太田述正コラム#4820(2011.6.20)
<イギリス人の起源をめぐって(その2)>(2011.9.10公開)

 補足しつつ、もう少し詳しくコメントしたいと思います。

 この学説は、2006年7月に発表されたもの
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1635457/
ですが、ヘルケは、記事の中にも出てきたトマスのほかに1名(Michael P.H Stumpf。名前から英国人らしい)と連名で登場しているだけなのに、この記事では、あたかもこの学説が(ドイツ人である)ヘルケ単独の学説のように誤解させる記述ぶりになっていますし、そもそも、どうして5年近く前に打ち出された学説を、あたかも発表されたばかりの学説のようにこの記事では紹介したかも疑問です。
 また、この論文ではブリテン島に到来したアングロサクソンを10,000人から200,000人としていたというのに、どうしてこの記事では上限の方の数字だけを引用したのかも不明です。
 ついでに言えば、この記事では、現代イギリス人の遺伝子構成(gene pool)中50〜100%を占める(注5)、というこの論文中の肝心の数字も引用していません。(なお、この点、バスク人説とどう折り合いをつけるのか、私としては関心のあるところです。)

 (注5)同じ3名の連名による2008年の論文
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/
によれば、Y染色体に着目した推定らしい。

 更には、3世紀末のローマ支配下のブリテン島の人口は370万人はあったところ、4世紀から5世紀初頭にかけて200万人程度まで減少した、というこの論文中の数字にもかかわらず、「約100万人<以上>の圧倒的な数のブリトン人」と迫力の乏しい誤った(?)数字をこの記事が援用した理由も不明です。

 これでは、比較的少数のアングロサクソンしか渡来していないのに、どうして現代イギリスの多数がアングロサクソン(ゲルマン)化したのかを解き明かす、というこの学説の眼目がボケてしまっています。

 アングロサクソンによる原住民の「アパルトヘイト」的支配の実態について、この記事に盛り込めなかったのは、紙面の制限があったとすれば理解はできるところ、(前掲のウィキペディアにも載っていなかった)この学説のもう一つのウリを、より詳しくこの論文に拠って解説しておきましょう。
 イネの諸法は、ウェセックスにおいて、サクソン人と「ウェールズ人(Welsh)」(原住民たるブリトン人)に対して、両者が近くに住んでいてしばしば同じ家に住んでいたにもかかわらず、異なった法的地位を与えていた、というのです。
 具体的には、考古学的指標ないし遺骨の指標から、武器を持っている男性達(成人男性の47%)は移住者や移住者の子孫であったと推定されるのに対し、武器を持っていない男性達(53%)は様々なグループに属していてその相当部分が原住民たるブリトン人であると推定されるところ、この二つのグループの地位の違いは5世紀後半から6世紀末まで続き、7世紀にはなくなった、というのです。
 アングロサクソンと同じくゲルマン人で、ブリテン島ならぬ南仏とスペインに侵攻した西ゴート(Visigoth)の王エウリック(Euric)(在位:466〜484年)(注6)は、彼が率いた者達と原住民との通婚を禁じたことと、それより600年後の11世紀にイギリスを征服したノルマン人達はイギリスとウェールズの原住民に低い法的地位を付与した法的枠組みを打ち立て、通婚は、仮に行われたとしても、ノルマン人男性とイギリス人女性の間でだけ行われた、ということが、その間接的証拠であるというのです。

 (注6)415?〜484。南仏のトゥールーズ(Toulouse)を首都として統治。(西)ローマ帝国内に侵入したゲルマン人の中で、ローマ皇帝の名目的支配から脱した(475年)最初の首長。また、ゲルマン人首長の中で法典を編纂した(471年)最初の人物でもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Euric

 そして、「低い法的地位」に関し、イネの諸法においては、サクソン人について支払われるべきヴェアギルド(wergild)(注7)は「ウェールズ人」のそれの5倍であったし、ケントのエセルベルト(Ethelbert)王(注8)の7世紀初頭の諸法では、自由人について支払われるべき贖罪金は原住民たるブリトン人と思われる人々のそれの1.25から2.5倍であった、というのです。(注9)

 (注7)weregildと綴られることもある。サリカ法(Salic Law)においては、人間と財産にはすべて金銭的価値が付与され、財産が盗まれたり、誰かが傷つけられたり殺されたりした場合には、犯人はヴェアギルド(贖罪金)を犠牲者の家族か財産の所有者に払わなければならなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Weregild
 ちなみに、「サリカ法典(・・・Lex Salica) は、フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。ラテン語で記述されており、編纂にあたってはローマ人の法律家の援助を得たと言われているが、ローマ法とは異なり、金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、自力救済を原則としていたことにも特色がある。また、サリカ法の相続条項を拡大解釈して女王及び女系継承を禁じたフランス王国の王位継承法と、それに準じた他国の相続方式も、しばしば便宜的にサリカ法と呼ばれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B3%95%E5%85%B8
 (注8)560?〜616年。在位:580/590〜616年。アングロサクソン諸王中、最初のキリスト教への改宗者。ゲルマン系言語で法典を編纂した最初の王でもある。また、アングロサクソン諸王国中、貨幣を初めて流通させたことでも知られる。妻は、当時の欧州最強国のフランクの王の娘。後にカトリック教会により聖人に叙せられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelberht_of_Kent
 (注9)http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/ (前掲)において補足的記述があり、イネの諸法において、ブリトンが、一か所の例外を除き、従属的役割ないし奴隷の地位にある旨言及されていること、唯一なされている「自由な」ブリトン人への言及においても、彼らの贖罪金が同等のサクソン人の半分に設定されていること、法廷におけるブリトン人の証言の価値がサクソン人証人のわずか半分とされていること、を指摘している。

 (以上、特に断っていない限り前掲の下掲に拠る。)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1635457/

 なお、バスク人説を意識したと思われる記述が、
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2603197/ (前掲)に出てきます。
 すなわち、バスク説において、英語の原型となった言語をブリテン島にもたらしたとされる(ガリアのベルギー地方に居住していた)ベルガエ(Belgae)人(コラム#1687)について、彼らがゲルマン系であるとするのはカエサルだけであるところ、同じカエサルが別の機会には、ベルガエ人とゲルマン人とを明確に区別しているのでカエサル自身に矛盾があり、かつ、果たしてベルガエ人がイギリス南部に移住してきたのかどうかについては何十年にわたって議論の対象となってきた、と指摘しています。

(続く)