太田述正コラム#4987(2011.9.12)
<皆さんとディスカッション(続x1321)>

<太田>(ツイッターより)

 <昨>日山東省の済南でなでしこの対中国戦が行われ<た>が、対北朝鮮戦が行われていた頃、ちょうど非公開コラムで済南事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を取り上げていて、複雑な気持ちになった。
 日本のメディア、日本の戦前史の転換点となったこの1928年の事件に全く触れないんだもんね。

 経産相後任に枝野前官房長官が内定。
http://www.asahi.com/politics/update/0912/TKY201109120047.html 
 これだけすぐ大臣が変わると、秘書官はそのままだろうし、ご進講資料も表紙だけ取り換えりゃいいので、官僚もちったあ助かるけどね。
 さーて、次はどの大臣の入れ替わりが起きるのかなあ。

<ννζζ>(「たった一人の反乱」より)

 「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEED機砲隆兮結果を非公開とするよう指示したのも枝野氏だった。」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110826/plc11082620530037-n2.htm
という記事だけど、SPEEDIで計算させて、3月23日に公表させたのは枝野だったそうだ。12:20〜
http://www.dailymotion.com/video/xl110i_yyyyyyy-yyyyyy-1_news

<原発安全神話の崩壊>

 「大気中からの降下分などを合わせた海洋への放射能放出総量が1.5京(1京は1兆の1万倍)ベクレルを超えるとの試算をまとめた。
 東電は4〜5月に海に流出した汚染水の放射能量を約4720兆ベクレルと推定しているが、試算はこの3倍以上に達する。
 原子力機構の小林卓也研究副主幹(海岸工学)らは、漏えいした汚染水の影響に加え、東電が公表したモニタリング数値などを用いて、大気中に出されたヨウ素131とセシウム137が海に降り注いだ状況をシミュレーション。同原発放水口付近の海水から放射性物質が初めて検出された3月21日から4月30日までの放出総量を試算した。
 その結果、海に放出されたヨウ素131は1.14京ベクレル、セシウム137が0.36京ベクレルで、計1.5京ベクレルとなった。セシウム134はシミュレーションでは考慮していないことから、放出総量はこれを超えるという。」
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011090800051

 まじめに、福島県の人は逃げたほうがいいんじゃないですか。
 ドイツが報道した動画がUPされてましたよ。
 原発から80km離れててもヤバいと思いましたよ。
 地面から水蒸気が出ている、ということの恐ろしさに気づいていない人が多い。
 結論から言えば、もう手の施しようがない恐ろしい事態になっている。
 政府はマスコミに報道しないようにしているんだろうが、ネットがある現代はそんな小細工無理だ。
http://www.youtube.com/watch?v=4bD7SuXVpc4

<太田>

 原発事故をめぐる様々な疑問がまとめられている。↓
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819595E3E2E2E2E58DE3E2E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

<田吾作>

≫次の「講演」テーマ、「イギリス議会制度の起源」。なんでそんな本ないってロンドンの書店の店員が答えたのかだんだん分かってきた。第一に起源なんてない、第二に、それは「イギリスの起源」とほとんど同値であり、設問が巨大かつ漠然としすぎている、からだったんだ! 答えようとした日本人いないか?≪(コラム#4971。太田)

を読んでたまたま読み散らしていた資料(「旗」に関する)を思い出しましたのでお送りします。

 「●イングランド王国とスコットランド王国の合併

 たとえば,英国の合併問題です。私たちが今ふつう「英国」とか「イギリス」と呼んでいる国の正式名称が, 「大ブリテンおよび 北部アイルランド連合王国」であることは, 『世界の国旗』 (仮説社, 1990)の20ページや『世界の国ぐに』 (仮説社, 1992)の52ページなどにしばしば書いてきたことです。
 「連合王国」というからには,その前に連合していなかった時代があるわけですから,どこかの時点で二つ以上の国が合併・併合したわけです。それなら, いつどのようにして合併・併合したのでしょうか。

 イングランド王国とスコットランド王国が合併したのは, 1707年のことです。
 その話は,『世界の国旗』にも出ていますが,私はそのとき,イングランドとスコットランドの「二つの国が1707 年 に合体したとき」と書いて,「合併・併合」という言葉を用いませんでした。
 このとき,新しく出来た国の国旗は両国の国旗を混ぜ合わせた形のものになったのでしたが,そのとき国名も変わって「大ブリテン王国」と呼ばれるようになったことは, 『世界の国ぐに』に指摘しました。
 合併に際して,国名や国旗まで変わっていることに注意して下さい。

→不正確極まりない記述です。
 なぜなら、イギリス(イングランド)とスコットランドの合併(1707年)の際に採択された国名(Kingdom of Great Britain)も国旗も、既にイギリスとスコットランドの同君連合成立(1603年)の直後(1606年)に、それぞれ非公式、公式に成立していた
http://en.wikipedia.org/wiki/Flag_of_the_United_Kingdom
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Great_Britain
からです。(太田)

 ところが, 「日韓併合」のときには,日本の国名も国旗も変わっていません。
 そのことを見ただけでも, 日本と韓国が平等の条件で合併していないことが明らかでしょう。
 合併・併合問題のときには,国名や国旗がどうなったか注意してみることが重要な視点になるわけです。

→例にあげるのなら、そんなアジア大陸東端での、しかも最近における保護国併合ではなく、イギリスによるウェールズなる保護国の併合(1282年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Wales#Medieval_Wales
をあげる方が適切だったのではないでしょうか。(太田)

 それなら, 「イングランド王国とスコットランド王国が合併する」ということは,どういうことだったのでしょうか。
 そのときイングランド王国がスコットランド王国を武力征服したのでしょうか。
 それとも,そのとき婚姻政策か何かで,イングランドの国王がスコットランドの国王を兼ねることになったのでしょうか。
 いいえ, そのどちらでもありません。

 じつは,イングランド国王はずっと前――1603年にはもう,スコットランド王国の王をも兼ねていたのです。
 その年イングランド国王のエリザベス女王が死んだとき,子どもがいなかったために,イングランド王の王位継承権をもっていたスコットランドの国王ジェームズ六世がイングランドのジェームズ一世となって,両方の国の国王になったからです。

 それなら, 「イングランド王国とスコットランド王国とが合併して大ブリテン王国に変わったのは,正確には1603年のことだ」と云うべきなのでしょうか。
 実際, 1603年以後「連合王国が発足した」と書いてある歴史の本もあります。
 それなのに,なぜ「イングランド王国とスコットランド王国は1707年に合併した」などというのでしょうか。
 1707年に何があったのでしょうか。
 あなたはどう思いますか。

 じつは,その年,イングランド王国の議会とスコットランド王国の議会とが合併したのです。
 そしてはじめて,国名も国旗も変わったのです。
 これを見ても,英国という国は「国王の国ではなくて,議会の国だった」ということが分かるというものです。

→イギリスは、「・・・議会の国だった」、すなわち議会主権(King in Parliament)の国だった、と言えても、スコットランドについてはそうは言えません。(太田)


 ●近代国家にとっての国王と議会

 私は長い間,そういうことに関する正確な理解がなかったために,分からないことが沢山あって困りました。

 1642年にイングランド王国にピューリタン革命が起きたとき,イングランドのチャールズ一世王はスコットランドの国王も兼ねていました。
 そこで,チャールズ一世王はイングランドの議会と争う一方,スコットランドの議会と取引きするなどしたあげく, 1649年に処刑されてしまうのです。
 私はこの時代すでにイングランドとスコットランドとは一つの国になっていたと思い込んでいたので,その歴史の推移が飲み込めずに長い間困ったのです。

 じつは,イングランド王国とスコットランド王国とは,同じ国王によって統治されているとは言っても,議会が別だったので, 別の国と言えたのです。

→既述したことから、このような記述は誤りに近い、という言うべきでしょう。(太田)

 そこで,1649年に国王チャールズ一世がイングランドで処刑されて以後もしばらく,スコットランドではその子チャールズ二世を国王として,共和制のイングランドと争っています。
 一時スコットランドの国王になったチャールズ二世は,1660年に亡命先から帰国してイングランドとスコットランド両国の国王にもなりました。
 その後,その弟のジェームズ二世が両国の国王となったのですが,議会の嫌う旧教導入政策をとったために,イングランドの議会が1688年に国王ジェームズ二世を追放したときも,スコットランドの議会はイングランドの議会と同一歩調をとりました。
 そのとき,両国の議会は<ウィリアム三世とその妻メアリー>を国王に迎えたのですが, 1702年にその妹アンが両国の女王となったころからイングランドとスコットランドの議会の合体運動が進んで,1707年に正式に合体することになったのです。

→同上。(太田)

 じつは,いま私白身の書いた『世界の国ぐに』(1992)の52ペー ジを開いてみたら, 「1707年にはイングランド王国の女王だったアン女王がスコットランドの女王をも兼ねることになり,イングランド王国とスコットランド王国が合併して,……」と書いてありましたが,これはとんでもない間違いでした。
 二つの国の議会が合併したので,イングランド王国とスコットランド王国とは, 「大ブリテン王国」という一つの国に合体した,と書くべきでした。
 1707年,スコットランドの法律と行政はそのまま残るのですが, スコットランドは16名の上院議員と45名の下院議員をロンドンの議会に送ることになったのです。

→もともとの文章は、無知丸出しの程度がひどすぎて言葉を失います。
 書き直し後の文章は、一見もっともらしいのだけれど、何度も申し上げたように、このような記述は誤りに近い、という言うべきでしょう。(太田)


 ●大ブリテン王国とアイルランド王国の合併

 その「大ブリテン王国」とアイルランド王国が合併したのは, 1801年のことですがそのときにはどういうことが起きたのでしょうか。

 英国(=大ブリテンおよび北部アイルランド連合王国)とアイルランド共和国とは今も仲が悪くて,紛争が続いています。
 それはこのとき,大ブリテン王国がアイルランド王国を武力併合でもしたことが元になっているのでしょうか。
 それとも,この二つの王国も,イングランド王国とスコットランド王国が合併したときのように,平和のうちに合併したのでしょうか。
 あなたはどう思いますか。

 じつは,イングランド王国は1169年以来アイルランド島への侵略をすすめていました。
 そして,イングランドの国王ヘンリ一八世は1641年にはもう「アイルランド国王」とも称していました。
 しかし,もともと旧教徒だったアイルランドの人々は新教のイングランド国王に対する反抗を繰り返しました。

→「もともと旧教徒だった」点ではイギリス(イングランド)も同じです。(太田)

 そこで,ピューリタン革命のとき権力を握ったクロムウェルはアイルランドに軍を送って旧教徒を厳しく弾圧して,植民地化をすすめました。

 イングランド・スコットランドの1660年の王政復古以後も,アイルランド王国は同じ国王のもとに統治されました。
 だから,私の『世界の国ぐに』の53ページに, 「1801年には大ブリテン王国のジョージ三世王がアイルランド王国の王も兼ねるようになったために,二つの国が合併して……」と書いたのは間違いです。
 私はこの本を書く前から,英国の合併問題については一通り理解しているつもりだったのですが,その理解が浅かったために,たまたま参考にした本の間違いを踏襲してしまったのでしょう。
 基本的な間違いで申し訳ありませんでした。急いで訂正したいと思います。

→そんなデタラメなことが書いてある本が本当にあったとは、にわかに信じ難いものがあります。
 単に、筆者がそう思い込んでいただけであった可能性が大です。(太田)

 イングランドやスコットランドと違って,アイルランドでは議会が発達していませんでした。
 そして,新教徒の英国人が旧教徒のアイルランド人を征服するという形で,植民地支配が続いたのです。
 そこで, 1776年にアメリカが独立宣言を発して独立を達成 , 1789年にフランス革命が起きると,アイルランド王国でも自治または独立を要求する運動が活発化しました。
 そのために,大ブリテン王国の議会は,アイルランド選出の議員を迎えることにしたのです。
 そこで,前から同じ国王の統治を受けていたアイルランド王国も,議会を同じくしたのです。

 そこで, 1801年1月1日「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」が発足することになって,そのとき国旗も変わりました。

 ところが,その後もアイルランドの独立運動がつづきました。
 そこで, 1922年にはアイルランドの北部を除く部分が独立したので, そのとき国名がもう一度変わって「大ブリテン・北アイルランド連合王国」となったというわけです(これらの問題については,本誌1994年1月号に「英国という王国の成立」と題して書いたことがあるので,それも参照して下さい)。

 このように見てくると,同じく「併合・合併」と言っても,アイルランドの合併は,イングランドとスコットランドの合併のときとは随分違うことが分かります。

→筆者は違いを際立たせて書いていますが、大ブリテンとアイルランドの合併は、イギリスとスコットランドの合併と基本的に同じ形で行われた、と言っていい
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Ireland
でしょう。(太田)

 それで,北アイルランドではいまなお激しい武力による争いが続いているというわけです。

→北アイルランド紛争の原因の記述としては短絡的すぎます。(太田)

 それは,イングランドとスコットランドとでは民族も言葉もあまり変わらないのに,イングランドとアイルランドとでは民族も言葉もかなり変わっていることにもよるのでしょう。
 併合問題を考えるときには,民族・言語・宗教の問題に注目することが必要なのです。

→スコットランドとアイルランドは、イギリスと民族が異なるとは(民族の定義にもよるけれど)必ずしも言い難いですし、言語に関しても、それぞれイギリスと合併した当時にはイギリスと同じく英語になっていました。
 ただし、宗教に関しては、非カトリックということでスコットランドとイギリスは同じであるのに対し、アイルランドはカトリックなので、確かに異なります。(太田)

 そういえば,最近ではスコットランドにも独立運動があるということです。


 ●ヨーロッパの国王というもの

 なお,ヨーロッパの歴史の上には,イングランドやスコットランドなどのように,別の国なのに同じ国王が統治した国が少なくありません。
 カール五世(1500・1558)は「カルロス一世」としてスペイン王となったのち,1519年にドイツ皇帝にも即位して,スペインとオランダとドイツその他の皇帝となっています。
 そこで,その広大な領地をもつカール五世の国のことを,その王朝名をとって「ハプスブルク王国」と呼ぶ人もいます。

→カール5世は「ドイツ皇帝」になったのではなく「神聖ローマ皇帝」になったのです。
 また、彼の領地は「<ヴァロワ・ブルゴーニュ家領+>スペイン+神聖ローマ帝国+その他」ではなく、『<ヴァロワ・ブルゴーニュ家領+>スペイン+ハプスブルグ家領(オーストリア等)+その他です。』
 なお、この「その他」には、南北アメリカ大陸の大部分やフィリピンを含む、世界中のスペイン植民地が含まれていました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_V,_Holy_Roman_Emperor
 ちなみに、『』の公式名称はありませんでしたが、オーストリア君主国(Austrian monarchy)という通称はあったものの、「ハプスブルク王国」という通称はありませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Habsburg_Monarchy (太田)

 しかし,事情にうとい私たち日本人は,「国王が同じだから」というので同じ国扱いすると混乱してしまいがちですから,そういう呼び方は止めたほうがいいでしょう。

 たとえば,英国だけについて見ても, 1689年に名誉革命後の英国に<ジェームズ二世の娘だった妻のメアリーと共に英国の国王に迎えられたウィリアム三世>は, 1672年から<オランダの総督> でしたが,英国王となって以後も<オランダの総督> のままでした。
 また, 1714年にアン女王が死んだあと英国王になったジョージ一世は,もともとドイツの<ハノーヴァー選帝侯>で,英国王に就任以後も英語を知らず,ドイツの<ハノーヴァー領>のほうにばかり関心をもっていたといいます。
 ヨーロッパの歴史を学ぶときは,必ずしも「領主=国」と考えてはいけないのです。」

→あったりまえでしょうが!!
 それはともかく、以上の記述の中で、(国旗のことが念頭にあったからでしょうが、)上でも触れたところの、イギリスによるウェールズの併合に触れていない点が、やはり気になりますね。(太田)

板倉聖宣(いたくら きよのぶ)著 「近現代史の考え方」 P250−P256
 「二つの国の合併・併合の問題 ●米国のハワイ併合・日韓併合・イラク=クウェート併合など (初出)『たのしい授業』No174、1996年10月」より引用

<太田>

 情報提供ありがとうございました。

 板倉聖宣(1930年〜)のプロフィール
http://wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E8%81%96%E5%AE%A3
を見ると、歴史には全く縁がなさそうな人ですね。
 こんな人が歴史の本を出しちゃあいけませんや。
 もっとも、おかげさまで、スコットランドやアイルランドではどうして議会主権ではなかったのか、ウェールズにはどうして議会がなかったのか、といった問題意識が私に芽生えました。
 (23日のオフ会までにこれらの課題に解答を出すことができるかどうかは分かりませんが・・。)
 そういう意味で、板倉の書き物についての情報提供は貴重でした。


 それでは、その他の記事の紹介です。

 英米のものを含め、主要メディアにはこの話出てこないなあ。↓

 「ユーチューブが韓国を遮断 K-POP宣伝ツールに使った報い・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/5854408/

 カナダの議員が新華社のトロント支局長(女性)に出した「不倫」E-Mailが騒ぎを呼んでいる。↓

 ・・・Bob Dechert, a Conservative MP・・・and secretary to the minister of foreign affairs apologized・・・<for> his flirtatious e-mails・・・dated around April last year・・・to・・・Shi Rong (施蓉), the Toronto bureau chief for Xinhua・・・<Both have spouses.>・・・
 Western intelligence agencies have long suspected journalists from Xinhua of also being under the employ of the Chinese intelligence apparatus.・・・ 
 <激しいである。↓>
 One・・・read: “You are so beautiful. I really like the picture of you by the water with your cheeks puffed. That look is so cute, I love it when you do that. Now, I miss you even more.”
 <情報提供を示唆するような内容も。↓>
 Another・・・read: “Dearest Rong ... How is your day? Did your interviews at Royal Bank go well? Did you get enough information for your articles?”・・・
 <仕事までイチャつき目的に利用している。↓>
 <Another read> “I enjoyed the drive by thinking of you.・・・We [the Canadian House of Commons] will be voting at 6:30 p.m. If you have time, watch on TV or on your computer [on the CPAC Web site] and I will smile at you,・・・I miss you. Love, Bob.”・・・
http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2011/09/12/2003513069

 TVシリーズの『バンド・オブ・ブラザーズ』(コラム#4180、4184、4188)に出演した俳優達のその後が写真で紹介されている。↓
http://www.latimes.com/entertainment/news/tv/la-et-band-of-brothers-annivesary-pictures,0,67106.photogallery
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太田述正コラム#4988(2011.9.12)
<戦間期日本人の対独意識(その1)>

→非公開