウェールズは、それぞれ、現在でもなお、明確に異なった文化を維持している地域であり、それぞれが異なった国であったとしても少しも不思議ではない、ということなのです。

 実は、大ブリテン島内におけるイギリス(England)、スコットランド、ウェールズ、という領域の起源は古く、それぞれの領域には、基本的に一貫して変化がないのです。
 イギリスとスコットランドの境はハドリアヌスの壁(Hadrian's wall)であり、イギリスとウェールズの境はオッファの土手(Offa's Dyke)とほぼ一致しています。(C)
 ハドリアヌスの壁は、当時ローマ帝国領であった大ブリテン島において、まつろわぬ北方種族に対する防衛という目的等のために、皇帝ハドリアヌスの治世において、皇帝が大ブリテン島訪問した紀元122年から構築が始まり、6年かけて概成しています。(注4)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hadrian's_Wall

 (注4)ハドリアヌスの壁が構築された時、ローマが実効支配していた領域はこの壁の北方まで広がっていた。その後の紀元142年から約12年かけて、皇帝アントニウス・ピウスの命により、これより北方において、ローマの実効支配の北限に構築されたのがアントニヌスの壁(Antonine Wall)。完成後20年でこの壁は放棄され、ローマ軍はハドリアヌスの壁まで後退する。208年に皇帝セプティミウス・セヴェルスによってローマ軍はアンドニヌスの壁まで再び前進させられ、この壁の修理が命ぜられる。しかし、その数年後、再びこの壁は放棄される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Antonine_Wall

 オッファの土手は、アングロサクソン諸王国中のマーシア(Mercia)の王オッファ(Offa)によって757年から796年にかけて構築されたとされたために、このような名前がついたものですが、最近、その歴史はもっと古く、ローマが大ブリテン島から撤退した5世紀まで遡るのではないか、という有力説が出てきました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Offa's_Dyke
http://en.wikipedia.org/wiki/Wat%27s_Dyke
 それはともかく、通説のように、仮にオッファがこの土手を初めて構築したとすれば、それは、ウェールズ地方のブリトン人の諸小王国から自分の国であるマーシアを守るためだった、ということになるわけですが、ウェールズ地方の諸小王国は、いずれも、去って行ったローマ人の将軍から統治権を委譲された、あるいはこの将軍の血をひく、ブリトン人有力者を祖とすると称した王家をいただいている、というのが面白いところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wales
http://en.wikipedia.org/wiki/Magnus_Maximus
 ローマが410年に大ブリテン島から撤退すると、ブリトン人は、外敵の侵攻を防ぐため、アングル族やサクソン族やジュート族、すなわちアングロサクソンの傭兵を使ったところ、やがてこの傭兵が叛乱を起こし、大ブリテン島中にアングロサクソンの支配地域ができます。
 そして、このアングロサクソン支配地域は次第に拡大し、ローマが支配することのなかった島の北端を除いて、大ブリテン島は完全にアングロサクソンに席巻されようかという状況になります。
 この趨勢が一旦巻き返されるのが紀元500年から550年の間です。
 この「事件」が、後に、ブリトン人たるアーサー王のアングロサクソンに対するバトンの丘(Badon Hill)での勝利、という伝説に仕立て上げられて行く(後述)のです。
 その後、アングロサクソン支配地域は再び西方に広がり、現在のウェールズに押しこめられてしまったところの、ブリトン人の諸小王国とアングロサクソンとの境界が6世紀末には固まり、これら諸小王国と境界を接していたアングロサクソンの王国マーシアの王が、この境界に沿って上出の土手を設けた、というわけです。
 そして、この境界より西側がウェールズと呼ばれるようになるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wales 前掲
http://en.wikipedia.org/wiki/Sub-Roman_Britain
 また、アングロサクソンは大ブリテン島の北端ではローマの支配を受けたことのない人々の抵抗を受け、結局、ハドリアヌスの壁のあたりで境界が定まり、その北側がスコットランドと呼ばれるようになるのです。

 以前、イギリスはローマに征服されたにもかかわらず、ローマの影響を受けなかったと申し上げたことがあります。
 今でも、この考えに変わりはありません。
 しかし、大ブリテン島中、ローマに支配されることがなかったスコットランドと、ローマの後継と自らを信じた人々が押しこめられたウェールズ以外の地域がイングランド(England=イギリス)と呼ばれるようになったのです。
 すなわち、地理的概念としてのイギリスが成立したのは、ローマによる大ブリテン島支配のたまものである、ということにあいなるわけです。
 そして、この、北はスコットランド、西はウェールズによって劃されたイギリスにおいて、まことに霊妙なる化学反応が起こり、その中から、近現代のすべてを萌芽としてその内に孕むところの新しい画期的な文明が誕生したのです。

3 イギリス人の三つの属性

 (1)序

 このイギリスの住民、すなわちイギリス人には、三つの基本的属性があります。
 「自治の精神」と「生業としての戦争」と「豊かさの下での個人主義」です。
 以下、順次見て行くことにしましょう。

 (2)自治の精神

 ジェンキンスは、「<アングロ>サクソン、ノルマン、そしてチューダーは、ブリテン諸島<(イギリスと読み替えるべき。(太田))>を征服できたが、そこの人々を抑圧することも、彼らのより広範な自治への希求を抑圧することもできなかった。」(D)としています。

 ここに出てくる、アングロサクソンによる(北部、及び西部の一部を除く)大ブリテン島の征服と、1066年のノルマン・コンケストについては、説明は要しないでしょう。

 ジェンキンスが、チューダーによる征服・・1457年のヘンリー・チューダーのヘンリー7世としてのイギリス王就任・・を持ち出したのは、強いて言えば、チューダー朝の成立をウェールズによるイングランドの征服、と見ることもあながち牽強付会ではないからではないでしょうか。
 何せ、ヘンリー・チューダーは、紛れもなくウェールズ貴族の血筋ではあっても、イギリス王家(プランタジネット家)の血筋などあってなきがごとしだったのですから・・。
 「オーウェン・テューダー/キャサリン夫妻の長男エドムンド(Edmund)の妻のビューフォートのマーガレット(Margaret Beaufort。1443〜1509年)は、イギリスのエドワード3世(1312〜77年。イギリス国王:1327〜77年)の玄孫(=曾孫の子=孫の孫)なので、断絶はしておらず、だからこそ、ヘンリー・チューダーはイギリス国王になれたのだ。」と私が以前(コラム#4478で)書いたことを思い出してください。

 面白いことに、この征服者達は、いずれも、被征服者達の自治の精神に感化され、イギリスの自治を侵す外からの力をはねのけようとしてきました。

 どうしてそんなことになったのでしょうか。
 
 それを解く鍵は、上出のバトン山(Mount Badon=Mons Badonicus)の戦いでのブリトン人のアングロサクソンに対する勝利にあります。
 これは、6世紀にブリトン人のギルダス(Gildas。500?〜570年)が初めて叙述した「史実」であり、490年から517年の間に起こった出来事である、と考えられています。
 そして、9世紀になってこの戦いのブリトン人側の総大将がアーサー王であったとされるようになります。
 この事件は、勝利したブリトン人だけでなく、アングロサクソンにも、そしてアングロサクソンの支配下にあったブリトン人にも多大なる感銘を与えたと思われます。
 それは、戦争による略奪を生業とするところの非キリスト教徒・・私の言葉に置き換えれば非倫理的な人々・・たるアングロサクソンの、平和的な自治と経済活動とを旨とする、キリスト教徒たる・・倫理的な・・ブリトン人による敗北と受け止められたのであろう、と私は考えています。
 その後、アングロサクソンのキリスト教への改宗が急速に進んだこと、そして、やがて、騎士道を体現していたとされたところのアーサー王とこのバトン山の戦いとが結び付けられたこと、がその根拠です。
 (以上、事実関係は下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mons_Badonicus
http://en.wikipedia.org/wiki/Gildas
 すなわち、バトン山の戦いは、本来の騎士道、すなわち、「女性を含め、個々人が、自由に己の意思に従って行動すべきこと、その個々人が相互に約束を取り交わし、その約束を守ろうとする結果として社会が成立すると考えるべきこと、そして、その社会は、個々人が相互に思いやりを抱きつつ、場合によっては自分を犠牲に供することによってのみ維持できる」(コラム#4926)という価値観を持った人々による、かかる価値観を持っていなかった人々に対する勝利であったのであり、その結果、その北端を除くところの、当時の大ブリテン島の住民全体が、かかる価値観の虜となるに至ったのではないか、と私は想像しているのです。
 その結果、アングロサクソンは、自分の支配下にあるブリトン人からの略奪(収奪)を止め、戦争による略奪は、大ブリテン島で自分の支配下にある地域であるイギリス、の外においてのみ行うこととしたのではないか、とも思うのです。
 こういう形で、アングロサクソンとブリトン人の間で化学反応が生じ、アングロサクソン文明が生まれた、というのが私の仮説です。
 その中から登場したのが、民の自治を尊重するとともに、「その生涯を通じて・・・民にとって何が最も良いことかだけを考え続けた」アルフレッド大王(コラム#3954。なお、4391にも出てくる)(注5)です。

 (注5)Alfred the Great。849〜899年。在位:871〜899年、イギリス七王国のウェセックス王。アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリス唯一の大王。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B

 ジェンキンスは、「イギリス史における大きな出来事のほとんど大部分はこの<自治をめぐる>闘争だった。ベケットの殺害、マグナカルタ、ヘンリー8世の暴政(tyranny)<(カトリック教会との断絶)>、国王の神聖性に対する戦い<(17世紀のイギリス内乱)>、そして普通選挙を目指す運動<(19世紀のチャーティズム)>。それぞれの事例において、中央権力が、教会、貴族(baronage)、議会、あるいは人民と対峙した」としています。
 (以上、Cによる。)

 ちなみに、これは、ジェンキンスが二つに分けて記述している部分を私が一つにまとめてみたものです。

 さて、ベケットの殺害というのは、カトリック教会に対して征服者達がイギリスの自治を守るために起こした、次のような事件です。(既にコラム#1025で詳説した上、1334と3128でも触れていますが、復習をしておきましょう。)

 「<フランスに広大な所領を持つプランタジネット家の初代の>ヘンリー2世<(コラム#1025、1064、1334、2384、3128、3790、3816、4468、4470、4472、4474、4476、4478、4531、4920)>は王による教会支配を強化しようとしたが、かつて大法官としてヘンリー2世に仕え、腹心とも呼ばれたカンタベリー大司教のトマス・ベケット<(Thomas Becket。1118〜1170年)>は、教会の自由を唱え、事あるごとに王と対立した。
 特に、裁判制度の整備を進める上でクラレンドン法を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。
 1170年、王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士がベケットを暗殺したが、人々はベケットを殉教者と見なし、ローマ教会は即座にベケットを列聖した。ヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額ずき懺悔をするとともに、教会への譲歩を余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC2%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)#.E3.83.88.E3.83.9E.E3.82.B9.E3.83.BB.E3.83.99.E3.82.B1.E3.83.83.E3.83.88.E6.AE.BA.E5.AE.B3

 次に、マグナカルタは、被征服者達がイギリスの自治を守るためにジョン王に調印させたものであることはご存じのとおりです。
 ヘンリー8世によるカトリック教会との断絶は、今度は、征服者達がイギリスの自治を守るために断行したものですが、これについては復習するまでもないでしょう。
 また、イギリス内乱・・日本で言うところの清教徒革命・・については、被征服者達が征服者達からイギリスの自治を守るために起きたわけですが、これについても復習する必要はないでしょう。
 チャーチズムは、1836〜42年に行われた、男子普通選挙等を求める運動であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
いわば、被征服者達の中下層がイギリスの自治の完成を、征服者達と被征服者達の上層に求めたものです。

 (3)生業としての戦争

 ジェンキンスは、次のように記しています。
 「ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book<=英国王 William 1 世が 1086 年に作らせた・・・土地台帳
http://ejje.weblio.jp/content/Domesday+Book
)の時代から今日に至るまで、イギリスの統治者達の強迫観念は、戦争だった。
 それは、最初、フランスとスコットランドに対して行われ、次いで帝国のため、更には欧州と世界の平和の保証のために行われた。」(C)

 イギリス人の生業としての戦争については、これまで累次(『防衛庁再生宣言』139頁、コラム#41、61、72、81(のQ&A)、82、125、307、399、426、489、616、726、852、857、1427、1815、2210、2271、2334、2352、3513)取り上げてきています。
 なお、コラム#41のアングロサクソン起源論はその後大幅に修正していることに注意してください。
 また、コラム#852で、ゲルマン人が戦争を生業にしていたことの典拠を『ゲルマニア』から引用する形で説明しているところです。

 (4)豊かさの下での個人主義

 三つの属性の最後は「豊かさの下での個人主義」です。
 私に言わせれば、これこそ、第一にあげられなければならない属性なのですが、ジェンキンスの本(の書評類)には抜け落ちています。
 これが、イギリス人にとっては当たり前過ぎる属性だからなのか、それとも、私がかねがね申し上げているところの、隠したいがゆえの韜晦なのかは定かではありませんが・・。
 この属性については、既に、以前詳しく説明しているのでここでは繰り返しません。
 (豊かさについてはコラム#54、4009を、個人主義についてはコラム#88、89を、様々な意味で似通っていたイギリス地方とスイス地方が、それぞれアングロサクソン(個人主義)文明と欧州(全体主義)文明の祖に分かれた要因は、前者の豊かさ、後者の貧しさであったことについてはコラム#61を、それぞれ参照してください。)
 この属性がいかに我々の常識を超えるものであるかに思いを致してください。
 14世紀初め、黒死病で人口が激減した後のイギリスの一人当たり所得が増えてみんながハッピーになったという話をコラム#54でし、また、同じころの駐英ヴェネティア(ベネティア)大使の、イギリスでは親が子供を手元に置きたがらず、徒弟奉公に出して経費節約を図ろうとする、という観察をコラム#89でご紹介したところですが、この二つの話に言及しつつ、’A World by Itself--A History of the British Isles'(コラム#3763、3788、3962、4009)は、黒死病の後、11世紀末当時の200万人まで激減したイギリスの人口は、14世紀末になっても回復しなかったとした上で、その原因について、次のように記しています。
 「<徒弟奉公に出す>慣行が、息子達や娘達が10代で結婚するのを不可能にしたのだろう。例えば、中世イギリスにおける徒弟達は、典型的には、主人に7年間にわたって拘束され、その間、結婚することは許されなかった。・・・これほど子供が生まれなかったものだから、高齢者の世話は家族から慈善事業・・私立救貧院(almshouse)といった私的慈善事業と地方自治体(commune)ないし地方行政区(parish)のコモン・ボックス(common box<=16〜17世紀に英国でギルドに代わり組織された相互救済制度
http://ejje.weblio.jp/content/common+box」>
)・・へと移行し始めた。」(PP140〜141) 

(続く)